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自己紹介 ☆株本のぶこプロフィール☆■日本臨床心理カウンセリング協会 認定臨床心理療法士・臨床心理カウンセラー■ヴォイスヒーリングヒーラー■フェアリー魔女のチャネリング・チャネラー■エナジーヒーラー■臼井式レイキティチャー■カルナレイキマスター■日本グリーフケア協会認定 グリーフケア・アドバイザー1級■日本トランスパーソナル学会 会員■日本ホリスティック医学協会 専門会員【生い立ち】東京タワーが完成した年の前年、北海道夕張市に生まれました。教員の父、元教員の母との最初の子どもでしたが、誕生したその日に「今日がヤマです」との宣告を受けることに。幸い生き延びることはできましたが、お医者さんから「このままでは寝たきり、水頭症によって意思の疎通はできなくなるだろう」と言われ、手術を決断。生後30日目に北海道大学病院で手術を受け、一命を取り留めました。そのときの後遺症として足と内臓の一部に障碍が残り現在に至っています。小学校へ上がる頃になり、両親は私を養護学校ではなく普通の小学校へ通わせたいとの意志から、何度となく教育委員会に普通学校での受け入れを交渉したそうです。今は「五体不満足」の著者の乙武さんのように、障碍があっても普通学校に通える雰囲気が社会にありますが、私が子どもの頃は、障碍がある子どもは養護学校か就学猶予といって、学校へ通うのを免除される方法のどちらかを選択するのが当たり前の時代でした。それだけに教育委員会との交渉もすんなりとはいかず、あるとき思いつめた母が私を連れて家を出たことがありました。夕方、学校から帰ってきた父が、もぬけの殻の部屋を見て、これは尋常ではないと察知、電車で数十分のとろこにある母の叔父の家に電話、母と私がいたことにホッと胸を撫で下ろしたそうです。部屋にはおもちゃが散乱し、台所には洗い物が置いてあり、テーブルには食べかけの昼食がそのまま残っていたそうです。そのときのことを、十代になってから聞いた事がありますが、やはり死のうと思ったそうです。私を背負い交通量の多い大通りに出て、何度も車道に出ようとしたといいます。でも、そのたびに私が大きな声で「危ない」と叫び、結局は死ぬことを断念。叔父の家に身を寄せたと母は話してくれました。両親の希望した通り、普通の小学校に入学。しかし、相変わらず病気ばかりして学校をよく休んでいました。当時の日記帳が今もありますが、「今日もお腹をこわして、熱を出して、風邪をひいて、扁桃腺をはらして学校を休んだ」ということばかりが書かれています。小学5年の秋、40度を超える熱が下がらず白血病の診断を受けたことがありました。父が枕元でお経を読んでいるのを不思議に思って眺めていました。後年、その事実を知らされて「ああ、あのとき父がお経を読んでいたのはこういうことだったんだ」と合点がいきました。流石に父も泣いたそうです。結果として白血病ではなく、重い腎盂腎炎でした。あまりに高熱が続いたことで異常に白血球が増殖したための誤診でした。障碍のため体育は見学、担任や同級生に迷惑をかけるからという理由で運動会、学芸会、遠足などの学校行事は不参加。振り返る度に残念だったなと思います。長期欠席の度に危うく留年しそうになりながらも、どうにか小学校を卒業。しかし、中学で苛めに遭います。このときの体験から、長く自分は男性恐怖症だと思い込んでいました。その思い込みが解けたのは、学院に入ってからです。高校は通信制高校。月に一度のスクーリングには母が付き添ってくれて、卒業するまで続きました。義務教育の9年間、両親は冬になると、毎日家から学校までの道を除雪してくれていました。こうして我が家は、すべてが私中心。そのため父は、何度となく管理職への誘いを断りました。僻地にいかなければならなかったからです。このように我が家は長い間、生活のすべてが私中心でした。父は、何度となく管理職への誘いを断りました。僻地にいかなければならなかったからです。僻地には私を診てくれる大学病院はおろか、総合病院もないところがほとんどでした。こうした生活が日本カウンセラー学院に入学し、ボディフォーカスト・アプローチ(BFA)と出会うまで続いたのです。通信制高校を4年間で無事卒業したその年の春、ある書道の社中に入会。ここから本格的に書道の勉強をスタートさせます。20代の初めに師範の資格を取得、そのときから2001年に家族で東京に移り住むまでの20数年間ものあいだ書道を教えてきました。しかしいつの頃からか、限界を感じ始めた私は筆を折ることを考え始めます。