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著者 Masa プロフィール私は沖縄に住む一般的な 低所得サラリーマンで、 これまで自分の時間と体力を 会社に提供することで賃金を得てきました。ホテルで調理の仕事をしてた時は 朝6時頃起き、 ほぼ休憩ナシで朝1時まで,働かされた事もあります。 250時間の労働時間で給料が手取り9万円だった事もあるのがこのホテルです。昭和じゃないですよ。平成17年頃の話です。他の会社でも16時間労働くらいは 当たり前でした。 就業規則とは名ばかり、 今まで4社を経験しましたが、 サービス残業、休日出勤等、 規則が守られている会社は皆無でした。 一度しかない人生の大半を会社で過ごし、会社で死ぬような気がする。 そう思い始め、 日々危機感を感じていました。 年末年始も宵い越しで仕事、お正月やお盆、ずっと仕事。ホテルで調理の仕事をしている時は年末にウィルス性の腸炎にかかり、苦しみの絶頂と共に年越しをしたことが一度あります。 ずっと仕事なので親戚の集まりにも、 18年近く参加できてません。 たまに会うのは 身内に不幸が起きた時だけ。 身も心もズタボロになり、 このままでは会社に殺されてしまう。 「何か他に収入源を見つけて、 会社から開放されなければ!」 そう感じていた時、会社の上司に、 「不動産は興味ある?」 と聞かれ、そこから不動産に 興味を持つようになりました。 そして誰もが通る不動産投資本、 ロバート・キヨサキさんの 「金持ち父さん、貧乏父さん」 に出会います。 そこでお金に働いてもらう仕組みに衝撃を受け、 不動産事業を始める事を決意しました。 始めた時はカネ無しコネ無し知識無し。 借金400万円からのスタート。今では不動産収入がありますが、 そこに行くに必要と感じるのは、やはり「行動力」です。 知識は勉強して蓄えることができますが、 一歩踏み出す勇気がない人が多いのが現実です。 実際に不動産投資の勉強をした人で、不動産を購入することができる人の割合をご存知ですか?1000人に1人と言われています。そう、一歩踏み出さなければ、 前に進むことはできません。999人、あなたと同じスタートラインに横一列に立っています。一歩だけ前に出ましょう。この一歩が他の999人と今後の人生、1億歩程の差になります。ただ私は必ず不動産投資をやったほうがいい!。と言いたいわけではなく、 私のように低所得者が、不動産を始めるなら、賃貸併用住宅をおススメするというスタンスです。 不動産を買い続けて、不動産所得だけで生活したい。という考えの人は 少数だと思います。しかしこのファイルには、賃貸併用住宅だけでなく、今後不動産をどう拡大していけばいいかのヒント、内容を多く詰め込みました。ぜひ参考にしてください。 賃貸併用なら住宅ローンで、 自分が住みながら家賃を 得ることができます。 低所得サラリーマンには、 副収入を得られる、 資産を残せると、 プラスの面が大きいです。 もちろん注意するべき点も たくさんあります。 それらをブログ、ファイルで実際に 賃貸併用住宅を建て、 そこに住んでいる私の 体験談を元に生の情報をお届けし、これから副収入を増やしたいと思うあなたの力になりたいと 考えています。 私は不動産収入を得るまで、かなり恥ずかしいのですが、人生には常に 「金欠」と「死」が付きまとっていました。石垣島での結婚生活では、 2~3ヶ月程缶ジュースすら買えない時期もあり、 周囲への恥ずかしさ、周りより金銭的に劣っている 強烈な劣等感。 精神的に病んでいて 「もう死にたい」そんな毎日でした。ですが、今の私があるのは、 たくさんの暗い過去のお陰なので 最初にお話させてもらいます。人は辛い、悔しい、悲しい、痛い、苦しい思いをすればするほど、人に優しくなれるんです。その痛みがわかるから。ここから先は結構内容がキツめなので 心臓の弱い方は見ないで下さい。でも次のキーワードが一つでも 気になるなら希望が持てるはず。 キーワードは 「長時間労働」「過呼吸」 「パニック障害」「住所不定無職」 「学生って最高」「敗血症」 「職場でのイジメ」「元嫁」 「欝(うつ)」「自殺未遂」 「死産」「借金」「離婚」 「スピード感」「出会い」「光」です。 