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東京都板橋区大山町の商店街の中で、音楽教室をしております。初心者向けの、先ずは楽しく弾いてみる事で、達成感を味わって頂きます。弾きたい曲を、レベルに合わせてアレンジ致します。子どもは、アニメ、ジブリ、ディズニーなどの曲、大人は思い出の映画の曲、若かりし頃の懐かしい曲を、今までアレンジして来ました。心理学も使いながらレッスンしていきますので、きっと新しいあなたに出会えます。これからは、弾き歌いも始めました。☆彡古川まさえの人生歴史☆彡◆幼少の頃〜パー子◆神奈川県相模原市で生まれの一人っ子。3歳で静岡県の三島市の近くの社宅に転勤。のんびりした社宅の子ども社会の中でやんちゃな子どもだった。風呂敷を首に巻いて、男子と塀から飛び降りていた。パーマン(アニメ)ごっこで私はパー子。男子たちとミミズをバケツに集めて、女の子に掛けて泣かせてしまった事もある。3歳でお絵描き教室に通い、毎日行きたいと駄々をこね、2学期から幼稚園の年少組に編入。かけっこで一等で走ってゴール直前、振り向いて次の子が来るのを待って二番手でゴール。親は歯がゆかったらしいが、多分、自己肯定感が低くて自信が持てず、人の後について行ったのではないか?と思う。幼稚園の放課後で、出張して来ていたヤマハオルガン教室と出会う。程なくカワイのエレクトーンを買って貰って、未だ子どもの生徒がほとんど居ない個人のエレクトーンレッスンに、遠い音楽教室まで通うようになる。ピアノのつもりが何故エレクトーンになったのか、何故ヤマハではなくカワイだったのか、全く記憶にない。母に聞くと、おまけのアイスクリームに釣られたとか?レッスンは楽しかったと言うより、足で弾くベースが全然届かないちびっ子のわたしに、男の先生は立って弾いてでもベースを弾く様に指導していたので、結構しんどかった( ;∀;)子どもを教えた事のない先生だったのも理由だと思う。バスと電車を乗り継いで通っていて、レッスンが19時頃で、道中わたしは殆ど寝ていたので、母の根気良さのお陰で今のわたしがあると感謝している。お稽古ごとは、親の根気強いサポートがあっての上に成り立つと思う。母が諦めていたら今のわたしは無いと思うので、母にちゃんと愛されていたのだと、今更ながらに気が付く。生徒ちゃん達にも、そういうお話をしている。◆小学生〜周りに馴染めず◆一年生で東北に転校。小学校時代は音楽に尽きたと言える。仙台市で一番古い小学校で、担任の先生もクラスメイトも方言が強くて何を話しているのか分からない異国への転校状態。当然、友だちも居らず、内向的な暗い子になる。家では、母が彫刻を習いながら教室を始めて時間に追われてイライラしていた。掛け算が出来ないと、30センチ定規でぶたれたり、怖いから隠し事をすると、また髪を引っ張ったりぶたれたりと、ヒステリックな母の記憶が多い。人前ではにこやかに優しい母を演じているのに、どちらが本当の母なのか分からなかった。学校のクラスでは、とても田舎のヒエラルキーがあった。運動やお勉強が突き抜けて優秀な子、美人さんはその外に居られた中程度から下は、地主の娘二人(おバカでおブスと子供ながらに思った)に毎日誰を仲間外れにするかを命令するような世界で、それに反発することで、また無視や虐めに合うクラスが3,4年生。理不尽だったが、子どもの世界を肌で知った事で、自分の子育てや生徒ちゃん達の学校生活にも気配りが出来た事は、良い経験だったと思う。エレクトーン教室が逃げ場そんな中、わたしのエレクトーンの先生は結婚したりで3人の先生に習ったが、唯一の心の逃げ場であり、居場所であった。そして練習している時は、母のヒステリーからも逃れられた。絵や書道はやめても、音楽だけは続けていたのは、救いと言える。5年生になって待望のクラス替え。音楽は専任の先生になる。母と同年代で子どもが居ない先生は、わたしをとても可愛がってくださった。個人的に演奏会にも一緒に行った。先生もエレクトーンを弾く方で、学校にも楽器があった。当時、エレクトーンを習っている子どもはとても少なくて、全校集会や運動会、学芸会の度に、校庭や体育館の舞台上にエレクトーンを置いて、わたしに演奏する機会をくださった。休み時間でも音楽室によく遊びに行った。スカートが素敵ね、など、とにかく何でも褒めて頂き、唯一わたしを認めて貰える、自己肯定感を上げて貰える存在だった。6年生の最後にも、卒業生の演奏会なるものを作ってくださり、そのころには周りから一目置かれるまでになっていた。