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山中泰子 プロフィール●この子、ピアノが好きなんやないか?奈良県生駒市に生まれる。両親が共働き、大人しい子供だった。3歳の頃コマーシャルソングを聞いて、その音を小さなグランドピアノ型のおもちゃで弾いて遊んでいた。そんな私を見た母は「この子、ピアノが好きなんやないか」と思い、家のすぐそばにあるヤマハ音楽教室の幼児科に、4歳から通うことになった。グループレッスンでは物足りなくなり、6歳で幼児科修了とともに個人のピアノ教室に変わることになった。●幼くして専門の先生へ個人のピアノ教室の先生は、奈良市在住で東京藝大出身の年配の先生だった。基本的には音高、音大生にのみレッスンをされていたが、ちょうど他にも同じ年頃の生徒が通い始めたタイミングと重なり、教えていただくことになった。電車で15分、歩いて20分の遠方。当時1回8000円のレッスン料。音高の生徒さんを教えているときは、怖くてみんなから恐れられていたが、私たちは子供だということもあって「やすこちゃんは耳がいいわね」と褒めてくださり、親身になって教えてくださった。毎週日曜日の10時から、友達と一緒に2時間、お弁当を持参してのレッスンだった。●おとなしい少女時代低学年の内は友達がほとんどいなかった。引っ込み思案だったため、クラスでも目立たない存在。ピアノの練習をするのは好きだったが、母に付き添ってもらいたがった。譜読みが遅く、新しい曲に取り掛かるのは苦手だったが、一度弾けるとすぐに覚えた。母に褒めてほしくて、何時間も練習する日もあった。●グランドピアノがやってきた10歳の時、家を建て替えることになった。その頃はアップライトピアノで練習していたが、ちょうどピアノの先生が「教材も進んできたしそろそろグランドピアノに変えたら」と言われて、家の完成ののち、自分の部屋にグランドピアノが来ることになった!家と同時にグランドピアノが来て、まさに夢心地だった。●相愛学園子供の音楽教室へピアノの先生の勧めで、ピアノ教室の個人レッスンとは別に小4から相愛学園子供の音楽教室に入ることになった。毎週土曜日ソルフェージュ2時間、合唱2時間のレッスン。聴音や歌が得意だったため、毎年トップクラスに在籍していた。年に2回のピアノ実技試験があり、エチュード、バッハ、課題曲など、小学生なのに常にピアノのテストに追われているような感覚があった。周りは上手な子ばかりだったが、この環境が私にとっては良かった。●モテ期そのころから、学校でも「ピアノが上手くて走るのが速い女の子」と目立つようになった。父は国体に出場したこともある体操選手だった。父親の血を引いてか、走ることが好きだった。当時は、走るのが早いというだけでモテる時代。 高学年になるとクラス合唱の伴奏を頼まれることが多くなり、さらにモテ期が続く。私の中の黄金時代だった。自分は人に必要とされていると思う場面が多くなり、少しずつ自信が出てきた。友達も増え、楽しくて仕方がなかった。●恩師との別れ、そして出会い一方、ピアノの先生が病気がちで、レッスンをしてもらえない日が続いた。とても指導力のある先生だったので母も悩んでいたが、結局その先生のもとを離れることになる。新しい先生は、前の先生とは対照的な優しくて穏やかな先生だった。吉川先生は上品で物腰も素敵だったが、何よりも自分のことを褒めて励ましてくれた。この後中学時代一旦ピアノが停滞するも、吉川先生だったから続けられたと言っても過言ではない。●暗黒時代のはじまり小学校を卒業後は、仲の良い友達が、ほとんど隣の中学に行ってしまった。中学は隣の小学校の生徒と合併した。隣の小学校の子供たちは皆、自分より大人びて見えた。新しい環境に馴染むのが苦手だった。部活は当時その中学で一番厳しいと噂されていたハンドボール部に入ることにした。厳しい上下関係。先輩たちの気分で「ノック」のしごき。心身ともに疲れ果てていた。14人いた新入生がどんどん退部。8人になる。日曜日以外、ぎっちり練習。大会前の日曜日はもちろん練習。ピアノの練習時間が激減する。学校全体が荒れていて、タバコ、いじめ、学級崩壊、窓ガラスもよく割れていた。問題が多い中学だったが、部活の友達とはまだ分かり合えていた気がする。クラスには心から解りあえる友達はほとんどいなかった。