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ゆうき1978年、神奈川県小田原市生まれ。父は新聞社で働くサラリーマン、母と祖母は専業主婦、祖父は警察官。まだ未婚の叔母が二人。そんな家庭に初孫として生まれました。生まれた時はちょっと大変で。母は妊娠31週で破水して、急いで出産して、私を取り出してから「もう一人いる!」ってなって、女の子が出てきました。予想外の双子出産。私の生まれた時の体重は1350グラム。双子の妹は980グラム。極小未熟児で生まれ、私たちは保育器の中で生死をさまよいました。双子の女の子は生まれてから一週間でなくなりました。私の中の、たぶん一番古いインナーチャイルド。保育器の中で寒くて寒くて、誰もいない。誰を呼んでも決して誰も来てくれないのだというものすごい孤独と絶望を感じているチャイルドでした。そんなことがあって、私は命を得ることができました。生後何ヶ月も経ってから、私を抱っこして私を自宅に連れて帰った時、両親は本当に幸せだったって。そういう未熟児の子は保育器の中で延命のために酸素を吸入されます。すると目の血管が異常に発達してしまって、未熟児網膜症という病気にかかることがあります。私もその病気になって、生後3ヶ月くらいの時に横浜の病院で2度、レーザー手術を受けました。弱視で網膜も弱いってことで子供の頃は激しい運動はできなくて、唯一やった運動は小3から2年くらい通った水泳くらい。でもあまり得意ではなくて、今も平泳ぎはできません。笑野球部とかやりたかったなー。同じくらいの時期に読書好きの父から歴史の本を勧められてから、本をたくさん読んだ。司馬遼太郎を読む小学生。渋い。笑そんなインドアな少年時代を過ごしました。小学校の高学年の頃に私に斜視があって、私がどこを見ているかわからない、ってクラスの子に指摘されてから、自分の斜視と、自分の目が悪いということをコンプレックスに思い、必死で隠すようになりました。ますます内向きな性格に。。それでも子供の頃は、弱視ながらも両目とも見えていたのだけど、高校生の時、学校のホームルームで居眠りをしていて、先生が黒板消しを投げて、右のこめかみにがーんと見事ヒット。それから右の目がだんだん見えなくなってきて。。おかしいおかしいって、思ったんだけど、誰にも言わずにいました。日に日にぐにゃぐにゃとしてくる右目の視野。結局、高校を卒業して、浪人が決まった時に病院に行って、網膜剥離をしていたことが判明しました。すぐに入院して手術はしたけど、視力はあまり戻らなくて、右目の視界はぐにゃぐにゃしたままでした。退院してから右目が治らなくて、浪人が決まってて、毎日行くところもないし、自分がどこにも所属してない。おれの将来暗いのかなって。社会から捨てられたみたいなすごく絶望的な気持ちで町田駅で佇んだ記憶があります。そんな絶望感があってか、浪人中はたくさんの本を読みました。哲学の本とか。なんか頭でっかちで、暗くて、自分なんて幸せになれるはずがないって、固く信じていたどん底期です。自分は普通じゃないと思い、「普通であること」にあこがれていました。そんな浪人時代を過ごして、可もなく不可もない感じのふつーの大学の経済学部に入りました。そこで何かが吹っ切れたっぽくて、テニスできないのにテニスサークル、ゼミ長、バイトのリーダーをやって、パチスロやって、麻雀やって、そしてタイ、インド、ラオス、香港と、沢木耕太郎にあこがれて、休みのたびにアジアを放浪しました。バカみたいに忙しくて、人にまみれて、いつもお金がなくて笑そんな学生生活を送りました。就活の時期になって、経済学部のゼミの課外授業で東京証券取引所に見学に行ったんです。その時に株って面白そうだなーって思ったんです。その頃はまだ「場立ち」っていう手でサインを出して株の取引をしていたんですけど、それにめちゃくちゃあこがれたんです。すっごいカッコよかった。株式ディーラーっていう仕事があるって知って、それになりたいって思うようになりました。そして就活は証券会社だけを受け続けました。大きいところから小さいところまで、何十社も。でも斜視だし、目も悪いし、自信もないし。落ちまくりました。ある時受けた上場している証券会社さんの人事の人に「あなたの目が普通じゃないことはわかるし、障害者手帳をもってるなら、その枠で応募してきたら考えないでもない」って言われたこともありました。自分が絶対に言われたくなかった言葉。もーう、すっごいすっごい悔しかった。冬から始めた活動も夏になって、友人にも内定をもらう人が増えて、証券会社の募集もなくなってきて、そんな時に社員100人くらいの本当に小さな証券会社さんを受けました。その会社は株式ディーラーを専門にやっていこうとしていた会社さんで、なんと新卒からディーラーをやらせてくれる!絶対ここに入りたい!そう思って、すがる気持ちで受けたんですけど、本当に運良く、内定をもらえたんです。「キミ骨がありそうだからねー」って。本当に本当に嬉しかったです。大学を卒業後、その会社に入って、株式ディーラーをやって、力をつけて、三、四年たっところに引き抜いてもらって違う会社に移って、結局10年くらいその業界にいました。成績主義、ノルマがあって、三ヶ月ノルマを割ると簡単にクビになる世界でした。クビになって退職する人を100人以上見送りました。仕事は楽しかったけど、同時にほんと、しんどかったです。そしてはじめに入った会社で出会った女性と数年後に結婚しました。その方とは12年くらい一緒にいて、女の子を一人、もうけました。その元妻さんがスピリチュアルに興味があった人で、その影響で私もスピリチュアルの道に入りました。勉強会やお話会に行ったり、瞑想会に行ったり。そしてあるところでスピリチュアルカウンセラーという方とお会いしました。その先生が運営していたスピリチュアルカウンセラー養成講座っていうものに通って、そこで前世を見るとか、ガイドさんとチャネリングするとか、そういったことを教えていただきました。そして講座の卒業後、スピリチュアルカウンセリングルームを開業しました。講座の生徒の時の下積みを含めてだいたい4年か5年くらい、そこでスピリチュアルカウンセリングをしました。そしてルームを開業していた2015年、私の見えている方の左目が網膜剥離を起こしてしまったことを契機に、ルームをたたみ、その先生から離れました。それからインナーチャイルドを勉強したり、占星術を勉強する中で、ここなっちゃんというパートナーと出会って、たくさんの癒しとたくさんの不思議なことを体験しました。その導きで、このたびサロンを開業させていただくことになりました。私にとっては再出発となります。そんな未熟児で生まれてからの私の軌跡。見えずらい身体を持って、目に見える世界を歩き、同時に見えずらい身体をもったからこそ、目には見えないものを大切にしてきて、そして今も学んでいる。そんな私なのかなと思います。長く書かせていただきました。お読み下さってありがとうございます。いらっしゃるみなさまが自分を知って、やんわりと受け入れて、力を抜いて、そしてもっと魂と近づけるお手伝いがしたいなって思っています。
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