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みなさん はじめまして。コンテンツ系ヲタク会計士の山﨑修です。2009年6月末まで監査法人トーマツの株式上場支援部門に約11年間勤務していましたが、一念発起して同年7月より地元である茨城県常総市で独立開業しました。この不況の最中、金なしコネなし地盤なしのスタートですが、人との縁に関する運は人一倍恵まれていると自負しているため、これからもみなさんとのご縁を大切にして一歩ずつ前進していく所存です。それでは私の人となりを知っていただきたく、恥ずかしいですが私の半生を振り返ってみます。昭和44年(1969年)12月8日…誕生『歴史は繰り返す』茨城県水海道市(現 常総市)に山﨑家の長男として生まれました。いて座のA型です。3300gのおデブちゃんだったそうです。そして今ではメタボちゃん。。。( ̄▽+ ̄*)昭和49年4月~昭和51年3月…幼稚園時代『健康不良児』家から30秒のふたば幼稚園に入園。当時は病弱で年の半分は病欠していました。そのため幼稚園の想い出といえば女の子にいじめられたこと、初恋の女の子ができてその子に恋文を書いたことくらいでしょうか。一方で、「帰ってきたウルトラマン」「ウルトラマンA」「ウルトラマンタロウ」や「仮面ライダーV3」「仮面ライダーアマゾン」「マジンガーZ」「グレートマジンガー」などを見ていた記憶は鮮明に残っています。また、赤ん坊のころからどんなに泣き叫んでいても近くを走る関東鉄道常総線の列車を見せると泣きやんだそうです。このころからアニヲタや鉄っちゃんの素養が育まれていたようで。。。昭和51年4月~昭和57年(1982年)3月…小学生時代『昔、のび太だった君へ』家から3分の水海道市立水海道小学校に通学。相変わらず体が弱く、身長もクラスの真ん中くらい、勉強も可もなく不可もないが運動はからっきしという全く目立たない子供でした。もっぱらの楽しみは「ドラえもん」で、その頃は本気でのび太は自分をモデルにしたのではないかと思ったりしていました。小学校高学年になると、身長が伸びてきたのと比例して、人並み程度には運動もできるようになり、また音楽にも目覚め始めたり。ちなみに最初に買ったレコード(CDではない!)はイモ欽トリオの「ハイスクール・ララバイ」だったりして(・・。)ゞ鉄ヲタがピークだったのも小学校高学年の頃でした。当時は大人になったら「いい旅チャレンジ2万キロ」(これは国鉄全線走破すると何かプレゼントがもらえる企画)に挑戦するぞと宣言してみたり、電車の写真を撮りに上野駅にばあちゃんに連れて行ってもらったり、当時は神田にあった鉄道博物館に出没したり、毎月時刻表を買っては脳内シュミレーションしたり。当時は全特急電車の始発~終着駅も暗記していたなぁ。。。西村京太郎、江戸川乱歩の鉄道もの小説なんかまで読んでいるだいぶイタイ小学生でした…(;^_^Aアニメは何と言ってもガンダムとマクロスをリアルタイムで見ていた…年代なんですが、その当時から今も変わらないのが、流行りものには斜に構えるクセがあり、流行から一呼吸置いてハマる傾向があります。(村上春樹やエヴァンゲリオンなども)なので、ガンダムもマクロスも本放送が終わった後の再放送を見てどハマりしました。(#⌒∇⌒#)ゞ特にガンダムは敵側には敵側としての正当な理由がある、というか敵にも家族がいる、という描写を正面から描いた初めてのアニメという気がしてかなりの衝撃でした。あと、主人公が戦うのに躊躇する姿も。(これが後にエヴァのシンジにつながるのでしょうか。。)昭和57年4月~昭和60年3月…中学生時代『人生の宝箱』家から自転車で20分の水海道市立水海道中学へ。中学時代はいまでも続く生涯の出会いがたくさんありました。1つ目はバスケットとの出会い。とある土曜日。サッカー部を追い出されてプラプラしていた私に、小学生の頃からの友人であるKちゃんが「今日、一緒に遊ぼうよ。」との誘い。