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新聞記者になりたいなと思ったのは、もう50年以上前だ。普通のサラリーマンのように会社と自宅を往復するだけじゃ退屈するような気がした。決して自由とか民主主義を守ろう思ったり、社会の木鐸を目指したものはない。京都での学生時代はアイスホッケーばかりして碌に授業を受けなかった。英文科を専攻したがシェークスピアもワーズワースもさっぱり理解できなかった。それでも新聞社の英語の試験は楽にクリアできた。中日新聞を選んだのも、名古屋に自宅があっただけの理由だ。最初に赴任したのは福井支局。カニ漁船に同乗して日本海に繰り出し、危うく遭難しかかった。北陸トンネル火災事故では1週間もトンネルで煙が出るのを見守っていた。整理部に移って結婚、組合の専従をした後、豊田支局に出る。姿泣き殺人事件を追い容疑者にインタビューしたが「あんた、俺を犯人だと思うか」とすごまれすごすご引き上げた。浜松、豊橋支局で市政を担当。選挙を通じて世の中の仕組みと勝ち組はどう立ち回っているかを学ぶ。東京社会部では新宿署でサツ回り。国税、国会、公明党担当から、遊軍記者で40歳過ぎにケンタッキーに語学留学とトヨタ自動車の米国進出を現地の女性記者と取材。1年半後に帰国したら「イランへ行ってくれ」といわれ特派員。ラマダンに断食を1ヶ月間やりとげたり、ホメイニ師のカリスマぶりとイスラム教の不思議さを体験した。ベルリンの壁崩壊でドイツへ飛び、チェコ、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリアをうろついた。日本へ勝って外報部に着任したら翌日、イラクのフセイン大統領がクエートに進攻。「お前、隣のイランにいたんだから」と湾岸戦争の真っ只中、中東に舞い戻る。ヨルダン、カイロ、シリア、イスラエルとパレスチナの入り乱れる中東で半年をホテル暮らし。「米軍の開戦」を確信して翌年、自衛隊を取材中に空爆開始。(続く)
テーマ: ブログ
子育て(小学生以上)
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