そんな頃でした、実は生まれたときに二十歳までしか生きられないと担当のお医者さんに言われたことを知ったのは…そのときから長い煩悶のときが始まりました。「二十歳までしか生きられないと言われながら、10年近くも長生きをした。しかしどうだろう、果たして自分はこの想定外ともいえる貴重な10年間を、有意義に過ごしてきただろうか」、「大切に生きてきただろうか…」そんなことを毎日、毎日考えては「自分は大切な生命の時間を必ずしも有意義に過ごしてこなかった」「怠惰に生きてきたのではないか」と煩悶を繰りかえすようになっていきました。それだけではありません。何度となく生死の境を彷徨ったことで、生命を助けてくれた人に対しても、「自分はちゃんと生きてきたと言えるだろうか」そんな思いに潰されそうになったのです。毎日同じことを考え、同じ結論を出してはまた悩む、堂々巡りの繰り返し。そして、それを日記に書き綴る日々が数ヶ月も続きました。最初は気に留めていなかった母も没頭振りに普通ではないと感じたらしく、精神科への受診を勧めましたが「ひと月待って欲しい」と静観してもらったのが結果的にはよかったのか、その後は順調に回復。今、思えば軽いうつ症状を引き起こしていたようです。実際に書く療法というのがありますが、私の場合も、ひたすら書くことで、状態が改善していったように思います。その後は順調に回復。今、思えば軽いうつ症状を引き起こしていたようです。ひたすら書くことで、状態が改善していったように思います。随筆を書き始め、ラジオに投稿しては採用されて読まれたことから、随筆講座に通い始め、文章の師と出会いったのもその頃。まさかこうして書き続け、本まで出版するとは思いもよらなかったことです。ですが、身体は相変わらず病弱で、毎冬感染症から高熱を出し一週間、点滴に通ったり、ストレスからくるひどい食いしばりに歯がギシギシ音を立てるのを聞いては、折れるのではないかと怯える毎日をすごしていたのでした。そんななか2001年、私たち家族にひとつの転機が訪れます。東京への転居でした。私の身体を考えてのこと。一年の半分近くを雪と氷に閉ざされる暮らしは、過酷過ぎました。転居を機に筆も折りました。周囲は三十数年間続けてきた書道人生に終止符を打つことに反対しました。「折角続けてきたのに勿体無い」と。しかし、私は「今までやってきたことを無意味にしないための生き方はしたくない」と思い決断しました。今もそれは正しかったと思っています。この八年間、一度も筆を持ちませんでした。それが昨春、初めての著書「たおやかに生きる」を出版する際、編集者から直筆でタイトルと名前を書くことを勧められ、何と九年ぶりに筆を持ちました。やはり、この三十数年間は決して無駄ではなかったのです。三年間、戯曲の勉強をしたことで、心理学への思いが再燃。2005年春、日本カウンセラー学院に入学しました。ここから第二の人生がスタート。それによりすべてが一変することとなります。全講義を無遅刻・無欠席で修了。私にとって、まさしく「快挙」というべきものでした。人生で初めての経験だったのです。勉強会、ワークショップにも積極的に参加しました。しかし、どんどん活動的になっていく娘を両親は困惑と不安を持ち始めます。それまでの生活はすべて私が中心。病弱な私を中心にした強固な三者関係によって成り立っていました。しかし、私が病弱さから抜け出し丈夫になったことにより、一時的ではありましたが、どこかギクシャクしたものとなっていきました。私が家族の看病や世話をあまり受ける必要がなくなったことを喜ぶどころか強固な関係性が緩み、壊れていくのではないかとの不安が、両親のなかに広がったのです。このとき、私が心理ではなく、別の分野で両親からの精神的独立を図ったとしたら、おそらく居心地の悪さに耐え切れず、元の強固な三者関係に戻ったかもしれません。しかし、結果的に私は戻りませんでした。学院での学び、そして定期的に受けていたトレーニングそしてBFAが、私をつねに危機から守り、支えてくれていたからです。学院での一年間は、とても充実したものでした。講義は勿論でしたが、それ以上に私を大きく変えたのは、教育分析トレーニングとボディフォーカスト・アプローチのワークショップです。それまでは自分がどれほどの抑圧を抱えていたかも知らぬまま、つねにストレスにさらされている状態。しかし、教育分析を受けるなかで、その抑圧となっているタネをひとつずつ解消していきました。身体上の問題、苦悩、葛藤、親との関係、ずっと引きずっていた過去の出来事……こんなにも自分は抑圧のなかで生きてきたのか、課題を抱えていたのかと呆然、唖然となった時期もあります。