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□連絡先 〒141-0021 東京都豊島区西池袋4-30-11 矢本ハウス102 E-mail tmp.minshushugi.shimn@gmail.com お気軽にご連絡ください。□経歴1974年 東京都大田区で出生。2歳ぐらいから皇祖からはじまり、後白河上 皇・安徳帝の流れと続く王家である父の実家のある埼玉県飯能 市で育つ。当家所有の土地に立つ軍太利神社は皇祖や聖徳太子を 祀っている。軍太利というのは真言宗が日本武尊を神としたとき の教義上の名称。私はその家の長男。祖父から直接皇位を継ぐ。 横川という姓は平清盛命名。平清盛は王家の一員にして時の太政 大臣。鎌倉幕府の成立とともに、天皇の直轄領である武蔵に動座。 武蔵というのは聖徳太子の次男の名。長男大和は曽我に殺された。 幼いころ、祖母、祖父、叔父が次々に他界し、幼心に死の恐怖を 感じながら幼少時代を過ごす。 ちなみに、大田区は母親の実家があった場所。母は旧姓綿引洋子 という。綿引という姓は徳川光圀命名。祖父はその綿引家本家の 正嫡男。綿引正七郎という。明治政権の水戸徳川弾圧政策の影響 で、祖父の兄たちは次々に他界していったと聞いている。綿引家 は水戸藩の綿の商いを一手に引き受ける御用商人であったが名字 帯刀を許され、蔵には甲冑が安置されている。綿引発祥の時代と 徳川家康の政策そして、綿引家の伝承などから考えて、恐らく甲 斐源氏新羅三郎義光の流れ。のちに発祥するベーステックは綿引 正七郎資本がもととなって立ち上がった。田井欽一、横川明の言 葉は王家の名を汚す戯言。1987年 飯能市立飯能第一小学校卒業。4年生位から水泳を本格的に始め る。父、横川政良は埼玉県(中学)1位の記録を持ち、弟の義夫 はその記録を塗り替え教科書に名前が載ったらしい。飯能市立 飯能第一中学校卒業。義夫は木原光知子と同じプールで練習を するほどの実力の持ち主で、国体出場選手。 ロサンジェルスオリンピックは1984年。米ソ激突当時にあって 私が現役時代の日本の水泳のジュニアのレベルは世界一といわ れる。 勉強は得意ではなかったが、理科の成績はいつも5。ラジオを素 子から組み立てるキットを父から与えられて、半田付けをして組 み立てたり、パソコンでプログラムを書いたり、天体望遠鏡を 買ってもらって天体写真を撮ったりしてして遊んでいた。担任 以外の恩師は自然科学クラブの松田先生。天体写真を撮りたい のに父のカメラに合うカメラアダプターがなかったために、一 眼レフを貸してもらったこともある。顕微鏡をのぞいてのスケ ッチや金魚の解剖方法も教えてもらったが、今の私と違って、 生物にはあまり興味はもてなかった。 母の勧めで中学受験をするが失敗。しかし、勉強をする癖は付 いた。1990年 飯能市立飯能西中学校卒業。100m自由形で、県大会4位となり、埼 玉県水泳連盟ジュニア委員会から日本水泳連盟水泳資格級AA級表 彰選手として表彰される。学級委員長、水泳部副部長。 中学2年生の夏休みの自由研究では鈴木先生(山形大学で物理を やったという)の指導で、温度によって抵抗値が変わるかどう か、マイスナー効果が(常温だがその傾向が出るか)というテ ーマの研究をした。その中で、ラジオ技術という雑誌の回路図 からユニバーサル基板で磁束を測る計器を秋葉原に行って磁束 センサーや素子を買って来て作ったことがある。デジタルテス ターも計測器ランドというところを秋葉原の店で教えてもらって 買った。勿論熱電対は坂口電熱で入手。しかし、この磁束計は うまく動かなかった。ちなみに、当時常温超電導の話題が流行 っていた。 中学3年生の12月の学力試験で5科目の偏差値69。しかも、理 科・社会で得点を伸ばしたところがある。担任の進路指導 主任からは学区トップの埼玉県立川越高校への進学を勧められ る。 歴史的に、理科と数学が融合し大々的な成果を上げることを知 ったのは大学の受験性になってから。つまり、理科は好きだっ たが数学をしっかりやる動機が中学生の頃はなかった。