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・昭和29年2月28日朝8時15分八戸市に誕生(1954年)・幼少時は極めて虚弱、月のうち3分の2は蒲団の中で過ごす。・外で遊ぶと熱を出すことが多かったため、自然に本の虫となる。・親が「忙しいから、ちょっとここで座ってて」と言うと、半日でも黙って座っている子であった。・小学校に入り、少しずつ少しずつ丈夫に。 だが、季節の変わり目にはよく熱を出していた。・二年生の時、友人と二人で、当時流行っていた「スーダラ節」を、植木等の振りを真似ながら歌っていて担任に注意される。 思えばこれが”笑い”の世界に興味を抱き始めた頃で「シャボン玉ホリデー」と「クレイジーキャッツ」が大きな二本の柱となっていく。・植木等(クレイジーキャッツ)の映画には父親がよく連れて行ってくれた。・中学二年、テレビ・ラジオで演芸ブーム到来。 この前死んだ三遊亭円楽、月の家円鏡、桂歌丸、三遊亭小円遊など、若手の落語家達が毎日のように電波に。 同級生が落語のネタ本を買ってきて、それを借りて読み、大いに興味を持つ。・以前からお笑いに興味はあったが、コント・漫才・講談等で、落語にそそられたのは、この時が初めてであった。・ネタ本を読み、テレビ・ラジオで見たり聴いたりしているうちに自分でも喋ってみたくなり、同級生と職員室に行き、担任に「学活の時間に落語をやらせてくれ」と直訴。 快諾を得、教壇の上に座ってやったのが「代書屋」。ラジオで一回聴いただけで覚えた噺。上下(カミシモ)も手の振りも全く分からず喋ったがバカウケ。 この時担任が「駄目だ」と言っていたらどうなっていたか。恩人である。 しかし、この先生はもうこの世にいない。・昭和44年、高校入学。当然のように落語研究会へ。 演芸ブームにのって、当時、全国の高校・大学に落語研究会(オチケン)ができ、青森県にもあった。 八戸高校・青森東高校・弘前大学の三校。 入部した時、一年生は私だけ。二年生ゼロ、三年生二人。そりゃそうです。八戸で落語をやろうなんて変わり者。そうそういるわけがない。 でも、好きな落語を部活動としてできるんだから、一所懸命やりましたよ。ただ、先輩から指導を受けたという記憶はほとんどなし。もっぱらテレビで噺家さんが喋るのを見て研鑚をつむ。・八戸高校では年に一度「芸能祭」というのがあって、今はない市民会館で一日二回の興行。 演劇・ブラスバンド、いわゆる文化系サークルの発表の場。一回目は生徒達、二回目は保護者に見せる。 一年生で出場。ネタは「長短」。これは今も時々高座にかけている。二歳上のイトコがこれを見てビックリ仰天。ところが、二年三年の芸能祭の記憶がない。出たのか、出なかったのか。・三年になって下級生部員も増え、秋に、RABラジオの県内の高校をまわって紹介する番組が八戸高校に来ることになり、その中で落語をやってくれと依頼が。ラジオデビュー。・反響がありました。特に親戚からは「あのおとなしいものをしゃべらない子が落語をラジオでやるとは」と、あきれてるんだか、驚いてるんだか分からない声が多数。・学校の中でも、知らないうちに有名になってた様で、後年、何かの集まりでよく「同期の○△だけど、しばらく」と言われるのだけれど、こっちは全く覚えていない。「俺(私)のこと覚えてない?」と言われたら、「覚えてない」と冷たく言い放つ。相手のガッカリした顔を見るのが楽しみ。 だって、本当に覚えていないのだから。・高校三年の夏休み前の「八高祭」。前半はクラス対抗のスポーツ大会。中日に芸能フェスティバル、最終日に大運動会と仮装行列。一応全部軍対抗。 中日の芸能フェスでは、”浦島太郎”を現代風にアレンジ。出演者全員男子。体育会系のムクツケキ男達に、腰ミノ・ブラジャーをつけさせてフラダンスをやらせたり、美形の男子に乙姫様をやらせたり(衣装は女生徒に協力・作成してもらった)、圧倒的勝利。 仮装行列では歴史上の人物を駄洒落で紹介、{下痢気味のヒトラーがトイレのドアを足踏みしながらあわただしくノック、『入る、ヒトラー』 など十数人} 、ブッチ切りで最優秀。・さて、人並みに大学へ行こうと思い立つ。 三年のクラスは私立文科系のカスクラス。行ける大学は限定される。