毎週土曜日は音楽教室があるため部活を休まなくてはならない。土曜日に部活を休むというのは、その部では考えられないことだった。部活での立場がなくなりそうになるのが耐えられなくなり、中1の冬にとうとう音楽教室を辞めてしまうことになる。2年生になってレギュラーを獲得、県で2位になったこともあったが、ピアノの方はほとんど練習ができなくなり、週末にまとめて弾く程度だった。●優しい吉川先生、そして音楽の道への決意中1の春から中3の夏に部活を引退するまで、ピアノの練習時間が十分に取れない日々が続いた。それでもピアノの吉川先生は優しく見守ってくれた。部活を引退して、進路のことを考えるようになった。公立の高校へ行けば、同じ中学の生徒と必ず一緒になる。環境を変えたかったのもあった。そして何より、物心ついた時から自分は音楽の道に行くんだと思っていた。吉川先生は、相愛高校の音楽科出身だった。相愛に行けば、先生みたいになれるかもしれない…。そんな青写真を描き、相愛高校音楽科受験を決意した。部活をしていたため、他の受験生より遅れを取っていたと思う。またピアノの練習に本腰が入る日々が続いた。●強度のあがり症受験曲は、スケールとアルペジオ、バッハ、ソナタ。練習はしてはいたが、詰めが甘かったのだろう。試験当日、ふと周りを見ると周りの受験生たちは余裕綽々に見えた。試験会場から漏れ聴こえてくる他の受験生の演奏に焦りまくり、絶対に止まってはいけないアルペジオで弾き直してしまった。そのままショックを引きずって、バッハやソナタも普段通りには弾けなかった。どう弾いたか覚えていないぐらいだった。帰宅すると母は心配して「どうやった?ちゃんとできた?」 「わからん・・・」合格発表の通知が来た。父が「来てるで」と渡してくれ、家族みんなが見守る中、開封。 入学説明会の文字が見えた。どっと家族がわき、みんなで喜び合った。 のちに、ギリギリで合格したことを知る 。●切磋琢磨した、高校生時代高校では、相愛の音楽教室で一緒だった友達何人かと再会したが、入学した頃にはみんなに追い抜かされていた。その時になって初めて、中学生活で部活に打ち込みピアノの練習がおろそかになっていたことを悔やむ。年に2回の実技テストがあり、課題曲が発表された日には一斉に楽譜店に走った。試験前の練習室は取り合いになり、みんな練習をしていないような顔をしてかくれて猛練習をしていた(通称:コソ練!)。1、2年の頃は、実技では平均点を取るのがやっとだった。3年の卒業演奏に、リスト作曲の超絶技巧練習曲 第9番「回想」を弾いた。いつもあがり症で力を出しきれずにいたが、卒業試験は何故か緊張せずに自分の音色を聴く余裕を持って演奏することができた。その結果、実技で一位を獲得、学年首席で卒業し、卒業演奏会のトリを務めることができた。●大学生活高校卒業後、そのまま相愛大学に進学した。大学では、管楽器の伴奏をよく頼まれた。室内楽や伴奏はソロとはまた違う魅力や楽しさがあり、勉強になった。毎年、ポーランドショパンアカデミー教授のK.ギェルジョード氏の公開レッスンを受けたり、大学3年の春にドイツに2週間のアカデミーに参加し現地のコンクールで第3位を獲得することができたり、色々な刺激を受け研鑽もした。卒業試験には、メシアンを弾き今までに取ったことのない高得点を取ることができ、全学年の6%しか出られない、いずみホールでの卒業演奏会に出演することができた。●社会へ卒業してすぐ、大阪市立南高校の非常勤講師となる。かわいい生徒たちに恵まれ、指導もやり甲斐があった。初年度から吹奏楽の指導を任されることになる。創設一年目、しかも新米指導者。未経験者がほとんどの吹奏楽部を引き連れ、初の吹奏楽コンクールに出場する。吹奏楽指導未経験で手探りながらなんとか課題曲を仕上げ、結果、地区大会で優秀賞を受賞、初出場で府大会に進出という快挙をとげた。ピアノ指導は自宅で学生時代から少しずつ教えていたが、社会人一年目からヤマハ音楽教室に勤務。多い時で3カ所の教室を掛け持った。ピアノ指導法セミナーにも意欲的に参加し、自身のスキルアップに励んだ。●演奏活動開始、そして挫折高校非常勤とピアノ指導をする傍ら、奈良、大阪、京都など各地でコンサートを開催。生駒音楽芸術協会の理事に抜擢され、地域に向けたコンサートの企画・運営などの活動にも力を注ぐ。25歳の時、大学時代の先輩とその留学仲間のピアニストとジョイントリサイタルをすることになった。