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■ 横須賀生まれ坂本龍楠は1981年4月16日に神奈川県、三浦半島にある横須賀で生まれました。それから、どのように育ち、今にいたったかこちらで公開したいと思います。■小学校1年から野球を始める。親の話を聞くにはとにかくわんぱくでそこいら中かけずり回っていたとのことです。小学校に入学して仲の良い友達に誘われるがまま近所の野球チームに入りました。本人はあまり乗り気ではなかったものの野球からは物事にのめり込むという感覚を味合わせてもらったような気がします。小学校から結局、高校卒業まで野球に打ち込んで過ごしました。野球は自分に色々なことを教えてくれました。個々の能力の連動。団体の団結。練習の必要性。練習の効率性。好きなものに集中すること。思考すること。物事には必ず原因があること。などなど。ゴルフを好きなれたのも、野球をやっていたからと考えるように今ではなりました。■好きこそものの上手なれとにかく野球が大好きだったので、毎日、野球ばかりしていました。そのおかげか、運がよかったのか、メキメキ上達していって小学校6年には市の選抜のキャプテンをつとめたり、台湾に遠征にいったりと、良い経験をすることができました。中学は学校の部活動には入らず、クラブチームに入りました。もともと市では有名な強いクラブチームだったのですが、全国大会には今一歩という感じのチームでした。しかし、そこで運があるのか?縁なのか?自分が入部した最初の年にチームは初の全国大会出場を果たしました。そしてそこから私が中学在学中3年連続で全国大会に出場することができました。今にして思うのはこのチームの方針というか市、全体から人が集まっていた関係から練習は夏場で火、木、土日の週4日間、冬場で土日の週2日間、1日平均で3時間ほどの練習で結果を残したことは驚きです。中学3年の秋には関東の選抜チームに選ばれ、中国に行ったりと順風満帆の野球人生を送っていました。■ 高校に入って初めての挫折。高校は私の入学する年に甲子園に出場した横浜商業高校に決めました。ほかの学校からいくつか誘いがありましたが、仲の良い友達が行くこともあり、自分の直感と水色のユニフォームを着て野球をしたいという気持ちで決めました。高校でまず、思い出に残っているのが上下関係、甲子園でのあのさわやかな雰囲気は一変、言葉で説明しきれいほどのきびしいしごきでした。なぜあのようなことを平気で毎日続けることができたのか?本当に不思議に思うほどきびしいものだったと記憶しています。時は飛びますが、三年生になり、ようやく背番号も一桁になり、これからというときに春の予選で強豪校同士がぶつかってしまい、一回戦敗退という波乱にみまわれました。そして事件は起こりました。その当時の監督が一回戦で敗退してしまったことに激怒し、私たち3年生をグランドに入れないという措置をとったのです。夏の甲子園、最後の夏を目前にしてグランドに入れないということは当時のわたしたち三年生にとって何よりも耐え難い苦痛でした。「はいわかりました。」「外で走り込みしています。」などと答えるほど器量も持ち合わせているはずもなく、私たちは反発しました。その反発が良い方向に進めば、チームとしてはよかったよかったで終われますが、世の中そんなにうまくいきません。今にして思えば監督も人間だったということです。私たちと当時の監督は結局関係が拗れ、私たちは夏の大会を目前して本当にグランドに入れなくなってしまったのです。■なぜか甲子園ではなく花園を目指すことに私たち三年生は、困惑、動揺、激怒、悲しみ、絶望、どの言葉にも表現できないような、深いマイナスの感情に支配されていました。そんな中、チームの中心人物であった友人がひょんなことを言い始めました。「ラグビーでもやろうか?」なんでも、2人しかいないラグビー部員では試合に出れないので、目標を取り上げられてしまった私たちが協力して試合に出れるようにしようということらしいのです。楽天家の私もこれには驚きました。基本的に体を動かすのは好きだったのですが、野球一筋できた私にもプライドがあります。といいたいところだったのですが、あっさり楽観的に「面白そうだね。」