ブログをブロックする
ブログを報告する
東京は下町、江東区に住んでいます。大学を卒業して、第一希望の商社に入社したんですが、営業中に見た1枚の電車の中吊り広告が自分の人生を大きく変えることになりました。“地球の笑顔はどこも同じだね”アフリカ人の子どものクローズアップ。ニカッっていう感じで真っ白い歯を見せてるポスターでした。派遣前の訓練を経て、そのポスターとの出会いから1年後…1983年10月に飛行機に乗っていました。「青年海外協力隊」派遣国はスリランカ。インド半島の先端に位置する島国です。専門職種はAV機器・視聴覚教育でした。その商社での担当取扱い製品が映像機材だったんです。配属先は、コロンボの南にある農村開発の福祉団体の広報セクションでした。その一員としてスリランカ全土にある教育センターを現地スタッフと一緒に回ったりして活動しました。最初の1年は言葉もうまく使えず、また日本流の私のやり方の押しつけや先走りの連続…、イライラといざこざで当然ながら活動はうまくいきませんでした。でも、2年目に入ったところで気づかされました。自分はここではアウェイであり、お客様であるってこと。そこにに気づいて肩の力が抜けて、自分を変えたらまわりから受入れられて活動が面白くなりました。通常2年の任期を延長してもらいました。私を育ててくれたスリランカの人たちとの濃~い2年半…。それを想い返して、帰りの飛行機が離陸するときは涙がでました。1986年のことです。スリランカは私の第二の故郷です。帰国後の進路として、私はもはや改めての会社勤めには興味がありませんでした。そんな時、駅のスタンドの江東区報の横に置かれていた「区長へのハガキ」を見て、投函したんです。「私のスリランカでの経験を何か地元に活かしたいのですがそんな場はありませんか?」役所から呼ばれて、最初の担当者は「区の職員への応募ですか?」とトンチンカンだったけど、社会教育課の職員が地域の子ども会活動を行っているお寺の和尚さんを紹介くださいました。これは、今となってはドンピシャの対応だったと思います。お寺を訪ねたら、その和尚さんは、面白い若者が飛び込んできた…と、その後、地域の子ども会活動を行っている人たちの集まりに呼んで私を紹介してくださいました。以後、この活動に関わってまもなく30年になります。活動のいちばん最初にね、地域の子どもたちを集めたキャンプで、参加してきた子どもたちにスリランカの話を聞かせるプログラムのチャンスをさっそく戴いたんです。そこでは毎日がキャンプ生活を送ってるんだぞ…みたいな話をスリランカの腰巻を巻いて意気揚々とね。自分たちで作ったカレーを食べ、後片付けをしてから、就寝前に戴いたその時間帯…。自分としては、私の話でスリランカという国にいざなうつもりだったのに、子どもたちの大多数は私の意図に反して、夢の国に行ってしまっていました。それが、こんにちの青少年指導員としての苦~い講師デビューでした。いまは再就職して会社員をしています。1989年人事部門の立ち上げから、能力開発の専任職として会社の中で主に3つの役割を担ってきました。ひとつは「人材採用」。新卒者を中心に就職活動を行っている学生さんと直接関わりながらわが社の一員にふさわしい人だけに仲間になってもらう活動です。ふたつ目は「能力開発」。これは会社やビジネスの世界に踏み入れる新人に対する基本基礎を身につけてもらう新人研修やOJTほか管理者研修などビジネスや組織の一員としてのレベルアップを支援する活動。もうひとつが「環境改善」です。所属それぞれの現場で働く社員の就業環境の実態を把握し、整備して、少しでも良いものにしてゆこうとするものです。わが社の他社にない「ウリ」…。←自慢かな?これは私の担当者としての誇りや喜びでもあるんですが、それは…“入社した社員が辞めない” なんです。それが実現できたのは、自分のこれまでの人事担当としての「哲学」とか「こだわり」みたいなもの…当時の社長をはじめ理解くださって会社全体として応援してくれたからだと思っています。その社長はね、実は最初に入社した配属先で私の育成係を担当してくださった係長だったんです。ずいぶん叱られたし、それ以上によく褒めてもいただきました。卵が割れて、新しい世界に触れたとき自分が最初に見たビジネス人と言えます。だから帰国後、会社というよりその人に付いて行っちゃったのね。今は亡き私の人生の一番の恩師です。そういった自分の会社の中での役割もまもなく終えようとしています。後任の担当者にその3つの機能が引継がれたからです。その3年計画の引継ぎにあたって後任に伝えてきたこと。それは“やり方ではなくあり方”です。いろんな、やり方があってよいのですね。自分流の押しつけではいけません。実はそのことは私はスリランカの人たちから学んだことのひとつです。そして、私は来年2016年10月末で定年を迎えます。あと私のビジネス人人生は丸1年となりました。ビジネス人人生を終えても私の計算ではあと22年は生きる予定になっています。8年前に他界した父親の年齢を1歳でもオーバーすることを自分に課しているからです。介護状況にある母親とは、今更ながらひとり息子として親孝行のつもりで接しています。母はたまに私を息子ではなく自分の弟だと思ってよく名前を間違えられますけどね。ははは。それがこのブログ、カジマンの自己紹介です。
テーマ: ブログ
アラカン
アメンバーになると、アメンバー記事が読めるようになります