ついで にいうと、母国語が思考の基礎となることや英語を学習するこ とがその助けになることも知る由もなかった。 しかし、父の勧めと、自分が水泳をやっていた偏向した価値観か ら勉強でやっていくことを決めていたのに、偏差値64の水泳で インターハイ全国2位の成果を例年出している日本大学豊山高校 に単願推薦で進学することを決めた。ちなみに同校はスイミング マガジンで特集されるほどで、関東では1位。全国に一位になれ ない理由は男子校だから総合得点が採れないからだと言われる。 水泳を辞めた理由は身長の伸びが止まり、オリンピックで金メダ ルを取ることを目指すことは出来ないと考えたから。1993年 日本大学豊山高等学校(文京区)卒業。 1年生の時の成績表はオール5。校内体育大会ではぶっちぎりの泳 ぎを見せて、水泳部の上野広治ヘッドコーチ(現、日本水泳連盟 副会長)からスカウトを受けたが、勉強が忙しいという理由で断 った。 しかし、豊山高校は日本大学の内部進学を目標にした教育を展開 しており、京都大学を目指す水準には到達しないと考え、独学で 勉強を始める。学校へも満足にいかない日も多かったが、物理と 数学の恩師は温かい目で見守ってくれた。ちなみに、なぜ1+1 が2になるかという小学生の頃の疑問や、天文や電気や自転車な どの機械(力学)を統合的に説明するのが物理学で、自分がやり たいのはそれだと知ったのは恐らくこのころ。 現役の時は、良書を探したり正しい勉強の仕方を見出すことに費 やした。したがって、結果は全く出なかった。1993年-1995年 物理学を修めることを志し京都大学理学部を志望し浪人。 1浪目はなんとか良書と出会い、ラジオ講座の長岡亮介師の言葉 に触発され、実力をつけて行った。しかし、結果が出始めたの は1浪が終わった頃。2浪目は実家から近い池袋の駿優予備校に通 って、岡安師の授業も復習程度に余裕でやっていた。曰く「浪人 はいいね」。1浪目で大学への数学(黒い本)はすべて終えて いた。物理の偏差値は87に達し(駿優を選んだ理由の一つは物 理の坂間氏がいたから。特ゼミの坂間の物理で力を付けた。)、 総合偏差値も78になった。しかし、京大受験に関する情報が圧 倒的に足りず、演習をすることを怠った。1999年 早稲田大学理工学部物理学科卒業。学位論文は「2次元フォト ニック結晶におけるアンダーソン局在」。テーマは田中さんか らもらった。大槻研究室。 早稲田大学に進学してから半年ぐらいは、線形代数学(佐武一 郎著)を独習しや数学基礎論の講座にちゃんと出て、真面目に 勉強をしていた。佐武氏の参考図書を見て絶望的な気分になっ たのは私の本音である。新しい発想を生み出すちからがなくな る気分に陥ったことに共感してくれるのは同書をちゃんとやっ た人であろう。ちなみに、東京大学出版会のS君のベクトル解 析まで証明が続く解析入門も真面目に取り組んだが、途中(数 論が終わった直後ぐらい)から証明がおかしくて、独学の道は とざされた。ブルバキは知らなかった。ブルバキ学派がベクト ル解析を否定していることは絶望的だ。ちなみに、森毅さんの 現代の古典解析に目を通さなかったことは不幸なことである。 しかし、世の中、インターネット・ベンチャー・ブームだった。 1年生の時から解析学も修まっていないのに例えば偏微分方程式 の解法を丸暗記させたり、講座のしょっぱなからテンソル代数 の演算法を教える教育にも嫌気がさしていた。そういう訳で、 「恋のえとせとら」というHPを彼女も出来たことだし開設し、 人気を博し、雑誌で紹介されたこともある。 1年生の頃の同級生に渡邊正人という知人がいた。彼は、UNIXと かTCP/IPとかいうキーワードに象徴されるようなインターネット 時代のIT技術をもりもりとつけて行った。これが、のちのベーステ ック株式会社の技術的な礎の一つとなる。もう少し説明すると、 私はCGIやSSIをUNIX環境の一ユーザーとして使っていただけだが、 渡辺君はrootからUNIXを見ていた。はっきり言って、ベーステッ クのオリジンは私である。