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・・自己紹介・・芯から輝きたい女性を応援する心理カウンセラーの熊谷安央以(くまがい あおい)です。こちらのサイトへ来ていただきこころから感謝いたします。わたしは20年間機械設計用図面ソフトのインストラクターとしてIT起業で働いていました。が、とあることをきっかけにキャリアを手放しメンタル心理士を修学します。今では女性をサポートすることに喜びを感じて活動しています。こころを大切にいのちの尊さを大切にせいいっぱい生きて欲しいそう思うようになっています。そこに至るまでの道のりは長く苦悩でもありました。私は、1974年新潟の農家に生まれました。土のあたたかみやにおいが好きで雪の下からふきのとうが芽をだすと「あ~春がきたんだ~」とほんとうに嬉しかった。.....病気で産まれ。2歳で手術をします。同じ病室で入院していたあきらちゃんは亡くなりました。病室のベットで撮った写真が今でも残っています。母とお線香をあげにいったときあきらちゃんのお母さんががんばって悲しみを隠しているように感じました。「いっしょうけんめいに生きるね。」そんな風に命の尊さを小さな胸に刻むできごとでした。4ばん目に生まれた私はおろそうか迷ったこと突発的にという意味で「とっぱつか子」と言われたこと流産しそうになったこと病気だったことなどを聞いていて望まれていたわけではないのかもしれない。そんな風に感じた人生のスタートでした。それをかき消すように「ぜったいに生んでよかった。」そう思って欲しかった。なにか、がんばって無いとわたしには価値がない。そういう自分でずっと生きてきました。「親の期待に応えたい。」という思いが刻まれていたのです。そのがんばりが評価されたのかいなか娘の私が東京本社への転勤をお願いされました。東京に出てきてまた必死にがんばります。ここでも「期待に応えたい。」それの想いが強かったのです。期待に応えられない「わたしは価値がない…。」だからどんどん機械的に仕事をこなしました。上司に喜ばれると価値があるわたしを感じられるようで。嬉しくなりました。あの土のあたたかみを感じていたきれいなこころにはもやがかかっていきました。ホームシックになりました。ご飯がたべられなくなりました。がりがりに痩せていきました。どんどん自分をいためつけていったのです。もっとがんばらねば。もっと期待に応えなければ。と…ある日、姉から電話が入ります。「落ちついて聞いて…」の言葉から何かが起きたとすぐに分かりました。「父ちゃんが交通事故で死んだって。」姉の言葉を聞いた瞬間にわきの下から尋常じゃない汗がふきでました。こないだ電話で話したばかりなのに…家に入ると父は座敷に横になっていた。もう硬くて冷たかった。線香のにおい悲しみと怒りと憤りいろんな感情がいっぺんにきました。田んぼに残ったままの田植え機玄関のサンダルさっきまでいたのにもう生きていない。。。「うそでしょ。」と思いました。事故は無免許運転の若者が父の車に衝突した悲惨なものでした。ケートラックのフロントガラスは割れ飛び出した父の体は、30メートル飛ばされ地面にたたきつけられたそうです。出血性ショック死でした。何を最期に思ったのだろう。出棺のとき母が過呼吸になりました。大切な人を亡くす辛さ悲しみは人間にとって大きなストレスなんだ。そう感じました。父が嫌いだった姉が一番泣き崩れていました。もっと親孝行すればよかったと。東京に戻り仕事にうちこみました。「死ぬ気になったら、なんだってできる」自分を追い込むことがエスカレートしたのです。これまでコンプレックスだった学歴…4大の受験を試みます。もちこん仕事もこなしながら。通算5年間受験と通学をやり切りました。しかし、それを喜べない女性の同僚からは反感をかいました。ランチも飲み会も誘われなくなり辛い大学生活となりました。今思えば、私のコミュニケーションに問題があったのでしょう。その後わたしは最初の結婚が上手く行かず荒れていた時期に興味本位でバーテンのバイトを始めました。そこで今の夫と出会います。その頃の私は仕事と遊びを優先して過ごしていました。ある日私の心を揺さぶることが起こります。毎週のように遊んでいた大好きな友達に赤ちゃんができたのです。「置いて行かれる!」「羨ましい!」そんな焦りの気持を切っ掛けに37歳を期に3年間不妊治療をすることになります。現実は厳しく体は老化していました。そんな自分を受け入れることができず…。「期待に応えられないわたし価値がない。」その想いは強固になっていました。500万円の治療費があっという間に消えていきました。命って何?私ってだれなの?自分の本当の気持が分からなくなりました。