二つ返事でOKしてKちゃん宅に行くとなぜか学校のジャージを着ていて、「実は今から部活でバスケの練習試合があるから、一緒に体育館に来てよ。」と。意味が分からないまま一緒に体育館に行き、なぜかオフィシャルの手伝いをしたり、試合後の反省会も聞いたりして。「なぜ俺はここにいるんだろう?!」と思っていたら、監督の先生が「それじゃぁ山崎、明日から来るんだな!」と。人一倍気が小さい私は「は、はいぃぃ。。。」と応えてしまったのが私とバスケの出会いでした。でも、そのおかげで後の人生に大きな影響を与えることになるのですが、この時は知る由もありませんでした…2つ目は釣りとの出会い。正確には釣りは小学生の頃から趣味にしていて、よく近くの鬼怒川や小貝川に釣りに行ってましたが、中学になって本格的にルアー釣りにハマり、以来今でも釣りは大好きです。基本的にはルアー釣り(主にバス)がメインですが、フライでも川釣りでも海釣り、管釣りも釣り堀でも何でも好きで、前職時代は釣りクラブにも入部していて、仕立船でハゼ釣りなんかにも行ってました。中学の頃よく購読していたルアー雑誌に「Tackle Box」という本がありました。これがこれまでの釣り雑誌とは一線を画する画期的な釣り雑誌で、未だにこれを超えるものはない、と思っている程当時のインパクトは強かったです。私は創刊号から購入し、途中一時期買っていませんでしたが大学卒業後にまた購読し始め、以後休刊号まで愛読していました。その後DVD版で復刻されたりしていますが、やはり雑誌での復活に期待しています。ちなみに、編集部は今の住まいの直ぐ近くにあり、一度編集部にお邪魔したこともあるくらいのファンです。3つ目は音楽との出会い。中学2年の時の同級生に初めてコンポの存在やFMラジオの存在(「エアーチェック」なんて、今は死語でしょうか(苦笑))を教わり、オフコースや洋楽の手ほどきを受けてこれまでの歌謡曲から一歩。オトナの音楽に目覚めたところでした。当時はMDやDATはおろか、CDもまだ出初めくらいで、レコードとカセットテープ全盛でした。その当時よく聞いていたのはオフコースにさだまさし、ALFEEといったJ-POP~フォークソングから、YESやASIAといった洋楽を聴き始めたのがこの頃です。もう一つ、大きな出来事だったのが、中2の冬に初めてバンドを組みました。どうも、ギターとドラムは初めからメンバーが決まっていたらしいのですが、何故かベースのなり手がいなく、教室を見回したら机でカンペンケースをネックに見立ててコードを押さえる仕草をしていたアホ面した私が目に入ったそうで。そのドラム担当のY一に「バンドをやると女子にもてるぞ。ベースやってみないか?」とそそのかされ、翌週には他のバンドメンバーよりも先にベースとベースアンプを買いそろえてしまいました。それが14歳の時ですから、その後26年間も続く趣味になろうとは…ただ、腕前だけはその当時のままですが(汗)ちなみに、初めにコピーした曲はALFEEの不朽の名曲「星空のディスタンス」でした。今ではT-REX、R・ストーンズ、ハイロウズ、MODS、ALFEE、爆風スランプからアニソン(マクロスFやらけいおんやら)まで幅広く演ってます(^^)4つ目は友人との出会い。中学2年、3年と同じクラスになった同級生とは今でも交友が続いている人が多くいます。特にバンド関係や音楽の話をしていた友人とは今でも交流が続いています。私の同級生はサラリーマンの家庭は少なく、商売をしている家の子たちが多かったもの、後に会計士になろうと思ったきっかけの一つです。アニヲタぶりは健在で、この頃は「うる星やつら」にハマってました。特にOP曲とED曲が好きで、よく録音しては聴いてました。また、この頃は深夜ラジオにもはまり、友人とオールナイトニッポンの一部・二部を毎日聞けるか?という勝負をしたり。土曜の夜中に家を抜け出しては友達の家で明石屋さんまの「東京めぐりブンブン大放送」から笑福亭鶴光のオールナイトニッポンを聞きながら思春期の少年が一度はお世話になった「BOMB」や「HotDogPress」を読んだりしていました。