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持って生まれたファッションセンスを生かしてファッションのアドバイスと商品を紹介しています。流行りのファッションを着ているのに、周りから「ダサい」「おばちゃんに見える」「センス悪い」など評判が悪い。そんな経験をされていませんでしょうか?もしそんな経験をされていましたら、それは2つの理由があります。その2つとは、全体のバランスと色のバランスです。1つでもバランスが悪いと、周りからは変に見えてしまいます。何が悪いのか?どこを直すといいのか?それらを女性ファッション誌を使って書いて、おススメの商品を紹介しています。この他に、毒親からの心理的虐待30年とパワハラ20年受けた体験を生かして、20年かけて見つけた素直になる方法と独自の心理学で旦那ストレス・子育てストレス・ワンオペ家事・孤独感が消えない悩みを解消します。<毒親に受けた30年の心理的虐待とパワハラを受けた20年史>親の心理的虐待が始まったのは大体小学生の頃から。心理的虐待が強くなったのは中学生になってから。私は、男3人兄弟の末っ子。もともと小さい頃から親と会話をしたことがありません。その理由は、威厳が強かったから。そのため父が家にいると、みんな無言になりました。私は、そのストレスを学校で発散していました。だから通知表では、必ず備考欄に「落ち着きがない」と書かれていました。私は勉強ができず、5科目オール2。中間テスト、期末テストの結果を見せる度に怒鳴られていました。怒られるのは、いつも私だけ。長男が怒られる所は見たことがありません。次男は、たまに怒られる所を見たことはありますが、ほんの数回しかありません。母は、私があまりにも頭が悪いので、兄二人と比較したり友達と比較したりしました。この頃から私にはコンプレックスができ、勉強嫌いになりました。親は家は貧乏だから、必ず公立高校へ行けと言われました。兄2人は公立高校へ通うも、私は公立高校に落ち、滑り止めで受けていた私立高校に行くことになります。この時、父親に物凄く怒られます。父は、私のせいで大好きだったお酒を止めるようになり、当時3年生だった次男はお小遣いを減らされることになります。次男からは、「お前のせいで、俺の小遣いが減った」と言われました。私は、公立高校の試験に落ちたショックがありましたが、それに加えて父と兄の痛烈な言葉にかなりのダメージを受けました。そのため私の高校3年間は、罪悪感のかたまりになり苦しい3年間になりました。もともと頭が悪かったし勉強も嫌いだったので、高校は工業高校に行きました。ただ何かやりたいことがあって、工業高校に行った訳ではありませんでした。なので、高校3年生になってもやりたいことは見つからず、自分はどんな才能を持っているのかも分かりませんでした。私は今洋服が好きで、女性向けの男ウケファッションのブログを書いています。洋服のセンスがあると気づいたのは35歳頃でした。なぜ気づいたのかと言いますと、周りからよく「センスがある」と言われたことから、これってもしかして才能なのかなと思ったからでした。思い返してみると、洋服のセンスは小学生時代から持っていました。小学生の時から、洋服や靴を買う時にはこだわりを持っていました。しかし、その時に親に言われたのは「カッコつけ」でした。だから、その時はこれが才能だとは全く気付きませんでした。高校3年になっても、やりたいことは見つかりませんでした。そんな時にテレビで、自分の家を全て自分で作ったというのを見ました。この時に、自分の家を自分で作る。これっていいなと思い、大工になるための建築会社に行くことにしました。学校に来ていた求人先に、埼玉県にある大工を育成する建築会社があったので、そこに就職しました。高校卒業してそこに就職しましたが、3年で退職しました。理由は、どうやっても綺麗に上手くできなかったことと、のろまで遅かったことにありました。自分でも薄々気づいていましたが、指導者にも「お前向いてないよ、辞めた方がいいよ」と言われました。一緒に働く仲間には、ため息をつかれることもありました。そこから自分は足を引っ張てるだけだと思い、辞めることにしました。辞めた理由は、他にもありました。簡単に言うと、職場の上司を信用できなくなったことと、人間関係のトラブルでした。信用できなくなった理由は、人事の班体制にありました。当時、現場にはプレカット班、足場班、羽柄工場班プレカット工場班がありました。プレカット班、足場班、羽柄班は3か月おきに班が変わり、プレカット工場は6か月おきに班が変わりました。私は最初、プレカット工場になっていたため、6か月現場ではなく工場で仕事しました。6か月工場勤務が終わると、現場でのプレカット班になりました。プレカット班は3人体制になっており、3年生の現場主任と2年生、1年生という体制でした。ただ、その中に指導者が2人いて、指導者には1年生2人がつきました。私がプレカット班に入った時、同期の1年生は羽柄班工場を3か月終え、その指導者に2回連続で就いていました。