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空、陸、海を仕事場に、少し、変わった経歴を持つ、空と、空港と、飛行機を愛する、現役、PADIの IDC スタッフインストラクターです。キャセイ航空、香港在住の元CA、その後、海外、特に、月のうち半分は、毎月ヨーロッパに滞在(添乗)しておりました元海外添乗員です。☆ダイビングとの出逢いと挫折☆水泳は、10歳から始め、シュノーケリング歴は20年以上。ダイビング歴は4年です。26年前の3月、友人と、PADIのスクーバダイビングのCライセンスを取ろうと、ABロードで、2日で取れると謳っていた、PADIスクーバダイビングライセンス取得ツアーに申し込み、サイパンに行きました。海に入る前に、レギュレーターに抵抗を感じ、友人のレギュレーターと交換しました。何かあったら、CPR(蘇生法)をしてね、と言い、海に入りました。精神的にも怖さが先走っていたのでしょう。それでも、筆記も、限定水域(寒い海でした。足が着くところ)でのスキルもクリアー。その後、深度6mにて、スキルを繰り返していたところ、その精神的な怖さから抜けきれなかったのでしょうか。日本人インストラクターの方が、突然、私のマスクに水を入れ、まだ、水温が高くなく、冷たい水でした、突然にびっくりして、マスククリアーができず、鼻から水を飲んで、6mから一気に浮上。あなたは、ダイビングができない、と、強くはっきりと言われました。素直に受け止め、あまりのショックにその後、23年間、トラウマ。ダイビングを封印してきました。当時、一人で、岸に戻り、みんなが帰ってくるのを複雑な気持ちで待っていました。私だけ、PADIのダイビングの入門、スクーバダイバーの認定すらもらえませんでした。人生の節目節目で、今まで完遂していなかったことをしようと思い、その中に、ダイビングがありました。ある日、夜からずっと朝まで眠れず、ダイビングばかり、どうやればできるようになるか、ずっと考え、思考を変え、日本語で日本人インストラクターから学ぶのをやめ、全て、海外で、外国人インストラクターから、英語で学ぶ決心をしました。イタリア人、ドイツ系イタリア人、アメリカ人から学びました。彼らの教え方が素晴らしかったのでしょう。私には、この思考転換が良かったのでしょう。マスククリアーの恐怖から、しきりに、ダイビングの安全を追求し、気がついたら、オープンウォーターから、9カ月9日目に、ダイビング本数最低限の60本で、PADIアメリカ本社から審査員が来ての2日間に及ぶ、筆記、プレゼンテーション、プールと海洋でのスキル、レスキュースキル等のインストラクター試験に、英語で、フロリダ、フォートローダーデールで無事に合格でき、オープンウォータースクバーインストラクターの認定を受けました。なんと、26年前に恐怖を味わった月と同じ、3月に合格しました。この挫折体験のおかげで、初めての方々の、怖さ、よくわかります。2015より、メキシコのカンクンへ渡り、その後、メキシコのカンクンとコスメル島、バハ・カリフォルニア州のラ・パスや、エジプトのダハブ、タイのサムイ島・タオ島で、ダイビングインストラクターとして勤務、その後、2021年8月より、日本の米軍基地内にて、米軍人の方や、そのご家族の方々へ、オープンウォーターコースからダイブマスターコースまでを、英語、または、スペイン語で教えて、認定させていただいております。年間100名近く、認定させていただいております。よろしくお願いいたします。趣味:語学、世界史、飛行機に乗ること。☆初めての海外と、その後の人生☆初めての海外旅行は、ハワイです。14歳の時に、地元の旺文社LL教室からの紹介で、ハワイ大学へ2週間の夏期集中英語コースを受けに行きました。日本中から10名ほど集まっていましたが、地元からの参加は、私一人でした。その1年前に、1歳年上のいとこが同じLL教室から参加していて、参加後の感想文が、LL教室のパンフレットに載ることを知っていましたので、今年は、私が、その感想文を書き、パンフレットに載りたい、と思い、一人で行くことに全く躊躇なく、親の反対を押し切り、行きました。将来を決める出来事は、このハワイへ行く前に起きました。成田ビューホテルで前泊しましたが、翌日のチェックアウトの時に見た、制服姿のアメリカ系のフライトアテンダントの人たちが交わし合っていた"Have a nice flight !" これが私の将来を決めた一言です!この言葉を聞いて、体が震えたのを覚えています。私も、この言葉を言ってみたいと。この言葉と、チェックアウトの光景をみて、もともと、制服が好きですので、小学校の時の夢、婦人警官を改め、14歳から、スチュワーデス(当時は、この言葉が主でした)を目指すことにしました。