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私がイエス様に導かれ始めたのは「自分嫌い」の問題でした。私の中学時代は校内暴力のかなり酷い時代でした。いじめ、リンチまがいのこと、ほか多数の「悪」的なことが辺り中にはびこっていました。私はそんな雰囲気が本当に嫌だったのですが、それに逆らう力も、それどころか、逃げる力すらありませんでした。その中で生き残ることばかり考えてました。だから、いじめましたし、また、そんな腰抜けぶりでしたから、いじめにもあいました。不良にあこがれ、喧嘩のできない自分を責めました。喧嘩なんていうものはやる必要もない悪です。しかし、それをできない自分を責めるのですから、今思うと、完全に何かが狂っておりました。そんな風に私は自分を傷つけ、人を踏みつけにしてどうにか中学時代を生きてき抜きました。 しかし常に自分で自分にしっくりきていませんでした。自信がないというか、どうもいつも不安でした。そして自分で自分が大嫌いでした。 そして私は最悪だった中学校を卒業しました。勿論中学校の卒業式が悲しかった思い出などまったくありません。ただほっとしていました。 そして私は高校生になりました。私は宮崎県の出身なのですが、宮崎では一応進学校といわれる高校に入りました。不良に憧れていたのですが、大学にも行きたいと考えていたのですね。今思っても中途半端な人間のまさに極みみたいな男です。そんなこんなで中途半端な人生まっしぐらで私の高校生活は始まりました。また、その頃は抜毛症という病気にかかっていました。自分で自分の髪の毛を抜いて自分の頭にハゲをつくってしまうのです。ただ、それを食べると異食と言って治療が必要になるのですが、私の母はそれを見ても「あんた、ハゲちょるが」としか言わず、思春期でしたので、さすがにハゲになってしまうのは嫌でスネ毛に替えたのでした。 そんな風に絶えず不安で絶えずイライラした毎日を送っていました。そんな時ある事件が起きたのでした。 私が高校二年生の時でした。私が友達三人と一緒に自転車で学校から帰っている途中だったのですが、不良たちに私達が絡まれてしまったのです。そしてその原因はこの私にあったのでした。よく不幸中の幸いと言う言葉がありますが、その時の私には不幸中の不幸が起こったのでした。というのはその時の三人は同じ中学校で帰る方向が同じだったのです。ところが、私だけは方向が違ったのです。そして丁度その絡まれた場所が私達の別れる場所だったのです。私は友人達を置いて逃げ出したのでした。しかし、私は一抹の期待がありました。というのは私を含めてその4人の中では私がどちらかと言うと最も不良っぽく彼らはいざこざになることなく、別れただろうと思ったのですね。そして私は帰ってからその中で最も仲のよかったMという同級生に電話をしました。「大丈夫だったか?」と私が聞くと彼は「ボコボコよ」と答えました。私が一目散に自転車を走らせ彼の家について彼に会うと文字通りボコボコ顔の彼がそこにはいました。私は情けないやら、悔しいやらで今思うとある意味笑えてくるのですが、「こういう時は逃げるんだよ」とか、不良先輩面して彼に説教を始めたのでした。すると侘びの一つもいれずそんな言い訳と逃げ口上を言い始めた私に彼が憤りを覚えたのか「お前はいつもは威勢がいいが、いざと言うときは逃げ出す。俺はいつもはおとなしいが俺はイザという時は戦うのだ」とそんなことを言いました。 私は何も言えず、その場を後にしました。 その日は私の大好きな焼肉だったのですが、少しも焼肉を食べる気が起きませんでした。父と母が心配していました。 私は自分の部屋に行き、そのことを思い出すたびに、「恥」と「情けなさ」と「恐怖」とが私の中で交錯し、そしてこれから、こんなだらしない自分とどうやって向き合って生きていけばよいかわからず、「ガビーン」という音がただ鳴り響いているように思いました。私が今までとにかく逃げ通してきた自分自身と初めて本気で向かい合った時でした。そこで私が自分で自分の命を絶てばある意味立派といえば立派でした。しかし、私はそんなことはなおさらできませんでした。かっこいい人間でありたい。でもそれもできない。かといって死にたくもない。もっと人生エンジョイしたい。しかし、そんな自分を好きになれない。 何か混沌としていました。そんな中で私がいきついた思想?は人間は皆駄目だと言うことでした。性悪説のようなものでした。かっこつけている人間達も一皮向けば私と同じ駄目人間。そういう考え方でした。だから、これからは駄目人間で生きていこうというものでした。否定万歳!きれいごとなんてくそ食らえ!どんなやつらもその本性を暴いてやる。そんな生き方を始めたのでした。しかし、ただでさえ自分が嫌いになっていたのに、そんなこうやって書いているだけでも胸糞悪くなる生き方を始めたのですから自分嫌いはいっそう進んだのでした。そして大学生になりました。もうとことん駄目でした。週休5日。親からの仕送りで生きている。甘ちゃん野郎。臆病。寝てばかり。口先ばかり。ハッタリ野郎。心底、自分をクズだと思いました。しかし、救いの来る前が最も闇も深くなるのですね。突然、私はこんな人生はいけない、なぜか奮い立ち、「ボクシング」を始めたのでした。このとき私は始めての回心を経験しました。そして次のことを悟ったのでした。「自分は駄目な人間である。これは事実であって変えようがない。しかしそこで自分を責めたり、いじめたりせず、そこからまた前向きに肯定的に生きていくのが人間として正しい生き方なのだ。」と言うことでした。そしてそれがキリスト教の生き方とつながっていたのです。キリスト教が私たちに教える「イエス様の十字架を見上げて生きる」とは、その生き方の究極版だったのです。七月よりカウンセリングモールにてメールカウンセリングを開始します。もしよろしかったら、ぜひ、お声をかけてください。「そのまんまの自分」を愛する。そこに答えがあったので、私は驚きました。そしてそれは「イエス・キリスト」に繋がることによってのみ可能だったのです。
テーマ: キリスト教について
アラフォー
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