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横浜市青葉区青葉台駅の近くでピアノ教室を主宰しております あさみです。植物好き・動物好き。趣味はガーデニング。関西出身。7歳よりピアノを始める。初めて買ってもらったピアノは、私の生まれた年に製造されたウォールナットのヤマハのピアノだった。新品のピアノも買える値段だったらしいが、私はそのピアノが気に入った。明るく柔らかい音がした。ピアノが初めて家に来た日の喜びは忘れない。私はピアノの虜になった。私は一度も「ピアノの練習をしなさい」と言われたことがない。テレビなどで流れる曲は1~2度聴くと覚えて、伴奏も自分で和音をつけて弾いたりしていた。ピアノの先生になりたいという夢は、このころに芽生えた。音感がいいとよく言われた。【基礎の大切さを知る】私の通う小学校は県下一のマンモス校で、1クラス45人で7クラスあったが、近くにピアノの先生は1人しかいなかった。ピアノを習うのがちょっとしたブームになっていて、教室までの道を歩いていると、あちこちからお稽古バッグを持った子に出くわした。誰かに会うと走った。レッスン時間は決まっていたけれど、あってないようなものだったから。少しでも早く着いたほうが、先にレッスンしてもらえるからだ。レッスンの順番待ちの間、楳図かずおの怖い漫画が1冊、余裕で読めた。自分の番になっても、頭の中は「へび女」のことでいっぱいだった(笑)1時間以上待って、レッスンは、5分とか10分とかだった。私の時間は先生の休憩時間になっているようで、私が弾いている間、先生は窓際で外を見てたばこを吸っていた。一生懸命練習して行っても、ちゃんと見てもらえなくて、いつも悔しい思いをした。1年くらい習って母にピアノの先生を替わりたいと懇願した。新しい先生は、優しい女性の先生だった。もうバイエルは終わっていたけれど、指の形も、強弱も何も教えてもらってなくて、「今まで一体何を習ってきたの」と言われた。その後、何度か先生を替わることになるが、そのたびにそう言われた。私は自分の生徒にはそういう思いをさせてはならないと胸に深く刻み込んだ。たとえ趣味で習う子でも、基礎はきちんと年齢に合った教え方で指導しているつもりである。音楽を楽しむためには、必要なことだと思うから。【ピアノ以外にも】5年生のとき、校内の選抜メンバーで「合奏クラブ」が編成された。私はアルトアコーディオンを担当した。ここでみんなで演奏する楽しさを知った。熱心な先生の指導のもと、毎日音楽コンクールの関西大会まで進出。大阪厚生年金の大ホールのステージを踏む。優秀賞受賞。ラジオ放送された。最前列のど真ん中にいた私は、ステージのライトがとても眩しかったのを覚えている。中学に入ると同時に、吹奏楽部に入部。クラリネットを吹く。高校の音楽科を目指し、ピアノに加えて歌やソルフェージュを習う。【まさかの進路変更】順調に音楽の道に進めると思いきや、大事件勃発! 突然の転居!中3の夏休み、友だちに「さようなら」を言うこともなく、北海道に。その後、家庭の事情で関西と札幌を行き来する日々となる。それでも、私はピアノをやめなかった。寂しいことも、辛いこともたくさんあったけれど、「私にはピアノがある」という思いが心の支えになった。そんなとき、思いがけない天からプレゼントが!作曲家、木村雅信先生との出逢い。引っ越したマンションの部屋にピアノの音がときどき聞こえてきていた。それは、すごく上手なときもあったし、そうでもないときもあった。明らかに違う人が弾いているような感じだった。あれは、絶対ピアノの先生に違いない! と思った。ピアノの音を頼りに、その家のチャイムを鳴らしてみた。「ピアノの先生ですか?」という私に、先生は、とても愉快そうな顔をされて「どうしてわかったの?」とおっしゃった。それが木村先生との出逢いだった。大学で教えておられた先生は、中学生の私をとてもかわいがってくださった。また、聴音がよく出来るから、作曲科に入ればどうかと言われた。木村先生には引っ越すまで、1年くらいお世話になった。先生から頂いたサイン入りの全音ピアノピースは、セピア色になって先生の思い出とともにピアノの楽譜棚にある。