そしてテレビ局から電話があり、ローカルな子ども向けの一週間番組に出演。一曲演奏。音楽の先生も、当時のレッスンの先生もとても喜んでくださった。(仙台放送)中学生〜母娘の2人暮らし中学に上がって直ぐに父が東京に転勤。1年間だけ母と二人の東北生活。母の仕事関係も理由かもしれないが、わたしに1年間でカワイのグレードを取らせて、東京でも次に繋がるようにと配慮してくれたと聞いている。カワイのエレクトーン6級を取り、更に今までカワイのエレクトーンだったのを、当時発売されたばかりのヤマハの一番高級な120万円のエレクトーンを買って貰った。母なりに、東京ならヤマハが大きいだろう事と、持っている楽器で良い講師の先生に習えるチャンスがあるだろうと、考えてくれたと聞いている。感謝。余談。当時いたところは本当に田舎で、このエレクトーンを買って居たのは、医者と地主。わたしが3人目で会社員は初めてだと言われた。母の作品を頭金にしたと聞いている。感謝。2年生で、住まいは千葉県の稲毛と言う東京湾埋め立て団地。学校では、とても面倒見の良い女子が友だちになってくれて、一気にクラス外にも友人が広がった。東北の小中学校と違って、みんな明るい。都内からの転校生ばかりで、フランクなクラスメイトのお陰で明るくなる。レッスンは、いきなり銀座のヤマハ本店の側の教室。ジャズとボサノバが好きな先生で、即興演奏の楽しさを知った。何をやっても良いんじゃない?と認めて頂けたお陰で、中学3年生で、楽々ヤマハの演奏グレード5級取得。3年生に上がる時に、千葉県の北部、我孫子市(ちばらぎ県)に一軒家購入で引っ越し。また古い小さな町で、女子はグループ有りき、ちょっと暗い1年間。母は、仲良くする友人を選別したり、感化されて自分の意思を持つ事をとても嫌った。転校を繰り返す内に、勉強はかなり出来る方に入るのに、英語だけが平均点より上がらない。それをクリアできたのは、親友との出会い。英語の時間に、一人ずつ英語の歌(グリーンスリーブスという失恋の歌)を歌うテストがあり、舞台慣れしているわたしは緊張もせず音程も正しく歌えて、英語の先生に気に入られ、親友のアドバイスでぐんぐん英語の点数があがった。暗いイメージの土地ではあったが、自分の価値が少しずつ上がった。つまり、家庭科以外は優秀になれた(笑)高校生〜音楽三昧音楽の学校へ進学することを親子で考えていたので、学力より近い学校に進学。一つランクを落としたことで余裕があり、3年間クラスでは1番の成績。男子とバンドを組んでドラム担当。当時ファンクラブに入っていたKISSと言うハードロックを音楽の時間に演奏。ヤマハでは、コンクールで入賞するためのセミナーや、楽典などの勉強のセミナーなど、レッスン以外に2日から3日も銀座、浜松町、目黒のセンターに通う。毎年、秋のコンクール前には、財団目黒の地下にあるレコード部屋で曲を選び、耳コピ、アレンジ、ドラム譜書き、と音楽三昧。学校では、合唱コンクールでの伴奏者が居ないクラスだったので、わたしが担当。クラス仲が良く、ノリノリの延長で、楽譜が出ていない曲を選らんだ為に、わたしが混声5部合唱に編曲。入賞。文化祭でもクラスで人生を合唱で表現するプログラムで出演。反響が大きく、賞を頂く。実は、和声を一度習っただけで、滅茶苦茶な編曲だったと思う。3年生の夏〜受験武蔵野音大か洗足学園の短大、若しくは尚美音楽学園という進学を考えていた母と、尚美の高校生向けの講義を受けた。尚美はヤマハと繋がっているためか、師事している先生方の名前やセミナーの名前を書いただけで、演奏を聴くことなく合格の内示を貰った。それから何を思ったか、母は「保育の資格の短大か、英語の短大」のどちらかの選択を迫り、なんと英文科を受験することに方向転換。取っ組み合いの喧嘩をしても、ノミやカンナを使う母の腕と音楽ばかりのわたしの腕では勝負にならず、いつも惨敗。学校の担任と母で受験校を決め、わたしはアメリカ帰りの英語の先生に特訓を受けて、推薦枠で筆記と面接の受験で、英文科へ。英文科進学せっかくなので、一般学生の生活をエンジョイする事と、英語の教員免許は取った。サークルで社交ダンスに入り、弾いてきた曲を踊るという体験が楽しかった。音楽って演奏ばかりではないと知る。1年目は、地元の楽器店で出張レッスンのアルバイト。小学生6人と出会い、子どもたちに人気があることを知る。一人っ子で転勤族なので、子どもと接する機会がなかったから、新鮮だった。