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1998年にシングル「それじゃあバイバイ」でデビュー。親しみやすいメロディと独特の歌詞、印象的なアレンジが融合したオリジナリティにあふれるサウンドが支持を集め、精力的にライブもこなし全国にその名を広める。これまでにシングル21枚、オリジナルアルバム6枚をリリース。2010年6月13日の東京国際フォーラム公演をもって解散することを発表。■1975年12月30日東京都の葛飾赤十字病院で産まれたと思っている。勿論その時の記憶はないし、誰が何故どんな思いを込めて「慶治」と付けたのかもいまだに分からない。多分ここを読んでいる皆はちょっと驚くかもだが、俺は母親が16歳の時の子である。とても勇気のいる決断だったんじゃないだろうか?親父に会えるなら一言いいたい。「息子もいっちょまえ」■その後写真を見ると俺は千葉県成田に住んでいたっぽい。3歳ぐらいなのかなぁ?記憶は曖昧だし、親に聞いたら親も曖昧。駄目だこりゃ。すんげぇ~でっかい犬を飼っていたらしく、その犬小屋は実に4畳半ぐらいある特設の、いうならば「檻」だったらしい。(犬小屋なんて生易しいものじゃなかった)誰が来ても物凄い吠えまくる犬で、身内にも吠える駄目っぷりをいかんなく発揮していたとか。俺はそんな野獣の檻にこともあろうか入り込み、餌をがっつり食し、尚且つそのままそこで寝るほどの大胆さを兼ね備えた幼児だったらしいが、その前に親が止めろ。(無茶苦茶な親だなマジ)でも、その犬は何故か俺だけにはとても優しかったらしい。もし今その名も知らぬ犬に会えるなら一言いいたい。アナタのおかげで僕は「こんなに大きくなりました」。■その後保育園に入る頃には東京に戻ってきたっぽいんですけども、これも何歳の時だったのか分かりません。「宇宙戦艦ヤマト」を大熱唱しながらアパートの階段を転がり落ちたエピソードは自分の中であまりにも有名。流血して倒れる俺をヤクルトおばちゃんが救出。もしも今、名も知らないヤクルトおばちゃんに会えるなら一言いいたい。アナタのおかげで僕は「こんなに大きくなりました」。今でもジョア(ストロベリー)が大好きですよ!!■その後小学生低学年の頃の俺は、もの凄い大人しい子だった筈。(断言出来ないが)この頃に近所の電気屋さんにゲームウォッチ用の電池を1週間に1度ぐらいのハイペースで買いに行ったのがキッカケでその電気屋さんの息子と仲良くなる。その子の名前が野口圭。今注目の作詞家。周りがファミコンで遊んでいる中、パソコンで遊ぶ彼に憧れを抱いていた。(同じ小学校、中学校と9年間一緒の学校に通っていたわけだが、同じクラスになる事はなく、学歴の差だろうか?)高学年になると、友人も増えて元気もりもり、夢がモリモリぐらいの勢いで外で走り回る子供になっていた筈。(断言出来ないが)その当時飼っていた犬が小学4年生の頃に事故で他界した時、あまりにも塞ぎ込んで誰とも口を聞かなくなってしまい親を呼び出された事もあった。意外と繊細な部分もあり。梅宮先生、元気でしょうか・・・?僕は「こんなに大きくなりました」■その後野口の親が紅白歌合戦を録画していて、そこに映るTM NETWORKのあまりのカッコ良さに、それまで描きもしなかった「音楽(プロになりたい!!って意味ではない)」に目覚めてしまった。俺がこの世界に入るキッカケをさかのぼるとここに辿り着くんではなかろうか?野口と二人で「一緒に音楽をやろう!!(ミュージシャンになろう!!って意味ではない)」って青春していたものだ。野口に憧れて俺もパソコンを購入。パソコンで音楽を作る事を始めた。ちゃちな音しか出ないそんな機械でも、自分の作曲したもの、アレンジしたものを聞くのがとても楽しかった。元来俺は作詞、作曲で分けるならば作曲家志望だった。だって隣に作詞家として自分より上になりうる人間が存在していたから。学校には毎日のように遅刻して行き、「社長出勤」と言うあだ名もついていたほど。