どこでもいい、東京の大学でオチケンがあれば。 で、運良くスベリ込んだのが東洋大学。早くオチケンに入りたくて、上京が待ち遠しかったですなぁ。・オリエンテーション初日に入部。出身をきかれ「青森県八戸市」と答えると、目を丸くされた。そりゃそうだ。あの頃は今時のコと違って、八戸弁で話したんだから。(日常会話を標準語でできるようになったのは五月の連休が過ぎてから)・東洋大のオチケン、高校時代の経験は関係なし。新入生はまず、落語の基礎になる小噺を十六、覚えさせられる。どうってこたぁなかったね。ただ、初めて上下・手の動かし方・視線の決め方などを教わっていちいち納得。これがまた嬉しい。そうでしょ、覚えることで自分がまた上手くなると思えるんだから。・五月の連休は春合宿。 十六の小噺の総ざらい。 ちゃんとできるまで正座はくずせず。 (ちゃんと出来ても、先輩達は何度もやらせるのです。「うん、今のは良かったよ。今の感じでもう一回」こんなことが延々と) おかげでその小噺は今でもちゃんとできますよ。・東洋大のオチケンはレベル高かった。もちろん全員が上手かったわけではない。中にはどうにもこうにもならない下手くそな先輩もいたが、上手い人はびっくりする程上手い。同期の中では一人。やっぱり高校の時からやってた東京の奴、あとは数段下。でも”俺の方が上手い”なんて思っててもそんなそぶりは少しも見せず、と言いたいが、見せました。 みんな俺達二人は別って感じで話してたから。 中に一人だけ、兵庫から来たのがやたらと私に突っかかってきて。素直に自分の下手さを認めればいいのに、あーでもない、こーでもないとうるさくてしょうがない。いつかどこかでグーの音も出ないようにしてやろうと思って、三年の夏合宿で後輩が持ってきたボクシングのグローブを使って、みんなでシャレでボクシングをやったんだけど、そいつとやったときは思いっきり殴り倒してやりました。・二年になる時から、オチケンと並行して丸の内の東宝系ロードショー館でアルバイト。四年にかけて映画見ましたねぇ。バイトしてると東宝系の映画館はタダで入れてもらえるし、招待券や試写会の券はもらえるし、名画座も近くにあるし、封切作品・リバイバル・東映・松竹・ピンク・・・ほんとによく見た。 十条って街に住んでたのだけど、そこに銀杏座という場末の映画館があって、日活のロマンポルノと独立系のピンク映画が週替わりでかかる。そこで出会ったのが山本晋也監督の作品。これはオチケンのメンバーにウケまくり。後々知ったことだが、山本晋也監督、大の落語ファン。どっかで通じるものがあったのかな。・オチケンで代々受け継がれてきた風習の一つに、一緒に電車に乗っていたら、先に降りる奴は、電車に残っている奴(特に後輩)に大きな声で「オ●ンコ」と言う。ってのがあって、これは参ったね。警戒しているときは外から名前を呼ばれても知らんぷりできるのだけど、つい無警戒になるときがあって、つい呼ばれて返事をすると「オ●ンコ」。 車内の一般客からは蔑んだ眼で見られるし、恥ずかしいし。 それで怒ったりしたら「あいつはシャレが通じねぇ」で相手にされなくなるから。 後輩にやったかって? そりゃやりましたよ。Qプロフィール 第2部さて、この辺でちょっと話題を変えて、芸名のことを・・・・芸名といってもプロじゃないんで、大それたことは言わないけど、まぁ高座名ですね。 一応座布団に座って一席うかがうわけで、まさか本名ってわけにはいかない。そこで高座名。・高校の時は、一年時は忘れた。 大した名前じゃなかったってことだ。二年からは先輩の使ってた、「好色亭痴漢目」つまんねぇ名前だね。 大学ではオチケンに入部して、空いてる名前の中から自分で選ぶ。いろいろありました。「欲家小指人(ほしいやこいびと)」「美麿家美男子(みろやびいなす)」「新品亭喜怒(しんしなていきっど)」「煙草家金圓(たばこやきんえん)」女子には「幸多家緋奈菊(さいたやひなぎく)」「曽緋家楼恋(そひやろうれん)」「藍紫亭星稲(あいしてほしいな)」などなど。 その中から私が選んだのは、「三日坊舞笑(みっかぼうぶしょう)」これまた面白くも何ともない名前。そのうちいいのを自分で考えようと思っていた。・その年の暮れだったか、年が明けてからだったか、四年で私を可愛がってくれてた福島出身の先輩(この人上手かったんだ)から「お前、俺の名前、ついでくんねー?」