大丈夫ですか?始めます。私は沖縄国際大学という大学に通っていました。バイトとスポーツと遊びに 費やした時間はあっという間。4年生になり就職を 考えるようになりました。 就職活動に時間を かけたくなかったのと、 気になる会社があったので、 求人募集してないその会社に直接、「働かせて下さい!」 と電話。 「社長と相談して折り返します」 との事。 ↓ 「2時間後に面接します」 と連絡。 ↓ 履歴書と写真を最速で準備。 ↓ 会社到着、社長と1対1の面接 ↓ 社長「採用!」 これが第1の地獄への 入り口でした。しかしこの社長の「スピード感」と「判断力」が後に私を成功に導いてくれる カギになりました。大学4年の授業は週1で、 就職が決まったのもあり、 バイトしてたコンビニを辞め、就職先で社員と同じように働かせてもらうことになりました。初めての就職先なので気合とやる気に満ち溢れ、目は常にギラギラしていたでしょう。日給6500円で週5~6日、朝9時半から遅いときは朝2時までの「長時間労働」。 100キロ超えの重い機械を 人力で運んだり、 修理したりと肉体労働が続きます。 時給にすると200円〜300円でした。 そしてある日、上司と現場で作業中, かなり気分が悪くなり、 さすがに耐えられなくなって 「車で休ませて下さい」と告げ、 エレベーターのボタンを 押そうとしたら手が動きません。 ドクドクドクドクドクドク!! 猛烈なスピードで上がる脈拍、 手首から先が体の方向にグニャッ と曲がり固まる。 息が出来ない! 「死ぬっ!!!!」 そう「過呼吸」です。 上司に救急車を呼んでもらい、 駆けつけた救急隊員が 「過呼吸ですねー」 と軽い感じで私の口と鼻を塞ぎ、 呼吸を止めるとすぐ、 落ち着いていくのがわかりました。 隊員の軽い口調で 「自分はすぐ治るんだ」 と安心したのを 鮮明に覚えています。 そして働き続けて3年が経ち、 渋滞に巻き込まれた営業車の中で、 なんとも言えない恐怖感に突然襲われました。 呼吸が苦しくなり、 なんとか自分をごまかそうと 号泣しながら歌ったりしました。 見えない恐怖に怯え、車を飛び降り 猛烈にガタガタ震える指で 号泣しながら上司に電話、 「死にます!助けて下さい!」 上司も仕事で来れなかったので、 落ち着きを取り戻すまで休憩し、 運転は休み休みでなんとか 会社に帰りました。 すぐ病院へ行き、診断結果 は「パニック障害」 精神的な病気です。 正直ホッとしました。 なぜかというと、見えない恐怖の 正体がわかったからです。 同じ感情になった方いませんか? そして パニック障害になった後、退職。 ちなみにここでの仕事は大好きでした。ただ労働量が多すぎて、体と心が追いつかなくなってしまったのでやむなく退職。今でもこの会社の社長とは仲良くさせてもらってます。「頑張らなきゃ!」と思いすぎて 失敗したことを学び、 生きていく上で一番大事なのは 「健康であること」 そう悟りました。今の子供の名前にも、 その思いを込めています。 退職したのが宮古島にいる時で、 退職して本島に帰ってくると 行くあてもなく住所不定無職になった私。 バイクに荷物をパンパンに詰め、 公園で寝たり、 友達の部屋に泊めてもらったり、 1泊700円で窓のない1畳の 怪しい部屋に泊まったりもしてました。隣の部屋とは極薄のベニヤ1枚隔てただけなので、呼吸の音すら聞こえる状態の部屋でしたね。那覇の西町にありました。そこに寝れることで、 屋根がある所で寝れるのは とても幸せなことなんだと 感謝できるようになりました。 住所不定無職だった私は なかなかアパートの契約が 決まりません。 そんな住所不定無職の私に、 賃貸をOKしてくれる 不動産会社が現れたのです。 感謝してもしきれませんでした。 宜野湾にあるE企画開発さん、 とても素晴らしい物件を 扱っている所です! お世話になりました! その背景もあって、私はいつか不動産をやりたいと思ったのかもしれません。無事、沖縄市のアパートに入居した後、 調理の職業訓練校に入りました。 一度社会人を経験した後の 学生はもの凄く楽しく、 病状は改善。 