と乗っかってしまいました。そこからラグビー部として夏の花園予選まで1からのスタートが始まったのです。ルールも動きもすべて1からでした。私は身長がそんなに大きくなく、うまくボールを出せる人がいなかったので、スクラムハーフというポジションになりました。私たち三年生はしゃにむに練習しました。一生懸命、一心不乱に打ち込みました。みんなわかっていたのです。何かに打ち込んでいないと悲しみに打ちひしがれてしまうことを・・・そして花園予選に本当に出場してしまいました。結果はやはり負けてしまいましたが、3~4ヶ月の練習ではどうにもならないのが現実です。しかし、私たちの心の中には不思議と悔しさはなく、一種の爽快感がありました。普通の高校球児とは違う夏でしたが、みな何かに集中できることの喜びや感動を人一倍味わえたのだと思います。しかも私はこのラグビーを通じても、色々なことを学びました。まず一つのボールをみんなでつないでいくということです。野球も団体競技ですが、点が集まって線になる感じです。しかし、ラグビーは線上に個人の点が存在しなくてはなりません。みんなでつないでトライを決めた時の感動は何とも言えない満足感があります。そして、もう一つは「世の中野球だけではない。」ということが始めて認識できたのです。視野が一つ広がった瞬間だったのでしょう。とても良い経験でした。最後に感謝の気持ち野球の場合は世間一般で言えばエリートコースのような状況で育ってきたので色々なことが「当たり前」だと思っていました。しかし、1からわからないことを始めたときに道具の手入れや水分補給などボランティアでマネージャーが期間限定でついてくれたり、OBに方々が練習に付き合ってくれたり、寄付でユニフォームをつくってくれたりと数え切れない人たちに支えられて何事も動いていることを深く知りました。あのときの顧問の先生には本当に感謝です。ラグビーをしたことは人生の大きな分岐点だったと思います。■大学入学でゴルフと出会う。ラグビー部の顧問の先生に「お前なら大学いってもやれるからラグビーを続けなさい。」と言われすごく嬉しかったのを記憶していますが、野球部のみんなとやっていることが良かったし、そこまで自分の精神力が持つか不安だったので、本当に新しい自分にチャレンジしていこうと思いました。大学は浦安市にある明海大学に入学しました。これといって理由はありませんでしたが、遠くに行くことが好きなので、中学は自分町から遠くの町の野球チーム高校は市内から市外の高校大学は神奈川県の隣の千葉県にいくことにしたという具合です。高校の友達が何人かいて、みんなで何をするか探していました。体育会の野球部は存在せず、野球本気モードはなくなりました。タラタラサークルで野球という気分がさらさらなく、かといってテニスサークルや飲みサークルなどテキトウに遊んで大学生活を過ごすことには違和感があり、みんなとは離れて自分のやりたいことを探して始めました。そこで、目に止まったのが体育会系のゴルフ部です。人数も5人程度しかおらず、今までの団体行動にいささか疲れていた私にはちょうどよいチーム編成に感じられました。そしてなぜゴルフかといったら、やはり父の影響といわざるおえないでしょう。(本人はあまり認めたくありませんが・・・)私が野球をしているときに再三、ゴルフしろと言われ続けていました。しかし、そこは野球一筋の私なので、「バットとグローブ以外の道具は一切使わない」と練習場へ連れていかれても、クラブさえ触れようとせず、ただ見ているだけでした。そんな私も野球という一つの章が幕を閉じ、ラグビーで新たなる自分の可能性を見いだし、何事にも寛容に物事を見れるようになったのでしょう。そしてゴルフというスポーツに始めてちゃんと向き合ったのがこの時でした。そして私のゴルフ人生がスタートしていったのです。続きはまた書いていこうと思います。長い文章になりましたが、ここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。どうぞ今度とも宜しくお願いいたします。
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