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やさい
性別
女性
血液型
B
ステータス
既婚
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やさいの気まぐれ日記
自分史
1971年2月 愛知県豊田市にある家と車付きババなしの父と結婚した母が私を出産。
その2年後に弟が生まれ、弟の2年後に妹が生まれた。弟の時は2歳だから全く記憶ないけど妹が生まれた時に私は4歳。スゴく嬉しくていっぱい抱っこした。妹が中学生あたりからは私よりデカくなった・・・特に横幅が。大好きな妹。
保育園
可愛くはないけど小さくてあまり自己主張はしなかったからか先生にすごくかわいがってもらい、卒園後もその先生は亡くなるまで私をきにかけてくれた。背の順はいつも一番前だった。
小学校
四郷小学校
近所に一級下と一級上の子が多くて(通学団に同級生は一人もいなかった)私の家の2件隣に公園があり(後で知ったけど私有地だった)そこでみんなで毎日のように遊んだ。
小学校高学年あたりから イジメられてた。
その時のあだ名が『ヒグチキン』旧姓は樋口
その後中学2年に進級するまで続いた。
お母さんや父さんに知られたら家で過ごす心地良い感じが無くなると思って言えなかったから皆勤賞をとるくらい休まなかった。
小学校では合唱部に入った。父は塗装職人なんだけど、いつの頃かカラオケの先生(月謝はもらっているとは思うけど生徒数はそんなに多くないし8トラがあったし指導する為の資料とか作っていたし金儲けでやってる感じは無かった)をしてて影響されたのかも。
ちょうどこの頃 ファミコンが販売されて
父は夜ずっとそれでゲームをやってて塗装職人なんてハードな仕事なのに、あまり寝ないでよく働くな〜タフだな。と子供心に思った。
母は縫製の内職をしていて学校から帰るといつもいた。縁側に工業用ミシンがおいてあってそこで仕事をしていた。
夕飯は家族5人で必ず食べてて、それが当たり前だと思っていた。
たまに外食に行くんだけど必ずラーメン屋さんだった。私が働くようになってラーメン屋さん以外に外食できるところがあると知った。初めて行ったのは『びっくりドンキー』だった。ハンバーグがでるなんてびっくりした。
小学校の6年くらいの時、増築して2階建てになり自分の部屋ができた。
それに伴い、住所の最後の数字が9から6になった。
後から知ったけど、土地を少し購入したから
住所変更が必要だったらしい。
中学校
猿投台中学校
けっこうヤンキーが多くて
少年院に入ってる子もいる
という悪いうわさがある
学校だった。
当時のヤンキーは
男子は長ランで内側に凄まじい刺繍
女子はスカートがマキシ丈でセーラー服の裾が極端に短い
男子は丸刈りという決まりで
ソコは従うヤンキー中学生
中1だけで40人10クラスのマンモス校。学校まで1.5kmくらいあったけど、自転車通学区域にはならなくて歩いて学校に通った。中1の時 クラスに登校拒否の子が二人いて、学級崩壊してた。標的のいないいじめっ子は私をイジメていた。
中2に進級した時にクラスがえでイジメが無くなった。いじめっ子は別のクラスになった。担任の男の先生がとても好き(恋愛の好きではなく尊敬の好き)で先生の教科担当の理科は良い成績だった。
中3は若い男の先生で熱すぎて苦手だった。
私が中3の時弟が中1だった。弟の学年は12クラスあって 翌年我が家の前に井郷中学校(いさと)が開校した。弟は2年生から妹はソコに入学する。
中学3年間 合唱部だった。人数が少なすぎてコンクールは出られなかった。
高校は楽して入りたい・勉強なんてしたくないと思って中学校区内にある高校に推薦で入る。校区内だからか一緒に受けたのは15人くらいいた。みんなで歩いて高校に行って推薦の面接をした。
成績は中の上だったから難なく入れた。
高校
猿投農林高等学校に入学。県立の専科の学校で勉強はあまりカリキュラムになく、作業着で地下足袋を履き草むしりや鶏の世話などなかなかできない体験をした。農業なんて全く興味なかったけど 2019年現在113年経つ歴史の古い学校で 就職に有利だった。まだバブルがはじける前で選び放題だった。
在学中にアルバイトをした。一番最初にしたアルバイトは学校での夏休み中の仕事募集で働かせてもらった。その後も同じところではないけど
いくつかアルバイトをしたから 親から小遣いをもらわなかった。
アルバイト先(順不同)
・鳥の精肉やさん←学校 当時時給480円
・パン屋さん←家から近くで募集の貼り紙がしてあった 店長と一緒に研修に行った。研修の時 店長の車で現地まで乗せてもらい、途中「お腹が空いた」と言ったら ダッシュボードからコンビニおにぎりがでてきて(賞味期限切れ)渡された。
・喫茶店←父の紹介 ソコにいる板前さんがけっこう面白い人だった。
・うどん屋さん←先輩の紹介
