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自己否定から自己肯定に!似合うを知って、自信や本来の魅力、美しさを最大限に引き出す、オネェなビューティカウンセラー、モテ髪師大悟式美人髪コンサルタントのキッチュです。オネェだとカミングアウト出来ずに自己否定し続けてきた私が31歳で全世界カミングアウトで、周りの景色がキラキラ輝き出した!Kitsch bではそんな自己肯定から自分を愛せるあなたを作ります♪**********ご訪問いただき、ありがとうございます。Kitsch bオーナーでもあり、オネェなビューティカウンセラー、北九州初の美人髪コンサルタントのキッチュです。ここではこれまで語らなかった、私の幼少期のお話からオネェなビューティカウンセラーとなって私がどの様に変化してきたかをお伝えさせていただきますね。我が家は3人兄弟で、親と祖父母は元々佐賀出身。私が1歳の時に北九州市に家族で引っ越してきたそうです。1つ下の弟と、4つ下の妹がいて、近所には同じ幼稚園に通うのは女子ばかりという環境の中、育ちました。父はトラックの運転手で、遠方へ出ることも多く、父と遊んだという記憶が未だにないのです。だからこそ、男の子らしい遊びを知らずに、いつも遊ぶのは女子ばかりという状況の中、親戚連中から言われた言葉が「お前は将来オカマになる」という罵声…当時はかなりの偏見のある時代だったことと、男らしい、女らしいという枠組みがしっかりある中だったので、そんな発言があったのでしょうが、よく考えるとそんな言葉を浴びせてくる親戚を憎い、嫌いと思ったことはなかった様な気がします。ただ、そんな言葉を言う親戚に対して、親がかばってくれたという記憶はないなぁと振り返っても思うのです。しかし、うちの親は私がすることに過去反対したのは私が「高校を辞める」といったその時だけなので、私という存在をきちんと認めてくれていたからこそなんだろうなという気持ちは今振り返ってもありがたいなと思うのです。そんななかなか他の方が経験をしない罵声を浴びながらも、小学校高学年には女子と交換日記をしたり、振り返ると完全に女子な遊びばかりをしていて、小学生男子特有の外で遊ぶというのは全くなく、お昼休みは女子とおしゃべりばかりしていた記憶があります。一つ上の先輩からは「オカマ、オカマ」とからかわれたりもありましたが、それでもクラスメイトの男子はそんな私とも登下校を一緒にしてくれたり、仲間外れにすることなく、過ごしてくれたことには今でも感謝しかありません。私がすれなかったのはきっと周りに恵まれていたからだと思うのですが、そんな中でも心が満たされていないこともあり、小学生の時には万引きをした経験もあります。それは4つ下の妹を母親がとても可愛がり、私に目が向いていないのを感じたことが原因でした。だからこそ、親から褒められるのはテストで良い点数を取った時だったので、一生懸命勉強をがんばっていた気がします。ただ、きっと苦しかったんでしょうね。自分に目が向けられていないことが…20代前半で心理学を学んだ時にこのことは分かりましたが、ストレスってストローク(心の栄養)がレス(不足)していることのことを言うと習いました。プラスのストロークがもらえないと自らマイナスのストロークを作り出す、それが私の場合に万引きだったのです。しかし、その当時を今振り返すと親が頭を下げているのってとても悲しいもので、その万引き行動はその先なくなりました。そんなことを過ごしながらファーストラブは小学校3年生の時に校歌斉唱の時にピアノの伴奏をする女子を好きになりました。その後です、異変が起きたのは…セカンドラブが男の子になっていたのです!鼓笛隊の指揮をする、ラサール中学校に行くほど頭の良かった秀才を気づけば目で追っている様になりました。好奇心多感な小学校5年生の時のこの時の気持ちはあの時は誰にも打ち明けられなかったのですが、モヤモヤは凄かっただろうなと今でも思います。その後、中学に入るとそんな彼はラサール中学校に行きましたが、男性を好きになるというのはなかなか止められず、新卒の担任の先生を好きになったりもして、妄想を膨らませてはそれが叶わないことにショックを受けていた気がします。そんな中、中学校では生徒会の役員もやったり、ボランティア活動などして、自分の居場所を必死で作ろうとしていた私でしたが、中学3年生の時に同級生からのいじめがあったりもし、自殺も考えたことがありました。誰にも自分の本心は言えず、登下校を一緒にしていた同級生の会話についていけないのに一緒に過ごして空虚感満載で支えるものは何もない中でのいじめ…カッターで手首を切ろうと何度もトライしましたが、流石に手首を切ることはできませんでした。