渡辺君は大学1年生の頃分厚いIT系の 本を見てたじろいでいた。私が、数学や物理の本と違って、はる かに1ページ当たりが軽く読みやすいと言ってから、彼はITの道 へ走った。私がPCに興味を持ったのは前述の鈴木先生の影響、 彼はその影響に端を発する筋の延長線上で生きていいる。 大学生から卒業した年は、祖父(母系)、祖母(母系)、母、伯 父(母系)が確か1年半ごとに他界していった。 インターネットベンチャーである株式会社ジェイエム(当時中 央区)の取締役となる。2000年 有限会社ベーステックを資本金300万円で大田区に設立。資本金 は母の遺産。つまり、綿引正七郎が残した資産の一部。木造住宅 ではあるが東京都内で家賃のかからない事業所もそうだ。当時、 この2階部分がアパート形式になっている建物を使うことに快く 同意してくれたのは、正七郎の長男である綿引哲夫。 システムインテグレート事業を開始。 主要取引先 株式会社村さ来本社、株式会社日本マタイ(東証一 部) この頃、私の会社がが潰れそうになり、大型案件が舞い込んでく るというほのめかしが知人からあった。そして、会社を乗っ取ら れるという予告もあった。2004年 PCサポート事業を開始 これ以降本格的に政財界からの影響を受 ける。 新日本製鐵元社長の小倉という人物を知人から紹介される。2005年 従弟の犯罪により、PCサポートを閉鎖。「この会社は潰れるよ。 」と言った。 石川県金沢市の株式会社ホクコク地水が私の会社を探しに来て、 システムインテグレート事業で大規模バックアップシステムを受注2006年 資本金を1300万円に増資し、ベーステック株式会社と商号を変更す る。2007年 1月結婚。9月長男出生。 トヨタ自動車の関係者の石井鉄次郎という男が突然現れる。2008年 離婚。長男を失う。 この頃から、集団ストーカーや政財界からの事業妨害(その多くは 犯罪)や産業スパイ、乗っ取り工作を本格的に受ける。 その後、路上で複数回暴行を受けるなどして、会社の事業活動が出 来なくなる。2009年 私の方が逆に犯罪者扱いされ、警視庁池上警察署に逮捕され、送 検された。2010年 生活費が底をつき、集団ストーカなどによって、餓死寸前の状態 まで追い込まれる。不動産略取(4000万円相当)に遭い、会社の本 店登記地の土地家屋を失う。2011年 飯能警察に不当逮捕され、統合失調症をでっち上げられる。 飯能の実家で土づくりをするなど完全有機の家庭菜園に取り組む。2012年 主に2007年からの集団ストーカーや政財界からの攻撃を受け、ア メリカが背後にいる悪のネットワークが日本に存在することを知 り、私が知った事実を公表するために、ブロブ「民主議市民」の 前身となるブログを立ち上げ、現在に至る。 豊島区南池袋の父が所有するマンションに移り住む。2013年-2015年 ブログで日本の闇の真相を書き、BCIの中での精神戦争を 戦っているといていると、統合失調症の急性期であることをでっ ち上げられ2回強制入院させられる。 この頃からBCIにおける精神戦争で勝ち始め、誤情報も多いが闇の 情報が入り始める。2016年 父が私の預金を着服し、生活が出来なく立ったために日雇い労働 者となる。2017年 雇止めに遭い、生活保護による生活を送ることとなる。2018年 豊島区西池袋4-30-11矢本ハウス102に転居。10年ぶりに静かな環 境の中で生活できるようになる。2019年 訪問看護師、豊島区の職員(福祉事務所)、妹、大家が攻撃的に なり、3月暴れていることを再び出ってあげられ、住居不法侵入 を受け暴行を加えられたのちに拉致監禁され東京武蔵野病院に 強制入院。2020年 十数年ぶりに実業家時代の経営者仲間にメールを書くと、政財界 人が私を殺害しようとしていることが明確に判明。2021年 主治医(4週に1回)や訪問看護師(週2回)に、統合失調症に関す る所見を毎回聞いているが、所見はないという回答が続いている。
テーマ: ニュース・政策批判
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