そんな俺らも今では父親なんですね。。。昭和60年4月~昭和63年3月…高校生時代『不毛』高校は茨城県立水海道第一高校へ。高校時代は不毛の3年間でした。部活(バレー部)も1年の夏休みには退部してしまい、入学試験は上位だった(その証拠に高校1年の最初の学級委員長は成績順ということで私だったんですよ!)のにあっと言う間に下位クラスへ(当時の担任の先生に「お前みたいなやつは初めて見た」とあきれられ…)。その後はバンド練習と健全マージャンの日々でした。ただ、そのバンド活動は本当に楽しかった…中学の同級生だったドラムのY一やギターのK商とK藤との練習の日々(といっても1曲練習しては1時間休憩という、「けいおん!」顔負けの練習っぷりでしたが)はかけがえのないものでした。ただ、人生の中で最も無気力な時期でした。。。その頃一番嫌いな言葉が「努力」でしたから(苦笑)。勉強家で成績優秀な同級生のことを「そんなに勉強してどうすんの?」という目でみている一方で、「自分はやればできる」などと根拠のない自信とそのくせ何事も一生懸命に取り組まない腑抜けっぷり。ホント、当時の自分に説教してやりたいです…昭和63年4月~平成元年3月…浪人時代『呑んベぇ誕生』この結果、当然にして一浪してしまいました。その一浪も「一度、浪人生活をしてみたかった」などとほざく始末。いや、穴があったら入りたいくらいお恥ずかしい限りです。。。ただ、ちゃんと勉強している同級生に影響され、頑張って勉強したおかげで何とか青山学院大学に合格することができました。その当時はよく友人から「神風が吹いた」「青学という顔じゃない」と突っ込まれたものでしたが、バリバリの田舎者でしたので「青学」という響きは何と甘美であったことか…高校現役当時は当時流行りつつあった「バイオ」関係として農学部農芸化学科に行きたくなったり、当時好きだった南野陽子主演の「熱っぽいの!」を見て内科・小児科医になりたいと思ったりもして理系志望でしたが、どう考えても文系科目の方が得意だったのでおとなしく文転しました。また、それまでビールをコップ一杯しか飲めなかったのに(何時から飲んでたんだ!というお叱りは置いといて)、急に飲めるようになったのも浪人時代からでした。この時飲めるようになったおかげでその後の数多くの修羅場を切り抜けてこられ、非常に助かりました。。。平成元年4月~平成5年3月…大学生時代『自堕落からの反動』大学は青山学院大学法学部公法学科で、3~4年次は佐藤芳男先生の「刑法・刑事訴訟法」ゼミでした。大学時代は4年間弱小テニスサークルに所属し、3年次には部長をしてました。特にリーダーシップを発揮してまとめ上げるというのではなく、飾りのような存在でしたが…ただ、テニスは大好きでしたし、初めての一人暮らしも経験できたので毎日が楽しかったです。(楽し過ぎて勉強は完璧に疎かになっていましたが。)そんな中、自分の中では大きな出来事が2つ。1つ目は大学3年の期末試験が終わり、周りが就活をしだした頃、当時よくツルんでいたT鍋と二人でいつものように渋谷センター街のつぼ八で試験打ち上げをしていた時の事。T鍋「就職とかどうすんの?」 私「何か資格とか取りたいと思っているんだけど、何にしようかなぁ…」T鍋「山崎!これからは会計の時代だぞ!!俺も税理士の勉強を始めているが結構面白いぞ!」 私「会計かぁ。。。」その当時はバブル絶頂時で、就職先には全く事欠かず、むしろ企業側から「ぜひ我が社の入社試験を受けて下さい」という連絡が毎日のように来たり、頼みもしない会社資料が送りつけられたり、就職希望者を囲い込むために1日中接待で拘束されたり。今からは考えられないですよね…。そんな時代感だったので資格勉強をしている人は少数派でしたが、ただ漠然と事業会社にそのまま就職するのに抵抗があり(単なるピーターパン・シンドロームだったかもしれませんが…)、また入学当初から何か資格を取りたいとは思っていましたので、司法書士か弁理士か、はたまた会計士か税理士か、で悩んでいたところ、グっと背中を押された気がしました。