ブログをブロックする
ブログを報告する
*ぼくは思想になど興味はない。その空しさを知っている。美のみに関心がある。ほんとうは魂と言いたいが、そうすると世は魂を思想化する。思想化された魂はどんなものでもすべて偽りである。美との相関においてのみ魂を論じること、正確には、想うこと。神もまたそうである。これは魂や神を審美化することではない。まったく反対に、高度に倫理化することである。この「倫理」はやはり「美」との相関においてのみあきらかとなる。キルケゴールの言う〈美的生活〉とは違い、美は真の形而上(メタフィジック)に-つまり宗教性に-最後まで直結していることによって、美そのものの倫理的根底を自覚する。ぼくが関心をもつ思想とは、このような倫理的関連において本質自覚される美意識の深化そのものであり、そのためにこの欄は捧げられている。イデアは概念ではなく、実証を、形を要求する美の原理である。ぼくの本質的関心は、美意識の自覚・深化であり、その形としての思想である。これは、最初に言った〈思想〉つまり概念装置としての思想とは、言葉が同じだけの、根源的に異なる、「行動であるような思想」(アラン)である。-2015.8.23 記-ぼくの形而上的アンティミスムはぼくの魂にある理念なのだ。「盲目になって書く」とぼくは言った。もし絵画や彫刻、音楽が、あるいは詩歌が、魂の暗闇から次第に形を成して浮かび上がってくるのではなく、或る意識的な原理や計画に基づいて「作成」されるものであれば、それは「魂」から生じたものではなく、「魂」に触れるものでもないのではないだろうか。ぼくは魂から生じて魂に触れるような思想を欲する。それがなお「思想」とよびうるものであれば、ひとつの芸術にきわめて近い。こう言うべきだろう、そもそも魂の思想でない芸術というものがあれば、それは芸術とよべるだろうか、と。ぼくの思想は自ら実現を、実践を欲する思想だ、とも言った。これも同じことなのだ。具体的に実現された「かたち」をもたない芸術というものがあるだろうか。「芸術理論」はそれ自体芸術ではなく、常に具体的創造としての実践を要求するものとしてのみ意味をもつ。しかしその要求される「創造」は、「理論」そのものから「導出」されることは決して出来ないのだ。むしろ「理論」自体が、謂わば一旦忘れられて、「盲目の創造行為」によって「実証」されることを欲している、とぼくは考える。「感動」はそこにしか生まれない。「魂の思想」であろうとするぼくの思想もまったく同じ事情に置かれている。ぼくは「書く」ことによって自分の思想を「証」したい。不断の実証行為としての生にぼくは生きる。それがぼくの「考える人間」としての必然だ。考えることは無為ではなく、実は行為そのものなのだ。「思想は行動なのだ」(アラン)という言葉、また、「芸術は思想をもたねばならない」という先生の言葉を、ぼくはこのように‐自分の全量をかけて‐会得する。2014-04-03 死ということについてかんがえてみる。物質に死も生もないから、(死をかんがえることは)生をかんがえることである。それは魂を、不死をかんがえることである。ぼくは、じつは死などかんがえていない。不死をかんがえている。記憶とは主観の所有物であろうか。それはちがう。記憶とは生であり魂である。それは不死である。これを納得するには、われわれの観念というものがいかに人為的産物かを理解しなければならない。死とは人為的産物である。記憶が主観にぞくするということも人為的観念である。強制され無理強いされた観念である。そのことに気づけるか。人は死んでも想い出としてわれわれのなかに生きている、という言表は人為的である。実際は生きているのである。天国で生きているのではない。天国も人為的観念である。天国も主観にぞくする想い出も必要ない。構成的思念をやめよ。死も想い出も天国もすべて人為によって強制されている観念だ。記憶は主観から独立して魂の生として思念されている。そうであってこそ記憶は記憶なのだ。自他ともに言えることである。これいじょうあきらかなことはない。記憶が帰せられる主、魂は生きている。これで納得しないだろうか。ベルクソンの記憶論や西田幾多郎の〈直接経験〉を想いたい人は想ってもよい。他人の説は自分の根源実感からとらえ直さなければなにものでもない。「愛は愛するものの存在を断定する」。このガブリエル・マルセルの言葉が人類史上もっとも賢明な言葉である。愛するものの存在とは魂であり、魂は記憶と意志とである。