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「Live your life!」一級キャリアコンサルティング技能士で「生き方・働き方カウンセラー」の鵜飼柔美(うかいやすみ)と申します。企業内メンタル&キャリア相談、学生相談や就労相談等で延べ1万人超の相談経験を経て「Live your life!」貴方の人生を生きよう!を私のミッションとして活動をしています。このブログは主に自分の人生を自分らしく生きたいと願う女性に向けて2017年に「リブライフコンサルタント」という肩書で開設しました。-------------------------------------------1.なぜ「女性」を応援したいのか?-------------------------------------------今よりもっと変わりたい。そんなふうに思うことに性別は関係ありません。でも、私自身の経験として、今私たちが生きている文化のなかではまだまだ女性のほうが、自分だけの都合で人生の選択をしにくいように思うのです。結婚しようと思っている相手が遠方に転勤。一緒に行くか行かないか迷うのは、たぶん女性のほう。素敵なパートナーに出会って結婚し、家族をつくる。どんな形の夫婦があってもいいけど、出産は男性に代ってもらえないから仕事の調整が絶対条件になるのは、女性のほう。子どもたちも一人前に成長し親として肩の荷を下ろした頃現実的になる自分たちの親世代の老い。そのとき夫婦の決断は。どちらがいいか悪いか、ではなく、貴女が、貴女自身が、その決断にその選択にそのバランスの取り方に納得していますか?と問いたいのです。もしも、そうでないならば、自分以外の他者の基準や、社会の雰囲気に飲まれて思いとうらはらな生き方をするのでなく「わたしの場合は、これでいい」そんなすがすがしい笑顔に満ちた女性を増やしたいのです。そんな世界で育つ子ども達は、それを当たり前として育つでしょう。ありのままに。自分らしく。そんな心豊かな世界を目指してそんな大きな命題の前にいま、自分ができる小さなこととして大河の一滴として【自分を生きることが"貴女"を活かす 30代からの大人の進路選択】を。私の力が何かしらの手助けになるならば50年後、100年後のためにいまできることをしたいのです。-------------------------------------------2.肩書きについて-------------------------------------------2017年、このブログの開設をしたとき上記のような思いを実現するために私だけの肩書きとして「リブライフコンサルタント」を名乗りました。Live your life!貴女の人生を生きよう!に由来します。当時、カウンセラー資格はどれも民間資格でした。そのこともあって、また、ドラマや映画の影響で極端なイメージもできていて、以前勤務していた公立高校では「カウンセラーって心を分析されちゃうんでしょ?」と警戒してお話してくださらない先生もいらっしゃいました。また、十分な知識、スキルのない「カウンセラー」に傷つけられたという話をこれまで何度も耳にしました。本来、カウンセリングはしっかりと形成された信頼関係のもとで相談者自身が自己理解を深め、自らを洞察し、自主的に目標を定めて実行し、問題を解決していくことを援助するものですが、しかし、相談者の悩みや解決したいことが多様である限り、援助の方法も多様性が求められます。金太郎飴のように同じタイプのカウンセラーばかりいても役に立たないといえます。そして相談者の問題解決に向かう最初のステップが両者の信頼関係構築である限り、カウンセラーの人間性も多分に影響してきます。資格の有無よりも、その人柄に信頼感を持つことはあります。その相談者にとって、この人が「自分のカウンセラー」だと思えたなら、それでいいと言えるかもしれません。そんなややこしい状況で、「資格名」を肩書きとして名乗るよりも「誰にどんな援助をするのか」がわかるようにと「リブライフコンサルタント」と名乗りました。しかし時代は刻一刻と動いていて現在、カウンセリング関連の国家資格として「キャリアコンサルタント」(2017年より国家資格)「公認心理士」(2018年より国家資格)があります。