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こんにちはしんそう福井武生 竹内です。私は昭和40年7月31日に、7人兄弟の2番目として生まれました。7人兄弟でびっくりされていると思いますが、確かにまわりに7人兄弟なんて誰もいませんでしたね。それなりに充実していた小中高時代小学校は地元の吉野小学校、結構優等生で先生の受けはよかったと思います。そして武生第一中学校、ブラスバンド部に入って打楽器担当でした。このころからバンドに興味を持ち始め、ドラムを叩いていました。高校は武生高校、ここでも仲間とバンドを組み、浜田省吾、甲斐バンド、ローリングストーンズなどをコピーしてましたね。バンド以外では、特に学業の面ではパッとしなくて教室に座っているのがすごく苦痛でした。3年生になってなんとなく大学に行きたかったのですが、うちは本当に貧乏で貧乏な家ほど兄弟が多いというのは、案外嘘ではないと思います。(笑)いろいろ悩んだ大学時代とにかく大学に行きたいなら自分でなんとかして行けって親に言われてしまって、それなら大学の2部(夜間部)だったら学費も安いし、昼間働いてなんとかいけるだろうと2部に行こうと決めました。大学をどこにしようかと考え、まず場所は京都と直感で決め、京都の中のイメージが良い大学ということで同志社大学に決めました。大学に入って何かしたいなんて、その頃はなにもなかったですね。就職に関しては、急に親が口を出してきて親の知り合いの紹介で製麺会社に就職しました。金は出さないけど口は出すという、本当にどこまで心配しているのかよくわからない親でした。大学でもバンドサークルに入ってバンド一筋でした。同志社大学の学園祭のステージで演奏したときは気持ちよかったですね。いろんな面で成長できた専門学校時代4回生になって卒業したらどうしようかと考えていたところ、勤めていた製麺会社の社長の弟さんが整骨院をされてて、その方と仲良くなり整骨院にも顔をだしてるうちに柔道整復師という仕事もいいなと思い始めました。そのことを弟さんに話したところ、私が専門学校に推薦状をだしてあげるという話になり、明治柔道整復専門学校に大学を卒業と同時に入学しました。学費は、勤め先の社長が保証人になってくれて銀行から借りました。専門学校では志の高い人たちと仲良くなることができ、人間的にも成長できた期間だと思います。このときに仲良くなった仲間は今もそれぞれがんばっていて、すごく刺激になっています。地元で整骨院を開業!しかしそして卒業、弟さんの整骨院とか整形外科で5年ほど勉強させてもらい、色々な研修会にも参加して腕を磨いて、地元福井に帰って開業の準備をしながら、地元の先輩がされている整骨院で働きました。そのころ嫁になる人と出会い、結婚、そして竹内整骨院を開きました。地元の皆さんに喜んでもらう整骨院にするぞ、と気合の入った整骨院開業でしたが、いざ開業してみると悩みの連続でした。一番の悩みは、患者さんに対して、電気を当てたりマッサージをしたりとか今まで勉強してきた技術で、それなりに患者さんは気持ちいいと喜んでくれてはいたのですが、自分自身はなにも納得できる施術ではないと感じていることでした。もっと根本的に患者さんの体を良い方にもっていく技術はないだろうかと、昼休みには本屋に出かけて何か出ていないか探す日々でした。やっと出会えたしんそうそうやって本屋めぐりをしているとき、山田書店で「無痛バランス療法の神秘」というしんそう会長、林先生の書かれた本にやっと出会いました。さっそく購入し読んでみると、私の求めていたのはこれではないだろうかと思い、すぐ研修会の申し込みをして大阪の研修会場に向かいました。研修会に参加して、これは本物だと確信し、気がついたらそれから17年間しんそうばかり勉強してきて今に至ります。今では、整骨院という看板ではなく文字通りしんそう療方という看板でやっています。今思うのはしんそうに出会えて本当によかった、ということです。私の大好きな矢沢永吉さんが言っていました。「人生なにかひとつこれだというものがあったらそれでいい。俺には歌があった。」私にもしんそうがある。今世しんそうに出会えただけで、私の人生は最高だったと死ぬ前に絶対思うでしょう。このしんそうという最高の技術で世の中に貢献するこれが今世の私の使命です。
テーマ: 院長ブログ
主婦
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