根源的にここ(ぼくの想念の原点)に戻ることを仕合せにおもう。ぜったいにこの道しかないのである。2015.8.28 先生によれば、「感覚は対象をデフォルメし、精神が形を生む」、とブラックは言った。ぼくはここで、〈記憶〉とはいったい何であろうかとおもう。対象の忠実な模写が記憶なのか? たぶんそうではあるまい。感覚印象がすでに本性的に破形である。その印象を主観が再現しようとして苦闘するとき、対象の記憶を再現しようとしているつもりだろう。しかし、この再現は、主観による無根拠な創造とどうちがうのか。すくなくとも客観的に照合可能な像にもとづく再現ではない。ここで、記憶とは、端的に言えば、対象とは無関係な、というのが言い過ぎならば、対象が契機とはなったが後は自分自身に潜り込んで創造される形、精神が生む形にほかならないだろう。客観的な記憶などというものはイリュージョンであり、しかしそういうものを求めて再現行為をするなかに、われわれの創造行為は果たされる。そういうとき、見出された(創造された)形は、主観的とも客観的とも言うことはできない。本質的、としか言いようがない。これが、プラトン的なアナムネーシス(想起)という発想の、尽きぬ根源である。美の創造の根源としての、直感ではなく直観されるイデア、このイデア(理念)は「存在」する。2015-06-29 〔時期の違う後二者の文章でぼくは図らずも「記憶」を問題にしている。角度の違う取り上げ方で、しかし重ね合わせてみると興味深いので、意識的に併置してみた。矛盾するどころか立体的に浮び上がってくる深いものがぼくには感ぜられる。2015.8.30〕*演奏できみがどれだけ苦心して集中しているか!なのに聴く側がどれほど散漫で注意力が欠けているか、きみが実際に表現しているものがどれだけ深い心情の世界か、そういうことをきみを聴きながら感知するたびにぼくはいつも愕然とします。ぼくはおもうのだけど ほとんどの人はね、いま、きみの居るような世界に住んでいないのです。そうぼくはおもっています。やかましい騒音音楽を聞いている人々が きみの表している世界に沈めるとはぼくはおもっていないのです。きみもやはり、「文化は少数者がつくる」という言葉をぼくに噛みしめさせるひとなのです。純粋さが いかに深い奥のある世界か、きみがぼくに感知させてくれるのはこのことであり、ぼくはきみの「深い純粋さ」の前に頭を垂れます。 きみの演奏で、あふれるような優しさの泉から注意深い知性の配慮努力を通して生みだされないようなものはひとつもありません・・・ きみは、平和に貢献するというよりも、平和が何かをおしえてくれるひとなのです 2015.9.3〔彼女の曲演奏を集中して聴くとぼくが言うのは、彼女の音楽に身を委ねることだ。すべての意図的志向を忘れ、横になって眼をつぶり、自分を放棄して聴く。するとどんなに力んで集中しようとしても却ってできないいろんな知覚や感覚が気づかれてくる。その永遠にみずみずしい彼女の世界の経験のなかから自分が再生してくる。〕2015.6.9きみの様子をみているとね、きみがどれだけ自分の「仕事」で努力し苦労しているかが察せられる。それはぼくもまた自分の「仕事」で身をすりへらす思いをずっとしてきたから、同様なことをしているひとの意識のありようは、表情の様子を眺めていると直感的に察して共感(同情)することができると感想する(思う)、ということなのだ。これはまちがいないと思っている。真実な感情と、それを形としても構成しようとする妥協なき意志との、この二つの対決、それは熾烈なものであることをぼくはよく自分の内で知りぬいている、生きぬいている。きみは充分に休息をとり心を楽しませる権利があるのだよ。そういうことをまったく想像もできない連中をもちろん きみもぼくも完全に放っておくことを知っている。きょうは(いま)そういうことを馴染みのきみの表情をみながら ふととても親密に実感した。気遣いたい気持があふれてきて書いた。自分をいたわってあなたは生きていますね!裕美さんが恋しい・・ぼくだけじゃないことを知っているこんなに沈黙していても多くから慕われるひとはほかにいないひとりひとりの心に祭壇をつくってしまっている魂を直に愛させるその愛はメタフィジックな空(そら)に 別の世界に広がっている'15 10 22
テーマ: 自分に向って
テーマ: 参照
テーマ: 訓
テーマ: 愛の修道士の路
テーマ: ぼくにとって大事な節
イラスト・アート・デザイン
アメンバーになると、アメンバー記事が読めるようになります