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1989年1月3日朝に大学時代の友人が電車にひかれて他界した事を聴き、物凄く虚しくなり、繁華街に出て浴びる様に酒を飲み、道の真ん中に寝てしまいました。そこに来た脇見運転の車の下敷きになり30メートルひきづられ、頭が割れ、右胸と右足の太ももがラヂエーターの下で黒焦げになり、首は圧迫骨折、左腕も骨折。救急隊は即死状態と判断して警察にも、そう告げたそうです。3日間意識不明で、合計3回の手術。昭和が終わりを告げた1月7日に記憶が戻りました。その間、夢の中で、『まだ人の役に立つ事は何もしていない。それをしなければ死んではいけない。』と、対峙していた生命の源の様に感じた光から告げられた朧気な記憶があります。何をすれば?『答えは自分で探せ。』そんな夢でした。その時、決意しました。自分は生かされている。人のやらないやりたがらない事で頑張って、人に勇気や刺激を与える事から始めよう。そして、ウルトラマラソンを走る決意をしました。病院のベッドを降りていいと言われて初めてした事は、歩行器を使ってトイレまで行って帰って来る事でした。これが忘れもしない私にとって最初のレースでした。その後、退院するまでには病院の階段を地下から屋上まで25往復するまでに回復。退院した3月からウォーキングを開始。毎日電柱一本ずつ距離を伸ばして行きました。4月からはジョギングを始めて、ゴールデンウイーク8日間で400km走り込みました。その年の6月のサロマ湖100kmマラソンで10時間26分で初出場初完走。10月のシュリチンモイ24時間ランでは173kmで4位になりました。その後、1991年に24時間ラン初優勝、1992年に日本で初めての250kmの大会、萩往還で1位となりました。ウルトラマラソンで1位になった事は合計4回。2006年、父の癌での他界を機に父の事業資金返済と母の面倒をみて家と墓を守る為に実家に戻りました。貿易部門で海外勤務を夢見て往復四時間の通勤と僅かな睡眠時間に耐えて頑張って来ましたが2010年三月にエコノミークラス症候群での入院をキッカケにして、47才にして再び一からやり直し走る事にしました。5年のブランクを経てウルトラマラソンに再挑戦を始めました。自己ベスト24時間205.5km今現在は、走りを歌に変えて黒人音楽のJAZZの日本語訳で心に風景を宿し、歌と歌を繋ぎあわせた物語公演を行っています。歌で人の心に優しい灯が灯せたらと思っています。
テーマ: ブログ
音楽活動・楽器
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