就職
豊田自動車健康保険組合保養所従業員として住み込みで働く。妹が私がバイトしたお金をちょこちょこ持っていくのがイヤで、でも持って行かないでとも言えなくて 家を出たくて。だけど遠くには行けなくて 市内にある保養所の寮に入った。
寮に行く日、電車で母が見送ってくれた。
別れるのが悲しくていっぱい泣いたけど市内だったから 一週間後には帰った。(笑)
最初は受付にいたけど、接客係に移動してと言われた。宴会セッテング、料理と飲み物を提供、片付けをしたり清掃をする仕事にかわった。
時間によって忙しくてメリハリありすぎな仕事だった。暇な時は昼寝ができるくらいだった。テーブルにつっぷして寝るんだけど(一応待機だから)自分のよだれで冷たくて起きた事がある。
中学の同級生(同じクラスにはなった事はない。高校は別だった。不思議とよく図書館で会った)と旅行に行こうってなって北海道にと考えたけど、グアムなら北海道より安く行けるってなって その同級生(名前は理花)と一緒にグアムに行く。理花は計画するのが上手くて楽しかった。それがきっかけになって毎年 理花と旅行に行った。中国、香港、韓国、シンガポール、アメリカ、など。海外に行った。
理花とじゃないけど 北海道、沖縄も行った。
妹が19歳で結婚して相手は愛媛の人で式は愛媛県に行った。初めて出席した結婚式は妹のだった。
愛媛で結婚式をしたけど住んでいたのは愛知県の長久手だった。妹の生活はけっこう適当で、私の描く母や妻はこうではいけないという固定概念がくずれた。
入社当時はトヨタ生協(現在メグリア)が料理を請け負っていた。どういう経緯か分からないんだけど委託先が東レエンタープライズになり、それまで女ばかりの職場に男性が入る。
宴会だけでなく喫茶部門までやるようになり かなり忙しかった。何かあるごとに終わってから宴会をしてた。宴会の後2次会の従業員食堂、3次会は館内のカラオケルームだった。私はアルコールは一切ダメだけど、みんなとワイワイするのは好きなので必ず最後までいた。
職場の友人が上司(妻子あり)と不倫していてそのまま友人は結婚した。後に不倫相手とは修羅場の末別れたらしい。
その友人が不倫していたから会社からの情報を私にも伝えてくれ助かった場面が何度かある。
結婚
付き合っていた人と別れて、そのこっぴどい振られ方に見かねた友人がお見合いパーティーに誘ってくれた。
そのお見合いパーティーで夫を見て一目惚れをして その想いが通じてカップルになり、付き合ってお腹に長男がいるのがわかり 結婚した。
職場にはけっこう早めに言ったら有給と育休合わせて3ヶ月休めるように取り計らってくれた。
なので12月まで働いて1月から3月までまるっと休みだった。 籍を入れたのは2月だったから会社が全て手続きをした。
初めて、姑と舅が私の親に挨拶にきた時
姑が「家は一人っ子なのでお宅は一切お金やモノを贈らないで下さい」
と言った・・・。
母が反論しようとしたら父がそっと手をふさいでとめてた。テーブル下の見えないところで。
そのガーガーモノを言う態度にビックリした。
今までに会ったことない人だ。
で、その親にしてその子である夫もまた 同じ。
姑は働いていたのに、家で料理、洗濯、掃除を嫁がやるのは当たり前だと思ってる。
唯一 ちょっと違う雰囲気を舅は持っていて けっこう優しかった。
「あいつ(姑のこと)はあんなだけど根はイイヤツだからよろしくね」
舅は昔から金遣いが荒くて警察沙汰にはならないギリギリラインにとどまっていた。
夫がお金に細かいのはここらへんもあるのかも。
家計簿つけろとか ムダに遊びに行くなとか
夜は出掛けられないし、旅行なんて結婚してから3回しか行ってない。一つは新婚旅行。あとの2つは当選した旅行。
姑は旧家の跡継ぎ(末っ子だけど)だから姑が生まれ育って今までいる人なんだけど 隣の家の人以外の近所の人とは行き来を全くしない。普段は買い物や病院以外全く出掛けずに家にいる。
2000年5月長男誕生
2002年5月次男誕生
2004年4月三男誕生
障害の話と次男のイジメの話は省きます
3男が生まれて一年くらい経った頃
舅が預金をおろして 競輪や競艇に行っていたのが発覚した。
おろした総額1200万円・・・。
それを姑と夫が責めたら家出した。
子供二人にって私に渡した2枚の封筒に子供の名前を書いた切れ端とピン札の一万円札が一枚 それぞれに入ってた、
なかなか帰って来なかった。
警察に捜索してもらったけど見つからない。
夜中によれよれになって
「死ねなかった」
と言って帰ってきた。
生きてて良かったと思って泣いた。
それからは家から一人で出掛ける事は許可されず
2017年1月に亡くなるまで いつも家にいた。
火葬場まで行って骨になったのを見てるのに
何だかまだ生きてる気がしてる。
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