関西と札幌の行き来をしていた私は、転校先の札幌の中学校も出たり入ったりで、公立高校の願書受付にも間に合わなくて、先生の言われるまま私立高校に進学。何もわからず入った高校だったが、友人や先生に恵まれ楽しい高校生活を過ごす。ピアノはずっと習っていたけれど、それ以上の準備を出来る環境になく、音大受験を断念。クラス担任が理科の先生で、理数系が得意だから薬科大学に行ってはどうかと先生に勧められ、受験勉強に励む。高3の10月になったある日、突然、親から薬科大学受験をあきらめてほしいと言われ、志望校を断念せざるを得なくなる。勉強をした理系科目で受験出来る唯一の短大を受験。短大では、グリークラブの部長を務める。クリスマス礼拝の仕切りと伴奏も行った。礼拝の日、音楽の教授が私のピアノにパイプオルガンを合わせてくださった。それは私にとって、とても感動的なサプライズだった。【社会人になって】短大を卒業後、就職難だったにもかかわらずテレビ局に就職出来た。公開生放送や、リクエストラジオ番組などに携わる。私の部署には、歌手や俳優さんたちがよくプロモーションに訪れた。テレビ局の仕事に慣れたころ、母校のゼミの教授からある日電話が。まさかのヘッドハンティング!「あなたにぴったりの仕事があるので是非紹介したい」と。他のゼミの先生が、私にとおっしゃっているというのだ。国立大学の教授秘書の仕事だった。英文タイプ必須だったのに、英文科の人たちに混じって試験を受け、なぜか合格。テレビ局を退職し、次の日から大学に勤める。仕事が終わってからタイプ学校に通い、英文タイプをマスターする。湯川秀樹博士の愛弟子だった教授はとても厳しい先生だった。学者にとって論文は命、一分一秒を争うと叩き込まれ、死ぬほど英文タイプを打たされ、タイプの達人になる。その後、職場の配置換えで、宇宙飛行士 毛利衛さんのお兄さんの下にも就いた。毛利先生は、弟さんをもっと素敵にした感じで、とてもジェントルマンだった。かわいがってもらった。当時、同じ学内に衛さんもいた。【ピアノ講師への道】26歳になったある日、ふと思った。私の夢はピアノの先生になることだったはず。このままだったら、私の夢は果たせないで終わってしまうのではないだろうか。家庭に入ったらきっと、もうチャレンジすることはないだろう。今しかない!仕事を辞め、カワイのセンターの店頭に行き、「講師になるにはどうしたらいいですか」と尋ねた。そのときに応対してくださった店長さんには、とても親切にしていただき、グレード試験の要項と、先生も紹介してもらった。それまでも週に1回、ピアノのレッスンに通っていたけれど、お世話になった先生には事情を話し、カワイの紹介していただいた先生に通うことに。半年後、グレード試験に合格。その半年後に指導グレードに合格。講師資格を得て、自宅に看板が立った。 夢が叶った瞬間!受験で合格したときよりも嬉しかった。しかし、音大を出ていない私には、自分の力量がどのくらいかわからない。自信をつけるために、今度はヤマハのグレード試験を受けることに。音大卒の人たちに混じって受験したグレード試験も1年後に合格し、ヤマハの講師資格も得た。【ピアノに嫌われている?】実家では、ピアノを教えることに理解が得られず、グランドピアノを置かせてもらえなかった。そして、結婚して最初に住んだマンションでは、防音室を入れたけれど、教えることを辞めるか、出て行くかと選択を迫られた。その後、マンションを購入するも、上階の人(精神を病んでいた)から苦情が来て、500世帯ほどある大規模マンションで、私だけがピアノを弾けない状態になった。レッスンが出来なくなって、教室を閉鎖した。また、私が弾いていなくても苦情の電話が来たりした。妄想がどんどん膨らんだ上階の人から、ピアノの音など全くしていない深夜でもピアノを弾いてる、うるさいという電話がかかってきた。同じマンションの別の住人はピアノを弾いているのに、私だけが弾いてはいけないと言われ、ストレス性胃腸炎で救急車で病院に搬送され、1週間入院する。夫が、こんな「魔の巣窟」は出て行こうと言い、マンションは3年も住まないうちに売りに出し、一戸建てに引っ越した。【横浜に来てから】39歳で横浜に活動の拠点を移す。