職訓は安く学校に行け、 資格も取れ、 給付金までもらえる制度です。退職を考えている人は 検討したほうがいいです。私に連絡をくれれば相談にも乗ります。そんな学校で楽しい日々を送って約半年、 突然40度オーバーの高熱に犯されます。 風邪だと思い家にいても、1週間くらい熱が下がりません。 喉が腫れ、 唾を飲み込むだけで激痛が走る。さすがにおかしいと思い病院へ行くと医者に、「なんでこんなになるまで病院に来ないんだ!すぐ入院しなさい!」 診断結果 「敗血症」死亡率約30%、血液中に菌が 増殖する恐ろしい病です。 私は喉の炎症がきっかけで、そこから菌が入ったようでした。 今まででは違う「死ぬのかな?」 という感覚になった、 静かな恐怖を思い出します。 お金がなかったので病院に 借金しながらなんとか完治。ちなみに今でもその時のことを夢に見ることがあります。かなり苦しくて辛い思い出です。 あなたも体調の変化には 気をつけてください。 そして1年で調理学校卒業と同時に、 石垣島のレストランに就職。これが 第2の地獄の入り口でした。中途で入社した24歳の私には、 新卒から働いている20歳の 女性の上司が2人いました。 新人の私に舐められないよう昼ドラの500倍、 陰湿なイジメの毎日。年上上司も厳しい人ばかり。 料理人あるあるだと思いますが、 ぶっ飛んでる人が多いです。 だから良い料理が作れると思うんですけどね。 仕事中にお玉を投げつけられ、 安全靴でスネを全力で蹴られる。 仕込み表に「死ね!」と書かれ、ミスの罰としてコンテナ冷蔵庫を朝まで掃除させられたりもしました。先輩のミスを押し付けられ、前科持ちで石垣島に逃げてきたプロレスラーのような体格の男に厨房の中心で全力で首をしめられ、意識が飛びそうになったり等々。「なんで俺だけ!!」 帰っては発狂する毎日。 不眠や気分の落ち込み等、 うつの症状はこの頃から出始めていましたね・・・。 そしてしばらくして、 同じホテルで働く女性と付き合うようになりました。癒しでした、最初は。 心のより所でした、最初だけは。これが後に伝説として語られる最凶かつ最悪、第3の地獄の入り口とは知らず・・・。 その女性こそ「元嫁」です。 スタイルはモデル並み、顔はコーヒーのCMに出ている、原田知世似の博多美人。 こんなチャンスはもうないと、焦った私は付き合って1年で プロポーズしました。なぜかオーケー。晴れて入籍。すると入籍したその日からすぐ性格が変わっていきました。いや、本性が出てきたと表現するのが正しいかもしれません。入籍して2日目で連絡ナシの朝5時帰り。 私「連絡だけはして! 心配するから!」 元嫁「謝ればいいんでしょ! (キレながら)ごめんね!」世界一キレのある逆ギレを見られ、今ではネタとして話せるので感謝していますが当時は笑えませんでした。あなたならどう思われますか? 私は当時呆れて何も言えませんでした。入籍して4日目、 土砂降りの雨の中仕事からバイクで帰った私はずぶ濡れ。 「ただいま」と玄関をくぐったらまず一言「床濡らさないでよ!!」 ただただ絶句でした。 私の風邪の心配より床の心配か。 悲しくて余計濡れました。 そんな元嫁は家事もしなくなり、生活費はパチンコに使い果たし、働きもせず一日中ゲームとタバコ三昧。職場で上司にボロボロにされ、 家で嫁にボコボコにされた私はついに 「うつ」と診断されてしまいます。 睡眠薬なしでは寝れない体になっていきました。 どうしても寝れなくて、夜中の3時に徳洲会病院の救急外来に行き、睡眠薬を処方してもらったこともあります。この頃は「どうやって死のうかとしか 考えられない状態」でした。元嫁が寝てる間に自分の手首を切って元嫁の布団に手を入れれば朝起きた時にどう思うかな?今この5階の部屋のベランダから、 突然飛び降りたらどう思うかな? そんなことしか 考えられませんでした。給料の殆どを渡していた私は、 独身時代の貯金を崩しながら 食いつないでいました。しかしそのお金もすぐ底をついてしまいます。ジュースすら買えない極貧生活。ガソリンを入れるお金もないので5キロほど離れた職場にも徒歩で移動。食べるものが買えないのでクレジットカードを使い借金を重ねながら、食いつないでいました。