だからこそ、耐えるしかなかったので、必死に耐えました。ただ、その時も3年生の時の担任の先生は私を守ってくれ、いつもニコニコしてくれていました。そういえば、今思い起こすと保健室の先生とも仲が良くて、逃げ場所が保健室だったのかも?卒業をしたら絶対にこいつらがいない高校に行ってやる…その思いで選んだのは自宅から通学に一時間かかる高校でした。ただ、そこでも担任、体育の教員からの裏切りで心を閉ざしてしまい、高校2年生の夏前には学校に行けなくなりました。そんな時に「高校を辞める」と言い放つ事件が起きたのです。この当時を振り返ると私は小さい時から妹に親の愛が注がれているのを見ていて、親に本音を言える子ではなかったので、高校を辞めるといった理由が先生からの裏切りで学校生活が辛いとも言えずに、「高校を辞めて働く」と言ったのでした。そこで普段は怒らない父が激怒し、体があまり強くなかった私に「お前みたいなひ弱な人間が高校を辞めて働けるところがあるもんか!」と言われ、その分かってくれない気持ちから家出をしました。そんな家出をした私に、60歳離れている祖母から泣きながら電話がかかってきて、翌日には家に戻り、とにかくしたいことが見つけるまで休学するという打開策を取らせてもらったのです。そうそう、その当時なりたかった職業は介護福祉士だったのですが、ボランティアで関わってく中で、自分が心から喜んでしてあげれていない現状を感じていたのもあり、そこを伝えて休学をしたのでした。そんな、教員からの裏切りで心を閉ざし、かつ将来の職業を迷っていた高校時代。休学している時はとにかく時間があったので、読書が友達でした。そんな当時、絶大な人気を誇っていた、矢沢あいの「ご近所物語」だったのです。そこで、小学生の時から重ね着が好きで、近所で遊ぶ時でもバッグを提げ、自分を着飾ることで自信を持てていた自分を思い出し、アパレルの道に進むことを決意し、専門学校に行こうと思ったのです。それから定時制高校に編入して、高校2年生から再スタート!そのまま定時制高校で3年を過ごすと同級生から2年遅れると思ったので、1年分の単位は単位制高校で取りながら、バイトをして過ごした2年間はやんちゃな同級生、60代の同級生など色んなジャンルの方がいて、「みんな違ってみんな良い」という感覚がこの時に芽生えた様な気がします。その後、服飾の専門学校に入り、最初の授業で作った「自分を表すコラージュ」に今でも好きなピチカートファイブの切り抜きを貼って、自己紹介をした際に今でも仲良しの友人から声をかけられ、好きなものを認めてもらえる、自分という存在を認めてもらえるという喜びをもしかしたらこの時初体験したのかもしれません。けれども、この時も男性が好きだということはずっとひた隠しにしていました。そうそう、高校の時には女子とも付き合った経験があるのですよ?キスレベルで終わるという初々しいものでしたが…2年間服飾の専門学校に通いながら、途中で中途採用で今はなき、ラフォーレ原宿小倉のOLIVE des OLIVEで勤務が始まり、私の販売員としてのスタートを切りました!ラフォーレ原宿小倉店は他店のスタッフ同士が仲が良く、女子校みたいなノリの中、仲良しの子はいたものの、やはり男性が好きだということはひた隠しにしていたため、好きな仕事をしていたからその当時は気づかなかったのですが、空虚感は多少なりともあったと思います。アパレルでは、売り上げることが課題の様であったので、途中からしんどくなってきた時に出会ったのが、天神で働き出した時のお客様がしていたパーソナルカラー。パーソナルカラーを受けた後から「お客様の新たな一面を引き出すには新たな色の提案ができることが大事である」と分かり、多い時にはお店の売上の半数近くを一人で売る名物店員となりました。ただ、アパレルでもやっかみにあったり、最終的には裏切り行為があり、心がボロボロになった状態になりました。今思うと、前世の行ないが悪くてしっぺ返しだったのでしょうが、当時の私はそんな風に受け止められずにいました。そんな中、ずっと顔中にあるニキビ肌に悩まされていた時にとあるスキンケアブランドを隣のお店の仲良しさんから教えてもらい、肌が改善したのです。仕事に行き詰まっている時だったのと、「洋服は着替えればテンションは変わるが、顔は仮面の様に変えられない。そんなお肌が整えばもっと幸せな人が増える」と思い、アパレルを辞め、自由の効くコールセンターで働きながらメイク、エステの勉強を行なったのです。アパレルでもコールセンターでも何故か管理職に抜擢される私は頼られることが自分の存在価値と思って、張り切っちゃうのです。ただ、今思うとお休みの日は一人でDVDを見て過ごすことが多かったので、暗かったなぁと思います。