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このサイトは、文鮮明師を信じた方達を対象としています。私のところには、文顯進会長を支持する人達からも、支持しない人たちからも連絡が来ます。私の基本的姿勢を書いておいた方が良いと思うようになりました。私は、一人の信仰者であり、全てがわかるわけではありません。人間に、全てがわかって間違いをしない人などいる、とは思いません。それは、文鮮明師にも当てはまり、文顯進会長にも当てはまります。人間は神様ではありません。では、私は文鮮明師や文顯進会長と自分が同列だと考えているかと言えば、そうではありません。アダム的人物というものの説明は省きますが、文鮮明師や文顯進会長は、アダム的人物だと、私は信じています。私はアダム的人物ではありません。文鮮明師は、イエス様が第二アダム、つまり、アダム的人物だったと教えました。それは「神様ではなく人間だった」という事です。しかし、特別な人、アダム的人物だったという事です。私は、イエス様も文鮮明師も文顯進会長も、「アダム的人物だ」と信じています。統一教会では、文顯進会長を第四アダムとして受け入れていませんから、そこが信仰の違いとなります。神様がいると信じるのも、唯一神であり、愛、真、善、義などの源であると信じるのも信仰です。信仰は体験に結び付き、神様との体験をしたことが、信仰に対する確信を強めることになりましたが、でも、自分と神様の関係は、アダム的人物が神様と持っている関係とは比較にならないと思っています。同列でない理由は数々ありますが、神様の関係は大きな理由です。たとえ私がもっと霊通したとしても、これは変わりません。故に、自分自身の考えよりも、文顯進会長の考えを私は優先します。考えが合わないならば、文顯進会長の考えを理解しようと努めます。大抵の場合、その努力の結論は、「文顯進会長の方が正しい」です。私は、文顯進会長を第四アダムとして任命したのは、文鮮明師ではなく、神様であると信じています。今年5月、文顯進会長は御夫妻で真の父母の使命を担う出発をされましたが、その使命を任命したのも、神様だと信じています。文顯進会長御夫妻が真の父母の使命を担って出発されたと信じることは、文鮮明夫妻が真の父母の使命を全うしたとか、全うしていると信じないことになります。統一教会では、韓夫人を「真の母であり、独生女である」と信じていますが、それを信じない、ということです。では、文顯進会長御夫妻は、真の父母の使命を全うできない可能性はあるでしょうか?それとも、出発した時点で、既に使命を全うすることが決定しているのでしょうか?決定しているはずがありません。さて、ここまで、「信じる」、「信じない」という事を書いて来ました。それは今の時代が、自分が何を信じるか選ばないといけない時だと思うからです。私の書くことも、正誤の判断の段階の上に、信仰告白のような段階になると思います。人間は、自分が信じる内容を、間違うことがあります。ですから、正誤の判断は重要です。しかし、「文顯進会長御夫妻が真の父母の使命を担って出発された」と信じるというのは、人間がする正誤の判断の段階を超えて、「神様が任命した」と信じるという段階です。人は様々な事を信じることができます。「神様がいない、霊界もない」と思うのも一つの信仰です。キリスト教を信じるのも、イスラム教を信じるのも、仏教を信じるのも信仰です。人はそれぞれの置かれた環境と事情の中で、最善の内容を信じるしかありません。最善のキリスト教徒、最善のイスラム教徒、最善の仏教徒になるということを意味することになることでしょう。そして、その環境の中で、人間が思っていた「最善」の内容を打ち破るかのように、「最善」にチャレンジする環境が出来上がるだろうと思います。統一教会においては、「真の父母を信じて、統一教会に入り、祝福を受ければ天国に行く」と信じていたところがあります。それが統一教会の中での「最善」であるかのようでした。しかし、その考えの不足なところ、間違っていたところが、この14年で明らかになって行きました。最初に書いたように、私は一人の信仰者にすぎません。ただ、文顯進会長との関係は長いので、文顯進会長の考えている事を、比較的理解しやすいという面はあります。文顯進会長はF P Aという団体を創設されましたが、これはこの世の中で、状況に対処するために必要だからで、乗り物のようなものであり、団体そのものに価値があるとは思いませんし、この世の対処するための団体であるが故の、不都合や不完全さも起こり得ます。私にとって、F P Aは、使命的にも、仕事的にも、全体の中の一部であり、F P Aを代表する立場にもいませんから、F P Aやリーダー達を代弁できるわけでもありませんし、彼らと完全に意見が一致するかどうかもわかりません。ただ、私個人として思う事を伝えることはできます。それがこのブログです。また、自分の使命を果たす上で、文顯進会長を信じ、一つになることの大切さを感じているので、その信じ一つになることに比重を置いて書く可能性が強いです。各自、各家庭が神様に侍るのが、文顯進会長が願われている事で、故に家庭の協会です。統一教会のように、教会のリーダー達に、「僕のように侍れ」というのはありません。私が一人の信仰者であるに過ぎないように、彼らも一人一人が信仰者だ、というのが私の観点です。「信仰者だ」というのは、ただ信じれば良いということではなく、継続的な努力が必要です。たとえば、文顯進会長がいつも強調するように、「サタンが入る、傲慢と自己憐憫のドアを閉めて、感謝と謙遜の姿勢を維持する」事ができなければなりません。私は自分の体験からして、この姿勢を維持することすら、簡単ではない、と感じます。文顯進会長に直接に対する機会があればあるほど、自分の不足を感じます。傲慢と自己憐憫は、自己中心の堕落性の両極端(自分というものが強すぎるか、弱すぎるか)です。しかし、自分自身をわきまえ、謙遜であり、感謝するという姿勢を持つことは、大事なことで、信仰者として、神様に耳を傾け、正誤を判断し、終わりの無い永遠の世界への道を歩んで行こう、とするのが私の基本的姿勢です。
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