2年目は、教育実習と、エレクトーンの演奏グレード4級取得、運転免許と、寿司屋とマクドナルドでアルバイト。進学と同時に、ヤマハではトップの恩師に代わり、最初はビビりまくっていた。グレードテストの前のレッスンでは、試験管の目で睨まれるし、褒められることは皆無の緊張レッスンだった。学校では、音楽に関係ない友人との関係で、偏らない学生で居られたと思う。アルバイトでは、高校生や主婦との出会いで、色々な背景の色々な人を知った。あのまま尚美で、音楽ばかりの時間の中にいたら、広がらなかった見分もあると思った。留学を何度もして、高校ではいじめの経験もある友人との出会いは、今でも濃く続いている。わたしが音楽を平行していたように、彼女はイラストレーターになる夢を追いかけていた。そこにもちゃんと英語を取り入れて、他の人との違いを見せている姿は、いつも憧れであり、わたしも英語と音楽をコラボさせたいと考えるようになった。社会人、ピアノは続け・・・ちょうとバブルの直前で景気が良かったせいもあり、短大が先ず企業に就職することを勧めたので、父の助言もあって企業に就職。海外営業に配属され、残業で23時、土曜も出勤、という練習不足の時に、わたしの恩師が輸入盤の楽譜を勧めた。譜面が簡単だったことにショック。練習時間が無い事でモチベーションが下がっているのを見抜かれていたと気づき、発奮。しかし、さすが師匠。表現力をとても求められる曲集だった。この時に、この恩師に一生ついていこうと決める。その後、仕事でも来日した外国人セレブの奥様や、ご本人を都内観光の案内をするうちに、音楽の話で盛り上がって、帰国後CDを送って頂いた事もある。どこにいても音楽はわたしの一部であり、英語でのコミュニケーションでも音楽が生かされている、そして誰とでもどのチャンネルでも話せる豊かさは、長年の音楽人生からの賜物だと感じた。音楽教室へ転職ヤマハのシステム講師の年齢制限25歳ギリギリで、試験を受けて転職。外国人とのコミュニケーション力を買われて、ヤマハでも海外拠点からの来日研修生のアテンドに同行。また、英語での幼児科の教材作りにも関わる。システム講師として茨城県の南部の教室に配属された。ママさんグループと小学5年生の生徒さんが、コンクールの県大会で銀賞を獲る。また、恩師の演奏会では舞台サポートをする。(舞台に上がり、月間エレクトーンに小さく載った)。その頃、ヤマハの海外派遣の話も頂いて夢膨らむも、母が手元に置きたがったのと結婚を強く望んだ事から、結婚。結婚・出産結婚して半年で、切迫流産になり入院。仕方なく、ご理解頂いて退職。何人ものお母さま、大人の生徒さんから励ましの言葉を頂き、有難かった。当時は、産休は半年なので、この時点では退職しか無かった。一人、22歳の生徒さんが、茨城県からわたしの自宅(東京都府中市)まで毎週、通って来て下さった。カリフラワーを「ホワイトブロッコリー」と言うほどの料理音痴だったので、栄養科出身のその生徒さんに、レッスン後、料理を手伝って頂いた。2年後に二人目を出産し、ほぼワンオペだったため、完全に主婦生活。その頃、夫の実家を改築して頂き、同居。ベビーシッターを雇って、ヤマハの指導グレード4級の勉強に通い、無事取得。その数年後にピアノ演奏グレードを取得。ママ友が、レッスンに来てくれるようになり、久しぶりに指導に復帰。子どもが二人とも小学校に上がって、恩師の紹介で出張レッスンを始めた。兄弟、従妹、ママと、だんだん生徒数が増えて有難かった。そこへ、自宅の生徒さんから合唱の伴奏を頼まれ、月2回、少し料金を頂いて伴奏を始めた。ミュージカル、民族曲、クラシック、ジャズと多様なジャンルの曲に触れた。ドラムも習って、充実した音楽ライフの復活。育児、家事は100%わたし。毎週末の義両親との会食の支度もわたし。そこに、末期がんで余命半年と宣告された舅が、1ヶ月間帰宅した時の看護師と同等のケアも、一人で負う。更に、ショックから認知症になってしまった姑の世話もわたし一人で負う。病魔と戦う2003年の春から拒食症になり、かなり大きい塊が胸部に現れた。8月、病院を選んでのセカンドオピニオンで、乳がんⅢ期と発覚。抗がん剤の治療の闘いが始まるが、姑の介護と、伴奏や出張レッスンと言った私生活は変わらなかった。2004年春、片方の全摘出の手術のタイミングで、仕事は全て引退。体力と筋力が著しく落ち、また免疫力も落ちてしまってほぼ在宅。再び音楽の世界へ息子の中学卒業のイベントで、BGMを選ぶ際に、気に入ったアレンジのCDが見つからず、一曲だけ自分でピアノを演奏しCDに録音。