けれども、休学していた時も専門学校時代も本を読んだり、20代の働きに出ていた時もそんな風に一人で色んな知識を得ていたからこそ、雑学がちょっと他の方より多かったりはあるのかも?そんな最中、2009年のひな祭りの日にコールセンターにいた女子達が仕事終わりにファミレスに行くと言っていたので、良いなぁと言っていたらお誘いを受けたこの日が私にとって大きな変化の日だったのです。それまでは専門学校の「自分を表すコラージュ」を作って声をかけてくれた同級生ともう一人の同級生にしか、自分の好きな対象が男性だと伝えていなかったのに、その時に一緒にファミレスに行った女子達にはバレていたのです…どうやらその時の所属部署にいた男性に好意を示していたので、目で追っているのがバレバレだったそうです。ただ、その時に「今ってオネェの人も沢山TVに出ているし、そうであっても何も変わらないよ?」と言われ、自分の本心を解放しても大丈夫な時代がきているんだと感じたのです。そうこうしているうちに30歳での独立に向け、29歳でコールセンターを退職。人脈作りに異業種交流会に行ったりして、「オネェなビューティカウンセラーのキッチュです」と言うと、男性陣の中には「俺、女にしか興味ないんで」という言葉を言われる方や、嫌そうな顔をした方もいたのも事実でした。だからこそ、認めてくれる人はいても勘違いする方もいるんだなとその時に学びました。ただ、この独立があったからこそ、外に出る楽しさを知ったのは事実。その後、独立での動きで行なった講座に来ていただいたのが、Kitsch bを開業する前にお勤めさせていただいた美容室のオーナー。そこで受付をさせていただいている中で、お客様には堂々と自分がオネェだということはお伝えしながら外での出会いでも感じ方は人それぞれと思っていたので、オネェだということは話していました。実際に美容室では受付をしていたのもあり、自分磨きでネイルをしたり、ヒールを履いたりしていって自己開放ができたのです。ネイルもそうでしたが、やはりヒールを履いた時に私の世界は大きく変わったと思います。だって、ネイルを塗ってヒールを履いた時から言葉遣いまでもが変わったのですよ?この私が自分を偽る為に一人称を「俺」と言っていたのですよ?今じゃ考えられません…だからこそ、美容室のオーナーには今でも感謝をしています。そんな中でチャンスが訪れたのです。TNC系列の番組で「福岡のオネェ特集」があり、その出演をきっかけにオネェだということを31歳で全世界公開!実は29歳以降に出会った方以外にはほぼ語っていなかったので、正直怖い部分もありました。だって、仲の良かった高校の友人から「もしお前がオネェだったら気持ち悪いもんね」と言われた経験があったからなのです。しかし、そんな全世界公開をFacebookで行なった際に一番にコメントをくれたのがその友人で、「お前がそうであっても何も付き合いは変わらないよ」と書いてくれたのです。嬉しさ反面、過去に彼が言った言葉に傷ついていた私でしたが、みんなが認めてくれたのだというのが嬉しくて嬉しくて…実は美容の仕事をしているものの、ニキビが改善はしたのですが、ニキビが完全にできなくなることはなかった中で、オネェだと全世界公開をした時に、全くニキビができなくなったのです!「心が体に及ぼす影響というのは計り知れない」、「自己否定を繰り返す人が自己肯定できる様に、自信をつける場所を作りたい」ということで、美容室を退職し、Kitsch bを2014年4月に開業。Kitsch bのロゴには鏡に映った新たな自分の扉を開ける鍵穴があります。私がこんなに変わったきっかけを作ったヒールの様に、今回のメニューはあなたにとっての【魔法のヒール】となるかもしれません。「自分に自信が持てない」、「自分の魅力が分からない」の方の多くが、誰でも自分でも気づいていない「魅力の原石を見つけられていない」ことにあります。「魅力のない人」はいないのです。ただ、「魅力に気づいていない人」は大勢いるのです。自信とは、はじめからどこかに存在するものではなく、自分でつくっていくものなのです。そして、なかなか身につくものではないのです。様々な努力をし、その結果やその過程に手応えを感じて自分自身でつくっていくもの。だからこそ、「褒められたこと」、「人から認められたこと」の積み重ねが大事になります。サロンのメニューはあなたの素晴らしさを認め、あなただけの似合うを知って、あなたの中に眠っている自信や本来の魅力、美しさを最大限に引き出していきます。ほんのちょっとの勇気を踏み出せば未来は変わります。ガラスのヒールに足を踏み入れるちょっとの勇気を私と一緒に♡
テーマ: スタイリング
テーマ: お客様の声
30代〜ファッション
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