2つ目は、当時草バスケチームに入っていたので久しぶりにバスケにはまっていた時のこと。大学から代々木第二体育館が近かったので、よく実業団のバスケ試合を観戦してました。その中で、アンフィニ東京に武田選手という、強豪大学出身ではない小さなPGがいて、もの凄い活躍をしていました。当時、下位チームだったアンフィニが1992年1月の全日本総合で準優勝しましたが、その大会の準決勝戦(アンフィニvs三菱電機だったかと)を生で観戦したのがファンになったきっかけでした。その武田選手がバスケ雑誌で「肺から血がでるまで練習します」という旨の記事を読んで衝撃を受けました。この時初めて、心の底から「努力」ってカッコいい!と思いました。なぜだか武田選手のこのコメントが身に沁みて、このままではいかん、と強く思ったのでした。そんなこともあり、それまでの大学3年間はずっと自堕落な生活をしていたので、このままではダメな大人になる、何か一つくらい難しいことにチャレンジしてみなくては!と思い、「それならば会計関連の資格で最難関と言われる公認会計士試験に挑戦してみよう!」と決意したのでした。平成5年4月~平成10年10月…受験時代『ノストラダムスの大予言とセミの幼虫』平成4年4月から勉強を始め、最初の試験を平成5年7月に受けたのですが、それからが長い長い冬眠時代の始まりでした。2年目後半からは試験の成績も上向いてきて、3回目の試験の際は本気で受かるかも、と思っていましたが失敗、その後も不合格を繰り返し、6回目の受験の際には今年ダメならやめようと決意して臨みました。(その為の保険として日商簿記1級も取っておいたくらいです。)ところが、得意だったはずの原価計算でハマり、民法は当時としては難易度が高い問題でほぼ白紙状態だったため、正直「今年もダメだ…」と思っていましたしかし、せめて結果はきちんと受けとめようと大手町の合同庁舎に昼過ぎジーパン姿で見に行きました。当時は合格していると、その日の内に内定をもらっている監査法人の祝賀会があるので自信のある人はスーツ姿で見に行ったりします。しかも、夕方からは本屋のバイトも入れたままでしたので、本気で諦めていました。でも、そういう時に限って受かっているものですが、何より自分が一番信じられませんでした(苦笑)親に報告した時も「もしかしたら手違いかも…」と言ったり、合格掲示板と駅の間を何回も行ったり来たりして何回も番号を確認し、合同庁舎を離れるのに30分くらいかかりました。その後も合格証書が届くまでは半信半疑でしたし、それからも「実はあなたは不合格でした」という悪夢を見ては夜中に汗びっしょりで飛び起きる、なんてこともありました。いやぁ~、本当に合格していて良かったです。ところで、友人のKは当時を「セミの幼虫」時代と称していました。これは、合格年が1998年だったことから、「かわいそうに、ようやく合格したのにノストラダムスの大予言によって直ぐに世界は滅んでしまう。長い幼虫生活からようやく成虫になったのに直ぐに死んでしまうなんてセミみたいだ」と揶揄したものでした。予言が外れてセミにならずにすんで本当に良かったです:*:・( ̄∀ ̄)・:*:平成10年10月~平成21年6月…監査法人時代『最高の部門』合格後は監査法人トーマツに入社しました。受験生時代に東京商科学院で運営バイトをしていた際、講師のK先生と仲良くさせてもらい、帰る方面が一緒だったこともあって何度か飲みに誘っていただいてました。その時、先生にどの監査法人が一番よいかお聞きしたところ、監査法人トーマツが一番バランスがいいのではないか、とのこと。また、風通しがよい、とか全体的にアグレッシブで仕事を覚えるのが早い、という噂でしたので、第一志望をトーマツにして就活しました。トーマツの全体新人研修を2週間ほど受け、その間に希望部署を選択するのですが、初めは普通に国内監査部門を希望していました。ところが、研修を受けるにつれ、トーマツの特色である国際部門に強いのと新規上場案件に強い、ということを知り(入社するまでは恥ずかしながら知りませんでした…)、最後に部門説明会に名物パートナーによる部門説明を聞いて「ここだ!」