この夢は、ハワイ大学での2週間の研修が終わる頃には、すっかり固まり、揺るぎない将来の夢を胸に、大阪伊丹空港へ帰国し、最終便の船で、姫路の飾磨港から小豆島福田港へ帰りました。アメリカ系のフライトアテンダントを見て決めた夢は、日本ベースの日本航空の国際線スチュワーデスに飛躍しました。そして、日本航空のチーフパーサーになって、ご搭乗歓迎アナウンスと、着陸後のアナウンスをばっちり決めることをさらなる夢として、短大に行く傍ら、スチュワーデスの専門学校へも行きました。短大卒業後の初めての就職先は、日本航空の羽田空港でグランドホステス(地上職員)でした。しかし、短大就学中も、卒業後も、日本航空を受け続け、何度受けてもスチュワーデス試験は、一次面接であっさりと落とされました。全日空も一次であっさり落とされました。専門学校の先生から、あなたは外資系向き、と言われ、初めて外資系を受けてみました。夢を思い続けた時から既に、9年、経っていました。今まで、考えたこともなかった外資系向きをはっきりとおっしゃって下さった先生に、感謝の気持ちでいっぱいです。この言葉をもし聞いていなかったら、私は、固執性ですので、ずっと、ずっと、日本系のスチュワーデスを受け続けていたと思います。私のように、人でも、物でも、何事にも、執着し、頑固な者には、手放すと言った、一種の諦めが大切なのでしょうか。当時、日系の航空会社には年齢制限がありました。もうこれ以上、チャンスはない、と思っていた矢先、友人から外資系航空会社の募集を聞きました。専門学校の先生から、あなたは外資系向き、と言われた直後でした。諦めた直後、外資系航空会社には、トントントンと、一次から三次試験までアッと言う間でした。和やかな最終面接でした。三次試験の後の、健康診断で、天然ボケのクセが出て、サインを忘れ、トレーニングが1週間ほど遅れましたが、不思議です。1988年7月から香港で生活しながら、(当時)世界30ケ国以上の国へ乗務。退職後は、東京で生活したあと、沖縄へ転居。沖縄で、旅行会社のカウンター業務、その後、30歳を機に、何かを、と思い、念願のアメリカ留学を、国内留学という形で、米軍基地内の大学入学試験を受け、嘉手納、フォスター、普天間、キンザー、レスター、トリイステーション、読谷村と、授業によって、沖縄全土に広がる米軍基地へ通学しながら、フォスター基地内のアメリカ系の旅行会社のカウンター業務をしていました。その後、基地内で知り合ったアメリカ人との結婚を機に、実家小豆島へ帰り、ホテルのフロント&予約業務等を経て、そして、離婚を機に、再び、本来の自分に戻り、以前から続く空への憧れから、飛行機に再び乗りたくなり、添乗業界へ入ることにしました。その添乗業界に入る直前と、添乗中に、客室乗務員の訓練をアジア系の2社で受け、アジア国内を乗務。また、基地内の大学の授業が、沖縄を出ることによって通学できなくなったので、添乗中に、通信課程&3ケ月に一度、横田、座間、岩国へ行き、学期末テストを受講しながら卒業。現在は、13年半の海外添乗を2015年7月20日に終え、8月から、ダイビングインストラクターとして、メキシコで生活しています。ハワイに来て知った本場の英語。14歳の時、授業中に、ハワイ大学で、初めて使った英語は、"May I go to the restroom ?" でした。緊張のあまり、授業中にお腹が痛くなったのです。トイレから帰ってくると授業はほぼ終わっていました。初めての国、町、モノ、人、全てにおいて、第一印象の大切さ、また、初心を忘れずに、という気持ちが、今の私の人生を築く大きなきっかけになっていきました。最後まで読んで下さり、誠に、ありがとうございました。アメブロの登録2011年への挑戦として、2010年12月30日(ハワイ時間)から、アメブロで、ハワイ生活と海外旅行ブログを始めました。アメブロで旅行ブログを始める前に、2009年5月から、ある別のブログで、旅行ブログを書いてきましたが、そのブログが突然利用停止になりました。バックアップの重要性を実感しています。1年半の間、月に数回、莫大な写真をアップして、書いた旅行ブログが、一瞬にして消えました。2008年1月から、楽しい海外旅行を送るための基本的な心構えを中心に、タイトル 「楽しい海外旅行への心構え」 と題してホームページを作っています。現在は、定期更新なしの永久保存版として残しております。2009年3月から、メルマガ「楽しい海外旅行への準備」と題して、全32回発行して完結。現在は、休刊しています。facebookと、twitterは2010年からやっています。現在は、Facebookや、Instagramが中心になっています。どうぞ宜しくお願い致します。Tomoko ともこ
テーマ: メキシコ
アウトドアスポーツ
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