フランス帰りの演奏家のレベルは高く、アンサンブルをしていても自分自身が高められるのが分かった。リサイタルメインの曲は、ショパンのバルカローレ。その肝心の演奏で大失敗してしまう。自主公演で直前までの演奏以外の準備で集中できなかったのもあり、悪い上がり癖が出てしまった。どうにか最後までたどり着いたものの、普段の10分の1しか発揮できないような情けない演奏だった。●厳しかった母が全てが嫌になった。こんなに頑張ったのに…、大事な本番だったのに…。取り返すことは出来ない。いい大人なのに、声を上げて涙が枯れるほど泣いた。そんな私を見て、母はずっと背中をさすって寄り添ってくれた。「やっちゃん、頑張ったやんか。ほんまによおやったよ。もう泣きな…。な、また次がんばったらええやんか」母は、私の演奏を一番に応援してくれた。私が失敗したことで、自分の事のようにショックを受け、気を落としたに違いない。でも、一生懸命私を励ましてくれた。母の存在は本当にありがたかった。少しずつ、また演奏活動を再開できるようになっていった。●結婚、そして出産大学を卒業して9年目で、ようやく結婚。翌年に長男を出産する。その際に、10年間勤めた大阪市立南高校とヤマハを退職、産休後は自宅で育児をしながらのんびりレッスンをする生活になった。●運命の出会いある演奏会で、ひとりの伴奏者の演奏に釘付けになった。バラの匂いが漂ってくるような艶のある魅力的な演奏だった。私もこんな演奏がしてみたい!この先生に習いたい!!そう思って、その日の内にレッスンのお願いをした。その先生はヨーロッパの大学でもピアノ指導をなさるほどの腕前だった。今まで受けてきたどのレッスンとも違っていて、本質を見抜くことができ、かつとても興味深く分かりやすいレッスンだった。ボディーマッピングについても勉強するようになり、それからは本当に表現したいことができるようになってきたことには、自分でも驚いている。●スタインウェイお披露目演奏会プロデュース生駒市に、市民の篤志家の方からの多額の寄付があり、その方の希望でスタインウェイD-274が生駒のたけまるホールに寄贈されることになった。生駒市から生駒音楽芸術協会に、スタインウェイお披露目演奏会の企画・運営を委託された。私はその頃から芸術協会の副会長を務めており、演奏会のプロデュースを任されることになった。試弾会から始まり、コンサートには生駒市内の若手ピアニストの演奏と、特別ゲストには恩師で85歳現役ピアニストの内田朎子先生を招いた。私自身も、ショパンの幻想ポロネーズを演奏し、師匠と同じ舞台に立つという夢が実現した。会場は1000人の聴衆で埋め尽くされ、華々しく終演を迎えた。 ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎YASUKO PIANO STUDIO 山中泰子ピアノ教室奈良県生駒市のピアノ教室です。生徒のやる気を引き出すレッスンを心がけています。普段の練習では弾けていても、人前では緊張して成果が出せなかったという教師の苦い経験から、ボディマッピングの知識を使い、体の使い方、心のリラックス、色々なアプローチで本番でも力を出し切ることができるように指導しています。小さなお子様へは、指作り、耳作りを大切にし、初歩の段階から美しい音色で演奏できるように指導しています。相愛学園子供の音楽教室を経て、相愛高校音楽科を卒業、卒業演奏会に出演。相愛大学音楽学部器楽学科ピアノ専攻卒業、いずみホールでの卒業演奏会に出演。在学中、ドイツ・ヴァイマールでのピアノアカデミーに参加。リスト音楽院教授によるマスタークラスを受講。修了演奏会に出演。日欧学生親善ピアノコンクール第3位。これまでに、K.ギエルジョード、A.ロト、青柳晋など著名なピアニストの公開レッスンを受講。毎日新聞社「若い音楽家たちの飛翔」、奈良県音楽芸術協会「ファインアーツコンサート」、秋篠音楽堂「秋篠室内楽フェスタ」などコンサートに多数出演。現在、生駒音楽芸術協会副会長。奈良県音楽芸術協会常務理事。YASUKO PIANO STUDIO 主宰。[取得免許]中学校・高等学校音楽科第一種教員免許ヤマハ指導グレード3級・演奏グレード3級
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