学校中で聴いて頂けたのは嬉しかった。NOVA英会話学校に通ううち、数人のオーストラリア人講師と仲良くなり、我が家にギターを持って来てセッションしたり、英語でピアノのレッスンをしたり、異文化交流での音楽とピアノの楽しみ方を知る。英語でのレッスンを、いつかしたいと強く思うようになる。子どもたちのピアノについては、上の娘は殆ど自分では教えず、ヤマハや友人、最後には東京音大付属高校の講師の先生にお願いしたが、指の練習ばかりのテキストに飽きてしまい、挫折。息子は、少しだけ友人にお願いしたが、クラシック好きな彼に合う見開きピアノ初心者テキストで、わたしが教えた。姑の葬儀が終わった日、一人でモーツァルトのアベベルムコルプスをレクイエムの様にピアノで弾いて捧げた。長い介護をして来たけれど、姑はわたしを信頼してくれていたので、長い人生からの旅立ちを、静かにピアノの音色で送り出せた気持ちになれた。ピアノが弾けて良かったと思った。その後は、レッスンなどの仕事としてのピアノは遠ざかっていたが、7年後、なんと東京に引っ越してから再開。引っ越しを機に、防音が出来ない事、家が半分の広さになった事、狭小地区で隣家との距離が近い事から、ドラムやエレクトーンは手放したが、グランドピアノだけは連れて行った。10年近く遊びでしか弾かなかったピアノを弾くためにハイブリッドピアノを購入。迸るような飢餓感から演奏の楽しさに没頭するうち、ハイブリッドピアノを使ったらレッスンを再開出来るかも?と、チラシを門に置く。持てるもの全てを注ぐ最初に大人、そして近所の小学2年生、更に新宿から友人が電車に乗って来てくれる様になって、持てるものを全て注ぐ気持ちで2年。小学生の子だけが残ってくれた中、コロナで旅行が出来ないからそのお金でレッスンと楽器を買いたい、との理由で大人の生徒が来てくれ、クラビノーバも買って、半年経った今は、もうかなり読譜と演奏が出来るようになってくれた。小学生の子は、ディズニーやジブリの曲を弾きたいと言う時には、簡単にアレンジし、流行りのアニメの曲も耳コピ&アレンジで、初中級でも楽しんで貰える事を特徴にして来た。大人の生徒も、家族のリクエストを弾きたいからアレンジして欲しいと言って頂き、なるべく「技術的に無理」と諦めさせたくないとの信念で生徒さんと向き合っている。4月から通ってくれている男の子は、なんと週3日も通ってくれて、先日、とても高額なピアノを銀座で購入。ちょっと乱暴な弾き方なのだけれど、不器用なだけなので、根気強く毎回一緒に弾くうちに、半年経った今では、綺麗な音を出せるようになったし、家での練習もして来るようになった。是非、続けて欲しいと思う。音符は外国語、みんなバイリンガル音符は言語だといつも話しているので、音楽の国の言葉を読んで歌って書いているから、もうバイリンガルだね、と言っている。こんなに早く外国語を習得できるのは、とても素晴らしい能力だと生徒と一緒に喜んでいる。生徒さんを見ていて感じるのは、とても脳の神経の繋がりが増えたと思える事。暗譜を宿題にしたことは無いのだが、殆ど覚えて来てくれる。わたしと同世代の大人の生徒は、当初「もの忘れが酷い」と話していたのに、必ず暗譜してくる。これは、認知能力が確実に向上している証拠だと確信している。そして大人にも子どもにも言えるのは、演奏している場所を見ずに少し先を読みながら演奏する事で、先を予想しながら読む先読みの能力も身に付いて来ていると思う。好きな曲、弾きたい曲、誰かにプレゼントしたい曲を自分のレベルで弾ける事は、自分自身をも癒し、自分に自信を持って貰って自己肯定感をアップしてくれる、とても大いなる力を持っているので、ピアノのレッスンは、単に楽器を弾くだけには留まらない。その人や、周りの人を幸せにするし、潜在能力を引き出してくれると信じてやまない。今の生徒たちから、自己肯定感を上げてくださるというプレゼントを頂いている。子どもたちには、どんな人生に進もうとも、自分を認めてあげられるようになって自信を持って生きていけると思う。そのお手伝いをさせて頂いているピアノ講師としてのわたしは、幸せです。生徒さんの学校板橋区立第六小学校板橋区立第七小学校板橋区立第十小学校板橋区立弥生小学校板橋区立第一中学校板橋区立第二中学校豊島区立池袋小学校豊島区立高松小学校豊島区立池袋中学校淑徳小学校淑徳中学校 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