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福岡県福岡市で中学3年生の息子と2人暮らし。・心理カウンセラー・モデル事務所・芸能プロダクションで働く傍ら、子供たち・若者たちの交流が深く、悩める人々の「心の駆け込み寺」として活動する。1973年、長崎県の離島に三男一女の長女として生まれる。幼い頃から、極度の人見知りで「この子は集団生活の中でとてもやっていけない」と悩んだ両親が人前に出る事に慣れさせる為、3歳の時に日本舞踊を習わせる。実家は父が事業をやっている為、裕福な家庭で育ち、常に欲しい物は与えられ、小学生の頃は、新しい服を着て登校した日には必ず、グループから仲間はずれにされたり、物を隠されたりなどのいじめにあっていた。両親は大変忙しかった為、唯一の心の拠り所は人形に名前をつけて物語を作っては遊び、本を読んだり、母に手紙を書いたりとその頃からの特技は文章に思いを表現する事だった。将来の夢はライターかコピーライターになる事だった。生まれ育った島を離れ、進学で福岡に出てきた私は、初めての寮生活を送る事になる。田舎者というコンプレックスとホームシック、回りとの学力の差に悩み、卒業3ヶ月前に異種退学をする。就職難の真っ只中とはいえ、広告代理店や編集事務所にいくつも採用をもらい、アルバイトなどを経験するも長くて半年しか続かない。一番ひどい時は、たった一日で退職した事もあった。それぐらいにメンタルが弱い、逃げてばかりの人生だったと思う。20代の頃はずっと「自分は社会に適応できない人間だ」と思い続けながら、常に劣等感を持って生きてきた。26歳の時に結婚し、27歳で長男を出産。息子が3歳の時に大好きなミュージシャンのファンクラブイベントで体に異変を感じる。後に心療内科で「パニック障害」だと診断される。発作に苦しみ、マンションの目の前にあるスーパーへ買い物に行く事すら出来ない程、生活に支障をきたし、次第に不安から鬱状態となっていく。そして4年前、今までの経験など比べ物にならない程の痛みを経験する事となる。最愛の兄の死・・・。釣りが趣味だった兄は自分が所有する船で釣りに出かけたまま、行方不明者となった。愛する人を突然失う痛みは、まさに生き地獄そのものであり、あまりのショックに感知していたパニック障害を再発し、とうとう入院するまでになった。兄の事故がある2日前、私は日本メンタルヘルス協会の体験会に参加し、衛藤信之先生と運命ともいうべき出会いをする。そこから、カウンセラーについて勉強しながら、「心」というものを扱う仕事に就きたいと考えるようになる。「生」とは何か?「死」とは何か?私はこの42年間ずっと考えていたように思う。人より、哀しみを多く経験した分だけ、いつの間にか私は人の心に耳を傾け、心を傾け、いちいち敏感でありたいと思うようになっていった。私の今までの経験が誰かの光に、希望になるかもしれない。私は、色々な方に「どうやってそういう痛みを乗り越えてきたのですか?」と質問を受ける事があります。その質問に対する私の答えはこうだ。「痛みはまだ、ここにある」ただ、一つだけ言える事があるとするならば、「痛みと共に生きる」という事だろうか。苦しい時には苦しみ抜き、悲しい時には悲しむ抜いたからこそ、私は今こうやって生きているのだと思う。人は身を切られる程の痛みを伴う経験をした時には、どんな慰めも同情も無力だ。それでも人は生きていかねばならないのだから、もし、あなたが今この瞬間、暗闇の中にいて一人で苦しんでいるのなら私があなたの光になりたい。私が暗闇の中から光を見出したようにあなたにも光が見える日は必ず来るのだから。あなたの悩みを私に半分、下さいませんか?
テーマ: ブログ
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