私は、3か月技術は教えてもらえず雑用がメインになっていました。これは指導者のやり方で、同期の1年生も最初の3か月は雑用しかしていませんでした。なので、私も同期の1年生と同じ道を辿ると思っていました。しかし3か月が終了した時、私は足場班に配属になりました。人事の人数の関係でそうなったのですが、その時上司に言われたのは、「1回足場したらもうずっとプレカット班にするから」。だから私は、技術を覚えないまま我慢して足場班に行きました。ただ足場班を3か月終えた時は、私は2年生になっていました。つまり新しい1年生が入り、私は先輩という立場になっていました。私と同じ班になった3年生は、私の同期の間ではとても不評の人でした。不評の理由は、とにかく細かいということでした。私は、もともと大雑把な性格のせいもあるのですが、その先輩とは全く合いませんでした。本当に細かいことにうるさく、私はストレスになっていました。2か月目には、お互いに口も聞かない関係になっていました。その3か月は、本当に時間が長く感じました。ようやく3か月が経ち、班が変わりました。次の班では優しい先輩だったので、とてもやりやすい3か月でした。問題はその後でした。本来なら、次もプレカット班の予定でした。しかし、私はまた人事の人数の関係で足場班になりました。納得がいかなかったのは、同期の中にはまだ足場班に行ってない人が何人かいたことでした。私は人事によって、同期の中でもかなり遅れを取るようになりました。足場班を3か月した後には、私は3年生になっていました。3年生になってからは、私はプレカット班に戻りました。同じ班になったのは、同期の仲間と新しい1年生の3人体制でした。同期の仲間は、プレカット班では1、2位と言われる位仕事ができる人でした。ちなみにその彼は、足場班を1回行っただけで、あとはずっとプレカット班でした。彼は、本当に仕事が早くテキパキと動いていました。逆に私はというと、のんびりで仕事が遅い。尚且つ綺麗にできない。彼にとって私は不満になり、ストレスになっていきました。というのは報奨金制度とういうものがあり、これだけ売り上げを達成すると、これだけの報奨金がもらえるという制度がありました。私がいることで仕事が遅れます。そうすれば売り上げが減るので、報奨金がもらえません。だから彼は私に対して不満を持ち、ストレスになっていました。私としては、もともと家を自分で作る。技術を学ぶためにこの会社に入社しました。私の中では、売り上げとか報奨金とかどうでもいいという考えでした。しかし同期はみんな、報奨金をもらおうと頑張っていました。私は、仕事に対する考え方がみんなと違っていました。同じ班だった同期の彼は私に不満をぶつけるようになり、彼とは仲が悪くなっていきました。彼は、私への不満を同期の仲間に言っていました。そのため私は、同期の仲間とも仲が悪くなって距離を取るようになりました。私は、もう無理かなと家を作るという目標は諦め、この会社を退職することを決めました。辞めると決めたものの、次は何をしたいという目標がありませんでした。しかしだからと言って、この会社にいてももう目標が無いし、同期の仲間とも仲が悪いので孤立している。なので、とりあえず早くここを出たいという気持ちだけが強くありました。この時の私は人間不信になっていたこともあり、日本を離れて外国に行きたいという気持ちが強くなっていました。この時に思いついたのはイギリスでした。イギリスのことは何も知りません。ただ早く日本を離れたいという気持ちで、イギリスに行くことを決めました。退職前に、親に連絡しました。当然ですが、親は猛反対しました。次の転職先も決まっておらず、イギリスに目的なしで行こうとしているのですから。反対されることは分かっていましたし、理解されないことも分かっていました。ただ、私の中では何を言われても変わることはありませんでした。3年目の12月に退職し、イギリスに行きました。日本を離れれば何か光が見えてくるものはあるかなと思っていましたが、イギリスに行っても何も見えることはありませんでした。もともと目的なしで行っているので、ぶらぶらとしていただけですが。結局、金銭面の理由から2週間滞在して帰国しました。帰国してからは、転職先を探しました。この時、私は作家か作詞家になりたいと夢を持っていました。そこで、本屋に行って探し見つけたのは、ある応募雑誌でした。何をどういう風に書けばいいのか全く分かりませんでしたが、ここに応募しようと決めました。この時、住む場所が決まっていませんでいした。そのため私は、寮のある会社に転職しようと考えました。そこで見つけたのが、社長一人と社員一人の小さな工務店でした。この建築会社で、初日からパワハラを受けることになります。初日からパワハラを受けた原因は、寮にある布団のことでした。私は、布団は実家に預けていたので、布団が届くそれまで布団を借りるつもりでいました。しかし社長は、布団を買うと解釈していました。