学校に勉強しにいった記憶は皆無。遊び場だった。うん、ホント楽しかったね。■その後高校に入っても音楽が好きって気持ちは消えず、仲良くなった奴等とすぐに軽音部に席を置く。だが、ムカツク先輩と正面衝突し、一瞬で退部。その頃はキーボードを担当していた。ヴォーカルは1つ年上の同級生M田君がどうしても歌いたかったっぽいので譲った。(1つ上には逆らえない時代なのだ)2年の頃、M川君と言う1年の頃同じクラスだった同級生に、「ちょっと歌を歌ってほしいんだけど」といきなりお願いされる。1年の頃、教室で節操なく歌っている俺を見て、「歌が上手いなぁ」と思っていたらしい。M川君が俺に頼んできた曲は、M川君が独自にリミックスしたTM NETWORKの「Don't let me cry」。これを音楽室の鍵を壊して、不法侵入し、あらゆる機材を駆使してレコーディングした。なかなかカッコイイアレンジだった記憶はあるけど、音源は持っていない。(捨てたかなぁ)3年になるとまたしてもM川君が俺に詰め寄る。「部活に所属してない一般生徒も後夜祭で演奏して良いんだって!!」と。「だから一緒に出ようよ」と。小室哲哉風味の彼は小室哲哉風味にニヤニヤしながら言った。俺も快諾。どんな楽曲を演奏するか決め、アレンジをまたしても音楽室の鍵をぶち壊して不法侵入し、そこで二人で打ち込んでいった。TM NETWORKの「Come on everybody」だったり、「あの夏を忘れない」だったり。B'zの「裸足の女神」もギターレスで歌った気がする。俺は持ってないけど、誰かが映像もってそうだ。そして、この学園祭に別のバンドで演奏していた永谷喬夫が俺の存在に初めて気付くことになる。学園祭から数ヶ月のある日、中学も同じ、顔馴染みの後輩が教室にくる。「先輩、友人が話があるって」と彼女は言う。友人と馬鹿話をしてる昼休みだったこともあり、周りからは「おいおい、また椎名さんに御氏名はいりましたよ」と、茶々をいれられ、俺もまんざらじゃない顔で廊下に出る。待っていたのは男。どう見てもズボン履いてるし。髪は長いけど男でしょ君。俺の周りの友人はあまり優しそうな面構えの奴等じゃなかったし、後輩からしたらこれ以上怖い場所はなかったらしく、友達に頼んで俺を呼び出したらしい。「あの~・・・予餞会一緒に出てもらえませんか?」どこかオドオドしながらも自分の主張はしっかりと伝える。これって意外と凄いこと。俺が自分の先輩にこんな事言えるかって考えたらちょっと無理かもなぁなんて思った。予餞会=卒業生を送る会。俺は卒業生。どっちかつ~と送られる側にいたい。留年したいわけがない。「俺今年卒業なんだけど、それに出るわけ?」との問いに「分かってるんですけど、一緒にやりたいんです」と。俺も調子いいもんだから軽々しく「いいよ、やってみようか」なんて。(後輩に良いとこ見せようとしただけの考えなし)結局、そこに永谷の友人のベース、俺の友人M川君を加入させ4人組の、一度きりのバンドが誕生するのはそれから数週間後の事。朝礼なんかでも一番後ろであぁ~でもないこうでもないと永谷と楽曲をどれにするか話していたのも懐かしい。仲良かったなぁ・・・(ぉぃぉぃ)。予餞会に向け、バンド形式をとると言う事もあり、しっかりリハーサルをしなければと、スタジオに入ったりもした。そして予餞会当日。「卒業生おめでとう!!」と俺がステージで言うも、「お前もだろうが!!」と友人からベタベタなツッコミをいただく。B'zのなんだっけなぁ・・・「Give me your love」とか色々+電気グルーヴのなんか凄い曲。ここら辺の組み合わせがちょっと凄いけど(笑)。まぁとっても盛り上がってくれました。学園祭と予餞会で大いに目立ったからなのか、とっても人気者になってました。卒業式とかホント自慢じゃないけど凄かった。そういう意味では学校でも記憶に残る男になれたわけですねぇ。おれのブレザーもらってった後輩、とっくに捨てたんだろうなぁ・・・。(自分で持ってても捨ててるだろうからいいんだけどさぁ)一夜限りのバンドのメンバーとファミレスで合流。