また、国家資格キャリアコンサルタントの上位資格として熟練レベルとして2級キャリアコンサルティング技能士指導者レベルとして1級キャリアコンサルティング技能士の両資格が設定されています。資格は、どれだけの量と内容を身につけているかの証明です。その資格を付与するに値する知識とスキルを公正に審査された結果です。そういう意味では、援助者がどんなバックボーンを持っているかは重要だと思っています。前置きが長くなりましたが、私が現在バックボーンとして持つ資格は、次の3つです。・シニア産業カウンセラー(日本産業カウンセラー協会)・キャリアコンサルタント(2017年より国家資格)・1級キャリアコンサルタント技能士(国家技能検定)1987年に産業カウンセラー2級資格を取得以降、上級資格取得だけでなく、スーパーバイズや教育分析(カウンセラーとしての自己洞察)を受けて適正な支援ができるよう、まさに「修行」を続けてきました。2007年から上記資格取得を目指す後進の育成にあたっています。2019年春に「Office Faro」カウンセリングルームを本格始動し現在は1級キャリアコンサルティング技能士として事例指導やカウンセリングスキルアップのトレーニングも行っています。-------------------------------------------3.わたしの年表-------------------------------------------1964年生まれ。2019年10月現在55歳になりました。これまでの人生遍歴を、「時代」分けしています。<第1次鵜飼時代>温厚で優しい父と、明るくて行動的な母の長女として産まれました。父が転勤族だったので、通った小学校は4校。「転校生」と呼ばれること3回。始業式に、新しい担任の先生と一緒に静かな廊下を歩き、新しい友達のいる教室へ向かうドキドキ感が、ちょっと心地よかったのを覚えています。休み時間に友達が「方言を話してみて」「家はどこ?」と集まってくれるのが嬉しいと同時に、だいたいどこでもやっていけるというような社交的なわたしが形成されたと思います。また、第1次鵜飼時代の半分が関西、半分が関東住まい。東西の文化、話し言葉を操る「バイリンガル(?)」になりました。最初に勤務した監査法人で、上司に産業カウンセラーの受講をすすめられ「2級産業カウンセラー」を取得するも、「自分の人生はまだまだ青い」と思うきっかけがあり、カウンセリングはしばらく封印。<~さんの妻・母・嫁時代>昭和が終わる頃、最初の結婚。結婚式の衣装を決めるために新幹線で大阪に向かっているあいだに昭和が終わり、結婚式なんて不謹慎かしら?なんて母と話しているとき平成が始まりました。「だんご三兄弟」が大ヒットした頃、ふたりの息子たちに「お願いだから弟を産んで」と懇願されたから、というわけではないのですが、三人目に男の子を妊娠しましたが流産。長男も次男も切迫流産を経て出産、三男は順調だったのに突然の流産。意味を求め、意味を考える日々のなか、気持ちを救ってくれたのはいつも息子たちの屈託ない「言葉」でした。夫の実家は100年以上続く商家。私も「昆布結納店」の嫁として、水引細工を習い、地域のイベントに出店するなど「嫁」「妻」「母」のフル稼働でした。「やらねばならない」ことがたくさんあるなか、メンタルダウン。「やらねばならないことがたくさんあるのに、できない」自分に自分でダメ出しをして、どんどん落ち込み、消えてしまいたいと思うほどに。ここでもやっぱり息子たちの「言葉」に救われてもう一度生きる気力を取り戻したとき出会った内舘牧子さんの「夢を叶える夢を見た」という本の帯に見つけた「棺桶に入る時、あなたは後悔しないか。」という言葉。「夢という爆弾を爆発させて人生を終えるか、夢の不発弾を抱えて死ぬか」そう問われたとき、「いつかやろう」の不発弾を抱えて棺桶に横たわる自分をイメージして、それは嫌だと思ったのです。では、何をやるか。では、私が爆発させたい夢の爆弾とは?第1次鵜飼時代からずっと、母や周りの大人たちから可愛がられてきた自分。言い換えれば「扱いやすい子供」で「優等生」だった自分。自分が心からやりたいこと・・・なんだろう?わからないなりに思い浮かんだのは過去に封印したカウンセリングの勉強の再開。