と決心したのが株式上場支援部門であるトータルサービス部でした。この部署の風通しの良さ、若年時からどんどん経験させてくれる風土、能力の高い人たちが集い、高い目的意識を持って仕事をしている、そんな空気感と居心地の良さのあまり、入社当初は5年位で辞めて茨城で独立しようと思っていたのが、その倍以上の10年9ヶ月も在職することになってしまいました。その間、株式公開準備のための予備調査や内部管理体制の構築支援業務を始め、法定監査(金融商品取引法監査、会社法監査)、任意監査、財務デューデリジェンス、会計顧問業務等、本当に様々な仕事を経験させてもらいました。特に後年は私の趣味でもあるバイオベンチャー企業やコンテンツ系企業(映画配給会社、アニメ制作会社、音楽配信会社、マンガ出版社、芸能プロダクション、等)を中心に担当することができ、コンテンツ系企業に関する知識とノウハウはかなり得ることができました。ちなみに、今年の6月27日に新劇場版エヴァンゲリオン「破」を見てきたのですが、今度はいつかエンドロールに自分の名前がクレジットされるような仕事をしたいなぁ…などと思いながら見てました。平成21年7月~現在…独立開業『なぜ会計士になったのか』そもそも、なぜ会計士を選んだのか。大学3年の時、友人に背中を押されたことが一歩を踏み出す大きなきっかけになりましたが、根底には地元の友人や知人が事業主であることが多いことから、そんな皆さんの役に立てる仕事がしたい、という想いがありました。その為にせっかく大学まで行かしてもらうのだから何か資格を、と考えた結果、会計や税務であれば毎年必ず必要になるものだし、社会生活の上でいろいろな場面で会計や税務は絡んでくるので、必ず何らかの役に立てるのではないか、と思いこの仕事を選びました。その後、10年ほどこの業界に入っている訳ですが、その時の考えは間違っていないと確信しています。個人でも法人でも、経済活動を営んでいる以上、会計や税務の話は不可避ですし、なにより昨今では会計・税務の世界は制度の変更・改訂が目まぐるしく、我々専門家でも全てをキャッチアップすることが難しい状況にあるため、普段あまり接する機会のない方々にとってはBLACK BOXになっているのではないでしょうか。それに、一旦処理してしまうと後から修正することが難しいのも会計・税務の世界ではよくあることで、その為にも専門家による事前の助言が重要かと思っています。また、結婚してから約8年間程、地元を離れていましたが、地元経済は芳しくないようで、常総市の商店街もシャッターが目立つようになってきました。私は茨城県が、常総市が大好きです。何より、沢山の友人・知人がいるこの地域の活性化に微力ではありますが少しでも御役に立てればとの想いから、住まいからは離れていますが、あえて地元での独立開業に踏み切りました。会計・税務に関わらず、何か困った事が起きた時に真っ先に私の顔が浮かぶ、そんな専門家になりたいと思っています。前職時代の経験から、会計監査(事業会社、学校法人や公益法人、地方公共団体に対する外部監査等)や、創業期~成長期における会計・管理面での支援に加え、M&A等の際の財務デューデリジェンスや株価算定業務、専門家のネットワークを利用した事業承継・事業再生支援業務などを事務所の業務内容の中心に考えております。また、コンテンツ系企業に対するノウハウを活かし、コンテンツ系企業の内部管理体制構築支援、監査対応指導、会計・決算指導なども守備範囲です。また、将来的にはセミナー開催や専門家教育、書籍出版(超マイナーな本の共著はあるのですが)などにも積極的に関与していきたいと思っています。長文を最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。これからも、地元とコンテンツが大好きなヲタク会計士をどうか宜しくお願い致します。
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