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小学5年生の頃、東京は板橋区の都営地下鉄終点の駅近くに住んでいたいのですが、そこへ向かう大人たちの表情が気持ち悪くて、大人になったら絶対にサラリーマンにはならないと決意しました。ならないと決め、じゃあ何をしようかと考えて、本屋をウロウロしていた時に音楽雑誌の表紙を見て、そこに写っているメンバーの自由そうな感じに触発されバンドをやろうと決意(なんのバンドだったかの記憶は無いのです…)。すぐにギターを購入し独学してみても、ほとんど弾けずにそのまま中学を過ごす。このままじゃいけないと、高校は軽音楽部が充実している学校を選択し、私立正則高校に入学。私が入学した頃は、服装・髪型自由だったため、生徒は金髪や長髪が多く、革ジャンやスリムのブラックジーンズの人ばかり。おかげで充実したバンド人生を切ることが出来ました。16歳にしてオリジナル曲を演奏するバンドのドラム担当としてライブに明け暮れておりました。その後の人生も、プロになることを目指し、26歳までインディーズバンドをやっていました。ドラムを担当し、ホコ天、渋谷LA-MAMA、名古屋、大阪、仙台などライブハウスツアーをやったりしていましたが、よくよく振り返ってみると、ドラムの他に役目もあって、お客さんを増やすためのチラシ作りや、集客のマーケティングのようなことをやってました。営業担当として雑誌編集事務所に出向き、うちのバンドの記事を書いてほしいなどという交渉もしていました。よって、雑誌に掲載されたり、テレビに出たりもしていました。結局、「インディーズであと1枚CDを出したらプロ!」とプロデューサーに言われながら、バンドの人間関係がめちゃくちゃになり、メンバーとは絶縁宣言のもと解散。全てを失った感覚と、次にやりたいことなんて全く無くて、絶望から日々酒を飲んで暴れていたら、アルバイトをしていたビデオレンタル店の社長に、「次やること決まってないなら、しばらくうちの会社手伝ってよ。急ぐ旅じゃないんだろ?」なんて、粋な言葉をかけて頂き、入社を決意。なぜか、その瞬間から、その会社の(名ばかりの)専務取締役として、ビデオレンタルの仕事に勤しむことになりました。仕事は楽しくて、仕入れ、マネジメント、経理、店舗運営など、社長という肩書き以外のことを自由にやらせてくれる会社でした。私はDMやチラシなどで売上を伸ばすことが得意でした。しかし、そんな中、色んな仕事を夢中になって寝ないでやっていたら、B型肝炎とC型肝炎が発症。2ヶ月の入院を余儀なくされるのでした。入院中は前向きに本が読めると毎日ウキウキと暢気に事業計画などを立てていたものの、その後、治療の副作用で約一年仕事がちゃんと出来ない状態になってしまいました。やっと仕事が出来るようになったときには、ビデオ屋の経営状態は最悪で、そこからは真っ赤っかな財務を立て直そうと努力したり、買掛金が溜まった取引先に謝罪と返済の約束のために呼び出されたら、そこがヤクザ事務所のようでプチ監禁されたりと、お金で苦しむ12年の始まりとなったのです。この会社及び、ビデオレンタル業に未来が無いことを悟ったものの、社長に提案しても、今さら業態を変えられないと逆切れされたりして、こりゃダメだと辞める決意。しかし、自分の名義で借りてしまった事業に充てた借金は自分で返せと言われ一度は退職を断念。それなら、やれることを全部やってみようと、ビデオ屋の仕事中に読んでいた本に書かれていたマーケティングのことを全て実践。効果が出たり、出なかったりしたものの、そこで培ったノウハウが後に役立っているのです。1年色々実践したものの、やはりビデオレンタル業に未来はないと確信し、借金抱えてもいいから辞めようと決意。700万円金利25%ほどの返済がスタートする。当時結婚していた嫁は家を出る。ビデオ屋で築いて来た人間関係も全て社長に渡し、唯一味方だと思っていた妻も家を出て、完全に一人になった状態で、ビデオ屋にアダルトDVDの値崩れ品(違法ではない)を販売する営業の仕事を、フリーで始める。個人でその仕事をやっていた人に頼み込んで、契約取ってくるから売れたら粗利を折半してと頼んで、それで借金を返済することを目論んだのです。当時2003年。ビデオ業界はVHSからDVDへの移行期。お客はDVDで見たいのに、ビデオ屋(特に30坪前後の小さい店。いまは絶滅しましたね…)はDVDを正規の値段で仕入れるには経費が掛かり過ぎるし、そんなに投資が出来ない状況のビデオ屋ばかり。そんなお店に仕入れ単価を安く枚数を大量に仕入れられる提案を、FAXDM・小冊子・ニュースレターなどで営業展開する。半年で100万円の売上を達成し、借金返済もなんとか出来るようになってきた。最初はその仕事で独立。ビデオ屋勤務のときは知らない世界だった、ビジネスセミナーなどに参加して、生まれて初めて起業家、社長、保険のセールスなどの方たちと多く知り合う。借金返済がインパクトあったり、売ってるものも変わってるし、名刺にはオモシロホンポとか書いてる私は、セミナーの懇親会で人気者になったのです。そうしているうちに、DVD販売の手法に興味を持つ社長が増えてきて、小冊子作成の依頼や、ニュースレター作成の依頼がくるようになりました。ひとつずつ、結果が出るまでサポートすることを信条に広告制作の仕事をやっていったら、クチコミや紹介で仕事が増え、リピートも増えていって、広告制作の仕事一本にして、そこから11年の年月が経ちました。広告の会社での経験はゼロで、とにかく中小企業の社長の望むこと。顕在化されていることも、潜在的にあるものも、耳で聞いて、聞いて、聞きまくって、クライアントがイメージしている一歩先のものを提案出来るように意識しながらやっていたら、ニュースレターの制作では日本で1番か2番の実績を持てるまでになりました。この先は、12年前から変わらずに持っているテーマである「政治じゃないとこから日本を元気にする」をルールに60歳ときには、ゼロから作る村をプロデュースし、そこのダメな村長になることを目指しています。そのタメに必要なスキルや経験を、残りの人生で培っていくために、日々精進しているつもりです。現在は、株式会社オモシロホンポの代表として、ニュースレター作成や集客コーディネートを通じて、中小企業と泥臭く関ってます。セミナー講師なども含め、日本全国交通費をもらえればフットワーク軽く伺うようにしています。広告制作のクライアントも北は北海道の弟子屈町から南は拠点となる宮崎まで、幅広くいます。笑いとユーモア、誇りと、生き抜くチカラが必要な世の中だと思っています。本人は情熱を燃やして生き抜きたいと熱く思ってたりするのですが、周りからは「マイペース」とか、「話していると気持ちが安らぐ」など逆のことを言われるばかりです。それも、悪くないと思っています。そんな人間でございます。
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