「青い」と思った私の人生も、出産や流産や、義父母との同居やコミュニティのなかでの人間関係などの経験で、かなり渋い色合いになっていそう。温かく大きな愛情で指導してくれる指導者、先輩、仲間に恵まれのめり込むように知識とスキルを磨いていくなかで、自分自身にも変化が産まれました。「優等生」だった自分からの脱却。「~さんの奥さん」「~さんのお嫁さん」でなく、私自身でありたい。私を「自分の分身」とする母との分離、私を「自分のもの」にしておきたい夫との価値観の違いが始まり第2次鵜飼時代に突入するのです。<第2次鵜飼時代>息子たちとの穏やかな毎日は、巣立つ息子たちを送り出すまでのカウントダウン、仕上げの日々でもありました。同時に、まさかこの仕事でひとりで生活していくとは思っていなかった自分が、このままやっていけるのか、また、それで息子たちをサポートし守ることができるのか。経済的にも精神的にも、自分自身の基盤を構築することでもありました。誰に幸せにしてもらうでもなく私を幸せにするのは、私。「オカンのいるところが自分たちの実家」と言い「オカンの好きなようにやったらいい」と背中を押してくれる息子たちの優しさは、かえって「かっこいいオカンでいたい」と思わせてくれました。「かっこいいオカン」でいるために自分で決めたこと。①恨み言を言わない②泣き言を言わない③彼らが困ったときに、ポンと出せるような経済的確立④彼らが困ったときに、どーんと構えていられる精神的ゆとり③は正直、苦しいときもありました。次男の大学進学時には「国立しか無理」とプレッシャーをかけました。④は完全にやせがまんのときもありました。それでも、そんなふうな人生への向かい方が、息子たちだけでなく仕事とも、繋がり続けていく信頼になりました。「人生を変えてやる」歯を食いしばって生きた「第2次鵜飼時代」は、周りの友人たちから見れば「自由になった」後輩たちから見れば「いつも楽しそう」と映ったようです。気がつけば、秋の青空のように、すがすがしく開放的な毎日。まさに、自分をご機嫌にするのは私以外の誰でもない。とことん自由な自分を手に入れたのです。<第3次鵜飼時代>私自身が私を幸せにし、自由でいられるようになったとき38年ぶりの再会をした元小学校の同級生。ひとりの自由を楽しむ私を理解し、応援してくれるだけでなく、遠く離れた大阪に住まいながら、認知症を発症した母や、ひとりで介護する父をサポートしたいと思う気持ちを心身共に支えてくれました。そんな彼が腎臓がんになり摘出手術を受けたあと、再発のリスクと一緒に闘うポジションにいたいと2度目の結婚を決意。そうして2年半の別居結婚生活。すべての仕事を離れても父や母や両家のファミリーのそばで、自分にできることをしたい、できなかったことを後悔したくない、と思ったタイミングで、20年の大阪生活にピリオドを打ち、神奈川に戻ってきました。ワークライフバランスを見直したものの50歳を過ぎて新しい環境で信頼を得て仕事をすることができるのか。不安はありましたが、そこは持ち前のケセラ・セラ。人生で4回目の転校生になるような気持ちで、口癖の「なんとかなるやろ」。息子たちはふたりとも社会人になり、私は私の食い扶持だけ確保すればいいのです。たいしたことではありません。でも譲れないのは、バランス。家族とのプライベートの時間が最優先。おのずとオフィシャルな自分は短時間で有効に。以前のように、せっせと「やれる仕事」をやるのでなく「やりたい仕事」を。第3次鵜飼時代のいま、わたしだけの志命や志事だけでなく多くの後輩カウンセラーがより自信をもってその職務にあたり世の中にカウンセリングを身近で有益なものとして認知され「働き方改革」が単なる業務量の調整でなく「生き方改革」として生きること、働くことの意味を見直しより良い選択、より良い決断により多くの人が自分らしく生きる社会になるための礎石になれればと思っています。ここにいたるまでに出会ったすべての皆さんのおかげで今日に繋がりました。感謝の思いと共に、50年後、100年後の世界が今よりもっと心豊かでありますように、大河の一滴として貢献できれば幸いです。ここまで読んでいただきありがとうございました。
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