夫も私もどんどん疲弊こころがすり切れていきました。仕事と治療の両立は想像以上に大変でした。なぜならクリニックへ行く日が突然きまるからです。そのタイミングを逃せない。なにがなんでも仕事をキャンセルしなくてはならないくて必死でした。最初は仮病をつかいました。家の都合とかなんとか理由をつけてどたキャン。職場での信用に傷をつけてまでタイミングを逃してはならない。そんな想いでした。ようやく妊娠しますが9週目で流産。小さな心臓は止まっていました…ショックでショックで産婦人科の手術台で涙が止まりませんでした。それから判定日のたびに「妊娠していませんね。」と言い渡されること数回。ショックで傷つかないようにロボットみたいになっていました。がまんで堰き止めていた心の堤防が決壊。クリニックを出て涙があふれ街のあかりが、ぼんやり「どうして私だけ?神様は意地悪すぎる。」そう思いました。ついに何かがプツンと切れるような音がするように限界がきたのです。あたりまえですね。自分にも周りにもうそをついて生きていたのですから。これまでにない挫折を味わいこれが「心の大切さ」を知るきっかけでした。・・・・・・・・・・もうやめたい。そうやって自分の気持に無理するのをやめて手放した妊娠…・・・・・・・・・・そんなある日1つの動画を見つけます。その動画にこんな言葉がありました。「好奇心はサイン!」毎日楽しくない自分でいいのか?こんなうそつきな自分でいいのか?「嫌だ!」「絶対に嫌だ!」心はすり切れて辛かった。現状を素直に認め生きるための希望を求めて行きました。それが”カウンセラーとの出逢い”です。がんばって期待に応えなければわたしには価値がないすっとそう思いこんでいましたががんばって応えようとしているわたしそうでない、ただ生きているわたしいろんなわたしがあっていいぜんぶ受け止めて。「よくがんばったね。」「期待に応えようと必死にいきてきたんだね。」そんなこと言われたことなかったあからがちがちのこころがほぐれていきいました。そうやってわたしを受け止めてくれました。「もうがんばらなくて、いいんだよ」「あなたが生まれたことが奇跡だから」と…心にずっとため込んでいた辛い気持ちやがまんしていた涙があふれでました。自分にうそをついてごめん…それと受け止めてくれる人のあたたかさを感じました。あの小さいころ感じていた土のあたたかみのように…「私がいちばん私を大切にしてあげよう。」そう思いました。そう決めました。・・・・・・・・・・何かのスイッチがカチっと入ったようにこれまで籠っていた治療という殻から抜け出します。ぜんぶがまんして治療で頭がいっぱいだったから自分の気持を許しました。人に会いにいきました。好奇心のままに。きっかけは赤ちゃんと出会うことでしたがこの夢を叶える事は勿論私自身が楽める能力が芽生えていきました。雪の下から芽吹くふきのとうのように命がよみがえるようにこころのくもりが澄んでいきました。根っこは腐ってなかった。そのことに気がつきあの純粋で無邪気でひとの命の尊さを肌で感じていた頃の私に生まれ変わりです。5ヶ月後…奇跡がおきました。妊娠していました。40歳でした。...どん底から1年後元気な男の子が産まれました。出産は命がけでした。が、我が子の誕生。本当に本当に嬉しかった。私のところへきた小さな命どんな高価なものだって絶対にかなわない宝ぜったいにこの子を大切にする。期待に応えなくていいいきていることが素晴らしい。喜びと愛おしさと慈しみと達成感と安らぎと嬉しさとワクワクといろんなことを感じました。命が輝いてみえました。そのときのブログです。産まれました。・・・・・・・・・・「こころって大事だ。」そう思いました。あのとき勇気をだして逢いに行ってよかった。カウンセラーさんに逢いに行ってよかった。ほんとに良かった。自分の辛かった経験を通しカウンセラーとしてだれかのこころにぬくもりやあたたかさあなた自身の命が尊くて輝かしいものだと気づいて欲しい。その想いで心理学の学びを深めることを決意しました。私にできることがあるならばそれを目指してみよう。こんどは純粋な想いでがんばってみようと再出発あの頃の私を救ってくれたように私も誰かを救いたい。そんな気持ちが芽生えたのです。2018年メンタルケア心理士を修学。みずからの命の輝きを芯から感じて欲しい。そういう女性を応援したいという思いで心理カウンセラーとして活動しています。・・・・・・・・・・着実に変化したいその背中を押していきます!芯から輝きたい女性を応援する。(*˘︶˘*) ♡ゆっき
テーマ: こころの使い方
メンタルヘルスカウンセラー
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