「なんか記念に楽曲作ってから解散しない?」「だったらアルバム作ろうよ」などなど、盛り上がった為に、バンドを継続する事に。ただ、オリジナルの楽曲を作った事がある人間がいない為に俺がとりあえず作ってみる事になった。楽器等と呼ばれるものを持っていなかった俺は、直ぐに野口圭に相談。野口が簡易のキーボードを持っていたためにそれを借りる事に。しかし作曲したにしても歌う言葉がなく、野口に相談。その当時俺は深夜のコンビニでバイトしていた事もあり、「夢に向かって頑張る深夜のコンビニ店員」と言うテーマの下歌詞を書いてくれた。歌詞と言っても曲ありきで書いたわけではなく、どちらかと言えば物語を書くようなイメージ。後に「バイト」ってタイトルだったか、なんだったか曖昧だけど、俺の処女作であり、野口の処女作であり、記念すべき曲。多分野口はこの音源を持っているかもしれない。俺持ってないんだよなぁ・・・。ただ、歌える。いまだに歌える。干支が一周するぐらい前の曲を今でも歌えるってやっぱり凄い思いがある曲なんだろうなぁ・・・。この曲に永谷はギターを入れ、俺は初めて自分の声に自分の声を重ねる。いわゆるコーラスってやつだ。「うわぁ。結構それらしくなるもんだ」なんて感動しきりのスタートだった。が、処女作でいきなりバンドの危機が・・・。■その後バンドの危機はメンバーの脱退で幕を閉じた。(細かくはやめよう)結局永谷と俺、少し距離をおいて作詞家の野口圭と言う3人組がその後の形態となる。バンド名を一応つけておこうと「Style of free」、「自由」みたいな名前をつけた。高校卒業と同時に実家を出た俺は、深夜のコンビニでバイトをしながら音楽を。永谷もバイトをしていた為に集まれる日は限られていた。「毎週土曜だけは仕事を入れない。その日に集まって音楽をやる」と二人の中で決めていた。そんな事を1年間ぐらい続けていくと、そこには様々な楽曲も並ぶ。土曜の昼に永谷宅に行き、帰るのが次の日の朝とか、何故あそこまで必死に曲を作っていたのか今じゃ謎。その時の音源はまだ持っている筈。■1995年冬AXIAアーティストオーディション'96に応募。最終審査(8000組以上の中の25組)まで残るも落選。その時の審査員の一人が武部聡志さんであり、その後一緒に仕事をする事になった。この日は超落ち込んで地元の蕎麦屋で無言のまんま永谷と「ズルズル~!!」って麺をすする音だけが響いていたのを覚えてる・・・。それから数週間後にまさか事務所から声をかけてもらえるとは。「うちにこないか?」「喜んで!!」居酒屋風に即答だった。■1998年5月27日デビュー前の2年ほどを武部聡志さんと過ごし、色々なノウハウについて教わった。そしてこの日「ショムニ」の挿入歌(皆にはオープニングテーマじゃん!って突っ込まれたが)としてデビュー。CDショップに行って自分のCD見つけると変な気分になったのを覚えてる。オリコン初登場50位だったのも覚えてる。昔は左ページ(1~50位)、右ページ(51~100位)と分かれていて、事務所では「左ページに載れるように頑張ろう!!」って言ってたような?うん、左の一番下に載ったよ!!ホラ、載ったよ!!■2008年5月27日デビュー10周年。通算21枚のシングル。5枚のオリジナルアルバム。ベスト1、ライブアルバム1、ビデオ&DVD6本。色々出させてもらいました。■2010年6月13日国際フォーラムホールAにて解散ライブを行いSURFACEとしての12年の活動に終止符を打つ。おつかれっした!!■2010年11月10日ソロとして初の作品ミニアルバム「I」をリリース。販売方法がPOSCAとタワレコだけと言う新たな販売方法にチャレンジ。結果・・・。色々勉強になりました。←■2011年6月8日ソロ初のフルアルバム「RABBIT-MAN」リリース。売れなきゃ音楽辞めるしかないでしょう。←
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