確かにつらい作業ではありました。あまりのつらさに号泣したことも一度や二度ではありません。しかし、その課題をひとつひとつクリアするたびに心の中が軽くなりました。そして心が軽くなるほどに、確実に体調もよくなっていきました。見方を変えれば、長い間抱えてきた抑圧や苦悩、葛藤が、体調に大きな影響を与えていたのです。そうした教育分析トレーニングと並行して取り組んだのが、ボディフォーカスト・アプローチ(BFA)だったのです。BFAのワークショップに参加したことで、私は「あるがまま」「今、ここ」が何を意味し、どれほど大切かを心と身体で理解していくことになります。そして、今まで自分が自己不一致の状態であったことに気づくことになったのです。学院に入学する前の私は、できるだけ両親や身近なひとの前では、明るく元気に振舞おうと意識して過ごしていました。少しくらい熱があっても、体調が悪くても、そんな素振りは少しも見せず、いつも元気なのぶちゃんでいようとして空元気を出していました。あきらかに無理をして、自分に嘘をついていたのです。心と身体が分離していた。それが結果として、常に病気を招くことに繋がっていたのだと思います。数年間、BFAを続けてきたことで、自分がなぜ病気ばかりしていたのかがわかってきました。生まれてからずっと病弱だったことで、私も両親も、病気をする自分(娘)を許していなかったのです。しかし、考えてみれば誰もが病気をします。熱も出お腹も壊す。そんなありのままの自分を許していなかった、病気をするのが恐かった。だから病気をしていたのだということに気がつきました。病気をする自分を許せるようになって、私は一層自由になり広がっていきます。瞑想を日課とするようになったことで、トランスパーソナルの世界を体験するようにもなりました。あるがままに生きること、今、ここを生きること、そして宇宙の采配にゆだねることを大切に、現在もBFAを通して学びは続いています。取り組めば、取り組むほどつらい学びはやってきますが、今、ストレスはありません。この壁を超えたなら、必ず何かが変わるそう信じられるからです。その後、レイキ伝授を受け、ひょんなことからレイキヒーラーとして活動をはじめました。同時にエネルギーについて学び始めたのです。3年がたち、現在はエネルギーを中心とした波動アチューメント、マインドアチューメントとしてボディワークとカウンセリングを提供しています。2014年にはヴォイス委―リング養成講座を受講。音魂ヴォイスヒーリングを個人セッション、ワークショップでおこなってます。そして2015年、大沢裕子さんの女神のチャネリング・養成講座を受講。チャネラーとしても活動を始めました。*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:日本カウンセラー学院において、カウンセリングを学び、心理カウンセラーへの道を歩み始める。2007年 自由が丘産能短期大学通信過程に入学、心理学と表現を学ぶ。2007年10月から2008年4月まで 日本カウンセラー学院 臨床技術向上プログラム(医療領域)に参加。精神科の知識、スーパービジョンの講義を受講。自由が丘産能短期大学通信課程卒。学院在学中より身体症状・身体感覚にアプローチするボディフォーカスト・アプローチを学ぶ。2011年ボディフォーカスト・アプローチは、マインドフルネス・アウェアネス・オリエンテッド・アプローチと名称を変更。より広い世界観をもって心と身体を統合した心理療法として確立される。マインドフルネス・アゥエアネス・オリエンテッド・アプローチは、身体症状や身体感覚、感情にアプローチすることによって無意識の領域にアクセス。自分自身で気づけなかった、本当の思いや欲求、抑圧などに気づき、認め、受容することで心身の解放と無限の可能性を促します。悩みや迷い、病といったものから自分を解放したい、自分を成長させたい、こんな自分になりたい。悩みや苦しい胸をうちを誰かに聴いて欲しいと思いながらも、身近に話を聞いてくれる相手や相談に乗ってもらえるひとがいない。前向きになりたいけれど、どうしてもなれない。そんなさまざまな心の葛藤や迷いを抱えている方々に寄り添いながら、心の風穴をちょっとずつ開けて心を解放させるお手伝いができたらと思います。ありのままの自分を受け入れ、いま以上に心豊かな潤いのある日々を実現させていきませんか。この世で唯一の存在 かけがえのないあなたへのメッセージです。
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