また、当時はパチンコ屋に早く並べば確変台がもらえたので、朝1時から並んでたりしてました。会社では副業は禁止だったので、私には当時この方法が手っ取り早く、確実でした。パチンコでは100万円以上勝たせてもらっているので感謝しています。でも今ではこの方法は使えませんし、パチンコは食べる為に仕方なくやっていたので今ではパチンコに行きません。食べれることって、本当に幸せな事なんです。そんな日々に耐えられなくなってきた私はついにやってはいけない行動を起こしてしまいます。ある日私はバイクに乗り、ついに「自殺」を計ります。結局「自殺未遂」に終わってしまうんですけどね。バイクでスピードを90㌔くらい出したまま赤信号の交差点を、3ヶ所一気に駆け抜けました。「事故って死ねればいい」今冷静になって客観的に見ると、 他人に迷惑がかかるから止めとけと、思えます。 が、追い込まれた精神状態の私はそんな事を考える余裕はありませんでした。なんとか死を免れ、 さすがに危ないと判断し、逃げるように転職で沖縄本島の那覇に移り住みました。 そして1年ほど経ったある日、 元嫁が猛烈に体調が悪いので 病院に行くと「妊娠」してました。1分の1の確立で当たったと思われます。 もしくは私の子供ではなかったかもしれません。しかし私は喜びました。 「これで元嫁も元に戻って多少は 優しくなるはず!」しかし実はこの妊娠、すでに6ヶ月ほど経っていることが発覚。 もちろん即入院。 そして妊娠発覚翌日に体調が急変。 子供に脈が無い。 緊急分娩で産まれてきた子供は、 すでに亡くなっていました。6ヶ月とはいえ立派な人の形をしていて、鼻の低い私に似ていなかったので、「俺に似ないで鼻が高くて良かったね」と泣きながら最初で最期の声をかけた事を覚えています。 妊娠で喜んでからの翌日の「死産」 激動の2日だったので脳の処理が 追いつかず、喜びと悲しみで 混乱してました。元嫁が退院して数日、自分の体調不良に気付きながら、 病院にも行かず、タバコとパチンコに明け暮れ、お腹の子にダメージを与え続けた元嫁がタバコをふかしながらこんな事を言いました。「妊娠した後は 妊娠しやすいんだって」「ふざけるな!」 今まで生きてきた中で、一番大きな声で叫びました。今思えば元嫁はこの時38歳だったので子供が欲しくて焦っていたのかもしれません。また、あの子は自分の命を持ってしてまで元嫁とは別れた方がいい。そう伝えてくれたのかもしれません。 子供が亡くなってから、今まで以上に最悪の夫婦生活。 元嫁は自分のご飯しか作らない。 自分の分しか洗濯しない。 皿やいろんな物を投げつけてくる。 渡した生活費はほぼ全て、 パチンコに消え、「パチンコで負けたから 生活費なくなっちゃった」 等々。 渡したお金は使い果たし、昔働いていた時の自分のお金だけは貯め込んでいました。度々通帳を見せてと私が言うと「通帳は無くした」とわかりやすい嘘をつく始末。元嫁との生活に耐えられず、ある朝いつも通り元嫁が、寝てる間に出勤する前に、そっと署名、押印した離婚届けを置いていきました。どんな反応か緊張しながら帰ると「弁護士探すからちょっと待って」 と言われました。私はほぼ全ての財産を渡しきり、 現金は無い状態。 でも元嫁は自分で稼いだお金があるので何百万かは持っていました。 最後だから財産分与せず、 相手に現金を持たせたまま協議離婚で終わらせたかった。しかしそれをこじらせる。数日後私宛に裁判所から通知が届きました。そう「調停」の呼び出しです。悪いことはしてないんですけど、初めての体験なのでさすがに恐怖でした。 調停は5ヶ月くらいかかり、調停の途中で元嫁に家を出て行くよう言ったところ、凄い事ことが起こりました。1月くらいに3月末までに出て行ってくれとお願いし、出て行く様子もなく迎えた3月31日。寝てる元嫁を横目に出勤、帰ってくるとドラマのような風景がそこにはありました。 2LDKの部屋から元嫁の荷物がごっそり無くなっていて、 テーブルの上に結婚指輪がポツンと置いてありました。なんとも言えぬ開放感で、思わずガッツポーズしたのを覚えています。約2年ぶりくらいに自分の部屋で堂々とテレビが見れて、感激したのを強く覚えています。それまでは部屋の隅で、イヤホンつけてワンセグでした。 