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昭和30年代前半の大寒のころ、富山県西砺波郡福光町(現在の南砺市)に生まれる。幼いころ、打ちどころがもう1センチ上だったら、この世に存在しないといわれたケガをする(しばらく意識不明だったそうです。)。時あたかも、曽祖父の死に直面したころでした。そのころからでしょうか、人の「生と死」を考える子どもだったようです。祖母の横で、お経を暗記する子どもでした。また、高1の時、母の知人でお寺の坊守さんが入学祝いということで、「歎異抄」をもって見えられました。思わず、「K先生、実はもう読んじゃったんです。」と申し上げましたら、びっくりされていらっしゃいました。そんなこともあってか、多くの方から「求道心」がある、という風に言われます。本好きは祖父の影響を受けたもの。保育園児のころ、当日、帰り際にいただいた月刊誌を、迎えに来てくれる祖母がくるまでに、読み切ってしまうくらいでした。本との出会いが「一期一会」であることを祖父に教わりました。生まれてこの方、「勉強しているところを見たことない。」と、母によく言われます。生前、父には「勉強しなさい。」と言われたことはありませんでした。言ってもやらない性格であることを、見抜かれておりました。本だけは、よく読んでおりました。大学時代、倍率が9倍・合格者6名(その年だけ4次試験までありました。)というゼミの入室試験を突破。無名校でも全国的に有名な学校の人間に勝てると自信が持てました。大学入試当日に、父を労災事故でなくし、無理だといわれた金融機関(地方銀行)をダメもとで受検し、母校始まって以来の有名校出身者を凌駕する成績で合格。本人が一番驚きました。何事も挑戦しないで、ダメだというのは、アカン、と悟りました(遅いですねえ、悟ったの。)。50代になってしばらくしたころ、稀有な病気を稀有な場所に発症。左下肢が不自由、そして24時間年中無休の痺れ等とともに生活しています。その前には、大きな出来事に巻き込まれ、人の見えない部分を垣間見ました。そうしたときに思ったのが、「生かされていることへの感謝。」。生きたかった人生を生ききれなかった父の分まで生きたいと思いました。「一日一生」、という言葉を改めて、かみしめました。これから書こうとするブログは、自分が生きていた証を残したい、という想いで書かせていただこうというものです。とんがったことも書くかもしれませんが、よろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。<追記>2023年1月、地方銀行から転籍した関係会社も退職し、今は、母校の通信課程の3年に編入し、再来年の3月卒業を目指しています。二度にわたるリハビリ入院。二度目は、かつて勤務した札幌に渡り、背中を切開しての腫瘍除去、そして富山へ戻ってのリハビリ生活(約半年にわたる入院生活は長かった)。手術日前後を除き、ブログは書き続けています。三日坊主と言われた私が続けています。当初は杖利用と右足装具で歩けましたが、この3月あたりから、時折、しびれが起きる程度だった右下肢に力の入らなくなることが多くなったことをきっかけに、車イスでの外出が多くなりました。家族に駅へ送ってもらったり、タクシーを利用したりしながら、外の空気を吸うようにしています。9月には「要介護1」の認定も受けました。8月の母校での夏期スクーリングも通信教育部と1カ月以上に渡り、粘り強く交渉、受講できました。その折に、大学の先輩や後輩とリアルで会えたのが、嬉しかったですし、ある学部の先生とも直接お話することが叶いました。何時もあるのは、地方銀行を受検し、合格したときの「諦めない気持ち」。森信三先生の「人生二度なし」をいつも実感します。このことに気付いていらっしゃらない方が、意外と多いのではと思います。いろんなご縁を大切にし、過ごしてまいりたいと思います。幼いころ、人見知りで泣いてばかりの自分が、今では、お声がけをさせていただく変貌ぶり。地方銀行時代、関係会社時代も周囲からは「とても、人見知りだったとは思えん」とよく言われました。過去、未来とはよく言います。でも過ぎ去った日々も、その時は、「今」だったのです。この<追記>と書き始めた時も、「今」だったのです。「今」を大切にしたいと考える、65歳にして飛び級で「後期高齢者」扱いになった私です。それでもどっこい生かさせていただいております。これまで、自分に起こった様々な出来事は、自分が成長するために、お天道さまと約束してきたこと。「ドラマみたいな人生ですね」とよく言われます。まだまだ、果たさねばならない人生の課題克服に向けて精進してまいりたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。(2023・11・7追記記す)
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