2011年に現在の住まい、青葉区鴨志田町に居を構える。設計段階から、レッスン室の天井の高さ、勾配等、音の反響具合を研究し、サロンコンサートも出来るように環境を整えた。原家族とはいろいろあったが、義母にはかわいがられた。気難しく厳しいと言われていた人だったが、私には実の娘のように接してくれた。亡くなる前に、義母が私に言った言葉が「ごめんね。ありがとう」だった。ちなみに夫には何もなかったらしい(笑)私に遺してくれたもので義母の形見としてスタインウェイを購入した。スタインウェイは私の宝物である。【そして今】朝一番、家中のカーテンを開けて回る。ピアノ室に入ると、ちょっと弾きたくなる。ちょっとだけのつもりでピアノの前に座る。起きてから、まだ何の音も聞いていない真っさらな耳に、ピアノの音は心地よい。疲れてない耳って、こんなによく聞こえるんだと心躍る。窓からの木漏れ日が心地よい。弾きながら、ふと思う。ピアノ人生の中で、今が一番幸せなんじゃないのかなと。私は ピアノにずっと片思いしてると思ってた。こんなにピアノが好きなのに、ピアノは私から離れていく。そんな思いを何度繰り返してきただろう。物理的に、自分ではどうしようもない理由で思うように練習出来ない時期が幾度となくあった。これは、もうあきらめなさいという天の声なのか と思ったときもあったけど、あきらめ切れなかった。ここにきて、やっと、ほんとにやっとピアノとの距離が少しだけ縮まったような気がしている。ピアノが私に近づくことを許してくれたような。そうすると、ピアノは私に新しい世界を見せてくれるようになった。音の向こうの景色が以前より広がって見えるようになった。ピアノと親密になって、弾くことも、教えることも、もっと好きになった。ピアノを教え始めた20代のころ。子どもたちや保護者の方たちの中間の年齢、ひよっこ先生の私は戸惑った。自分の立ち位置をどこに置いていいのかわからなかった。たくさんの本を読んで勉強をした。教材研究や公開講座もよく聞きに行った。でも、それらはマニュアルであり、10人の生徒がいれば10通りの接し方(教え方)があるわけで。たくさんの生徒たちとのかかわりや、日々の積み重ねがあって、今の私がいる。保護者さんたちより年齢が上になっていて、子どもたちも、そしてお母さんたちも無条件に愛おしい。先日、雑誌取材のカメラマンさんに、レッスンの様子を撮っていただいたときのこと。「スイッチ入りましたね」と言われて、テンションの上がってる自分に気づいた(普段の5割増しくらいかも)大人の生徒さんたちからは「イメージしやすい説明」「そういうことを教えてもらったことがなかった」と言われることが断然増えた。それは、私自身が勉強を続けてきて、教えてきて、自然と出来た‘私スタイル’体験レッスンのとき、生徒たちとの接し方を話すと涙してくださる方がいたり…。私の想いに共感してくださったのだなと思うと、心から嬉しくなる。私は、誰もが認めるプロフェッショナルなピアニストではない。でも、会場にいる1人の人にでも、心に響く音楽が奏でられたら嬉しいと思う。私は、コンクールにたくさん入賞させたり、音大に大勢輩出できるような凄腕のレスナーではない。 でも、彼ら彼女らが、演奏することの楽しさ、喜び、音楽の深さを知って、これからの人生が少しでも豊かになってくれれば嬉しいと思う。彼、彼女らに、ずっと寄り添っていきたいと思う。ローマは一日にしてならず。ピアノを勉強し続け、レスナーとしての経験も重ねてきて、やっとたどり着いた今、この場所。でも、これが一番じゃない。これから、まだまだ前に進みたい。死ぬまで現在進行形でありたいと思っている私がいる。今朝もまたちょっとだけと思いながら、気がついたら1時間。真っさらな耳と、頭と、ちょっと空腹な胃袋と。1日の始まり、ピアノの音は真っ直ぐ私の中に入ってきて、何とも心地よい。私の幸せで贅沢な時間。現在、4歳から80代の生徒さんまで楽しくレッスンしています。教室は、横浜市青葉区青葉台駅(田園都市線 急行停車駅)から徒歩3分
テーマ: ブログ
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