そして迎えた調停結果。 結果からいうと私の圧勝。高めの家電や車やバイク、 全て私の物になりました。調停員の方にはただ事実を述べただけです。調停員もあからさまに元嫁が悪いっていうのを感じてました。 この時さらにドラマみたいな「出会い」が起きました。電車男をご存知でしょうか? 現実では口下手な男がネット上でいろんなアドバイスをもらい、好きな人と結ばれる話です。調停中、誰かに励まして欲しくてSNSで報告や相談をしていて、 そこで励ましてくれていた人の一人が現在の嫁です。 ネットに救われた瞬間でした。 ちなみにこの頃の私は薄毛が進行。 アデ○シンやリ○ップ等他にも 色々試しましが私には合わず、むしろ進行してしまいました。実は離婚直前に、 那覇新都心のクリニックで100万円借金して薄毛治療を行ったのですが、 全然効果が出ませんでした。 これは元嫁が財産分与とか言いだしたので、マイナスの財産を作ってやろうという不純な気持ちで始めたから効果が出なかったのかもしれません。2017年の4月にようやくそのクリニックのローンを完済。 高い勉強代でしたね。。。 そしてしばらくたって、 体調を崩すことなく働いていると、 上司のTさんからから、 こんな事を聞かれました。「不動産に興味ある?」 それが「不動産事業との出会い」です。 それまで部屋をただ借りる事しか考えていなかった私は、貸す側になる事なんて想像もしていませんでした。私の会社の上司は不動産を所有している人が多く、その時点で宅建士の資格を取り、 事務所を構えている人もいました。私に不動産の事を最初に話してくれたTさんも宅建士の資格を取り、2017年に開業しました。そんなTさんも2017年に一回の売却で数千万円の利益を上げ、現在宮古島に5億円のホテルを建築しようとしています。早く追いつきたいですね。 ちなみに私は宅建士は所有してません。所有してなくても儲けは出せます。不動産に出会い、「こんな世界もあるのか!!」と衝撃を受けると同時にまた「光」が見えてきました。 そこからは「スピード勝負」と 「行動力」。 猛スピードで勉強をしたおかげで 早い段階で収益を上げることに成功しました。 仕事前、休憩中、仕事後、休みの日はほぼ全部、不動産の勉強に明け暮れました。私が血を吐く勢いで勉強した内容を詰め込んだのがこのファイルです。私が収益を出せたのは周りの人が気づかせてくれた事がきっかけです。私の実力ではありません。私自身が成功者のマネをしただけなんです。不動産との出会いによって大分生活が楽になり、 1人2000円ほどのバイキングに 月に何回か行けるようになりました。 経済面が安定してきたことで、 精神面も少しずつ落ち着いてきました。 現在は家を新築し、家賃負担もなく、 逆に収入が増える仕組みを確立しました。先人の知恵のお陰です。先人に感謝します。 学ぶことはマネること、を実践した結果です。 長くなりましたが最後までお付き合い頂き誠にありがとうございます。ブログやこのファイルでは低所得者の私がどうやって不動産で儲けてきたか、 どういった問題をどうやって解決してきたか。これからどうなっていくか、 なぜ低所得のサラリーマンでもできると言い切れるのかを詳しく書いていきます。ちなみに私は生命保険に入ってませんが、もし私が今死ねば、家族に1億円以上の資産と毎月何十万という家賃収入が入る仕組みを作りました。もちろん税金の事も加味してです。 毎月何万円も払って、 受け取る額が数千万円の生命保険とどちらがお得でしょうか?家族を持った以上、その家族を守るのが私の責任です。このブログとファイルは昔の私に本気で伝えたい内容を本気で書きます。 絶対に読者の為になると断言できます。 この方法を使えば沖縄の貧困問題の解決に繋がると確信してます。この考えが全国に広がれば全国の貧困層を救えるでしょう。あなたにも必ずできます!。まずは自分と家族の未来のために、 できない理由ばかり探すのではなく、できる理由を一緒に探しましょう。長文にお付き合い頂き感謝します。このブログであなたの人生が良い方向に激変するよう強く願っています。Masa
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