と打診。その先輩の名前は、「尾浪家千鶴」 何て読むか? オナミヤセンガク意味は?特になし。そんなわけない。 「この名前よー、誰もついでくんねーんだよ」「どうしてですか?」「どうしてかねー、みんなイヤだっつーんだよ。もっともこの名前、先輩が考えて、誰かこれ名乗る奴いないか?って聞かれたとき、誰も手ェ上げねーから俺が使うことになったんだけどよ」そりゃまぁね、本当の読み方きけば、手は上げずらい。 何て読むかって? 「オナミヤセンガク」は表向き。実は、裏の読み方があって「オナニヤセンズリ」 が正しい。 なんで“浪”が“ナニ”と読むかって?「浪花」=“ナニワ”でしょ。ちょっと苦しいけど。もちろん喜んでその名前頂戴しました。 二代目です。・高座では堂々と「二代目オナニヤセンズリです。」と叫び、他大学の学園祭に行っても「オナニヤセンズリです」 他大学のオチケンからは「センズリさん」「センズリさん」と呼ばれて、一部で有名に。・この後、一級下に「尾浪家真四鶴(オナニヤマスカク)」二級下に「尾浪家直鶴(オナニヤスグカク)」「尾浪家三鶴(オナニヤサスル)」これで、尾浪家一家勢揃い。・大学OBになってからもずっと尾浪家千鶴。 えー、アタシの後ですか? 残念ながら誰もついでくれず、留め名(永久欠番)になってしまった。二代目が偉大すぎたからってことだナ。・落語の名前は尾浪家千鶴だけど、もう一つの芸名「大地 球」について。 よく間違えられるのは、大地球(大きい地球)。違うよ、ダイチ・キュー。・もう18年も前のこと、FM青森で番組を持つことになった。勤めてるとこがスポンサーになって作る、土曜の朝9時からの番組。パーソナリティーですよ。ちょっと信じられなかったね。私の中でパーソナリティーと言えば、こないだ亡くなった野沢那智や、“ジェットストリーム”の城達也ってイメージだったから。いくらシャベリが得意だからって素人がいきなり番組で喋っていいのかな?と思ったね。でもそこは図々しいというのか、何も考えないってのかノーテンキっていうか、引き受けるんだ簡単に。 一つだけひっかかったのが、名前。いくら勤めてる会社の番組とはいえ、本名じゃまずいと思ったね。なにしろ、この辺の人達は料簡の狭い人が多いから、「アイツは何をしてるんだ」だの「イイ気になってる」だの変な言いがかりをつけられるおそれがあったから。いやー結構いるんだ、そーいう連中。ヤッカミだか何だか知らないけど。・で、まぁ名前を考えようってことになって、まさかオナニヤセンズリで出るわけにもいかない。高校・大学・その後と友人達は私を「キュー」って呼んでいた。これは本名からきてるんだけど。だからこの「キュー」は使おうと思った。上をどうしようってことになって、いろいろ考えたよ。「千乗キュー(せんのりきゅう)」「大場キュー(オバキュー)」だの。でも、どっかからクレーム来そうだよって言われて、また考えた。吸った揉んだして、「大地 球」で決まり。これは、第一球です。“プレイボール”の第一球。 投手が第一球を投げないと、ゲームは始まらない。ラジオのレギュラーも初、パーソナリティーも初、だから新たな気持ちで、第一球→ダイイッキュー→ダイイチキュー→ダイチキュー→大地 球 になった訳。・その名前、当初は番組は一年で終わる予定だったから、一年間限定のつもりだったのが、今に至るまで使い続けるとは思いもよらず。番組も結局14年ぐらい続いたんじゃないか。“続いたんじゃないか”ってひとごとみたいに書いたのは、途中で降ろされたから。(その経緯についてはいずれまた)・ただ、番組の中でかなり毒を吐いていたせいもあってか、それを面白がってたリスナーもだいぶいたらしい。・振り返ってみると、大地 球 名乗ってからの活動もけっこう長くなってるね。・今じゃすっかり「キューさん」が定着しちゃって、私の回りの老若男女みんな「キューさん」て呼んでくれる。嬉しいこってす。・“大地 球” の名前で落語やるようになるとは思っていなかった。本来なら落語は“尾浪家千鶴” その他は“大地 球”にするのがいいんだろうけどネ。
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