この食い違いから社長は、「お前買うって言ったじゃねえかよ!」とキレました。この時辞めればよかったのですが、寮のある会社はそんなになく探すのが大変で、金銭的にももうお金がなかったので我慢するしかありませんでした。私は仕事をしながら、作家になるための応募雑誌に出す原稿を書こうと思っていました。しかし休みは日曜のみで、仕事が終わるのはいつも22時過ぎでした。時給ではなく日給だったので、どんなに遅くまで仕事しても、お給料は変わりません。原稿を書く時間が全くありませんでした。しかも、パワハラがありました。本当に、小さいことでブチ切れる社長でした。最初は、私も負けまいと言い返していましたが、同じことを何回も繰り返すうちに私は疲れてしまい黙ってしまいました。結局、3か月で限界が来てしまい辞めました。会社を辞めて、私は近くのアパートに引っ越しをしました。この時お金がなかったので、親からお金を借りました。親は最終的にはお金を貸してくれましたが、最初は実家に戻ってこいと言っていました。私にとって実家は、罪悪感の塊に心理的虐待も受けていたので、戻りたくないという気持ちから拒否していました。アパートに引っ越してからは、日払いの仕事を始めました。日払いの仕事をしながら、応募雑誌に出すための原稿を書くつもりでいました。しかしその職場は、通勤に時間がかかったこともあり、仕事から戻ってくるのは22時頃。そのため、原稿を書けるのは休みの土日だけになっていました。仕事しながら、書きたいことがどんどん頭に思い浮かんでくる。しかし、書く時間がないために書けない。頭がパンクしそうになっていました。しかも、応募雑誌の締め切りが近づいていました。これはダメだと思い、書くことに専念することにしました。書くことに専念するため、親からお金を借りることにしました。親は、実家に戻って来いと言います。しかし私は、親にあなたから心理的虐待を受けています。だから戻りたくないですは言えません。ただ拒否するしかありませんでした。理解されることはなかったですが、それでもお金を貸してくれました。このおかげで、応募雑誌に応募条件の最低枚数を書くことはできました。本当なら働くべきなんですが、この時の私は無気力になっていました。今考えると軽いうつ病だったのかなと思いますが、当時の私はうつ病という言葉を知りませんでしたし、病院に行くという発想は全くありませんでした。その理由は、小さい頃に親に「甘ったれんな!」を強く受けていました。そのため私は、病院に行くというのは甘えるのと同じになっていました。私は無気力ではありましたが、作家になりたいという気持ちはありました。この時、応募雑誌の中に本を出版しませんかという共同出版の広告がありました。優秀作品には、出版社が全額負担。何も知らなかった私は、これに託そうと原稿を書きました。審査の結果は共同出版でした。この時の私は無収入です。だから諦めるのが普通です。しかしこの時の私は無気力でしたし、これを本にすればもしかしたら作家の道が開けるかもしれない。そう思っていたので、無臭でありながら共同出版で出すことにしました。共同出版の費用は確か200万位。さらにお金を出せば本屋さんにも並べる。作家を目指していた私は、無収入でありながらさらに上乗せしました。費用は分割で毎月5万円ほどの借金を作りました。これを機に私は無気力でありましたが、工場で派遣社員として働きました。借金の5万円がなければ、何とか自力で生活はできました。しかし、借金5万円があるために家賃が払えなくなりました。そこで、親に家賃を払ってもらえるよう電話をします。毎月毎月、親に電話をして家賃を払ってもらえないか頼みます。親からすれば、何で働いているのに家賃が払えないんだ。これがいつまで続くのか分からない。そういうのもあって、電話をするたびにそんなことを言われては、「お前もいい身分だな」と嫌味も言われました。しかしそれでも出してくれたので、私はひたすら我慢しました。応募に出した作品は落選します。そして、借金をして出した本も勝手にサブタイトルを付けられ、自分が考えていた方向性とは違う方向になっていました。担当の方と直接会って話をしている時、担当の方に「親に見せれればそれでいいんですよね」と言われました。私は、親に見せるためだけだったら300万も出して本は出さない。この人何を言ってるんだ?と思っていましたが、その理由は分かりました。300万出せば本屋に並ぶと言っていましたが、実際は並ぶことはありませんでした。現実を目の当たりにし借金だけが残り、絶望のどん底に落ちました。しかし、借金ができた以上返さなくてはいけません。今のお給料では借金は返せても、家賃がどうしても払えない。これが1年続いて、私は長野にある旅館に住み込みでアルバイトを始めました。これをきっかけにアパートを出ました。これにより、親に家賃を払ってもらうことが無くなりました。しかし、ここで待っていたのはパワハラでした。私は仕事が遅く、聞き間違いもあったのでよく怒鳴られました。そのため1年で限界が来ました。この後、北海道の酪農家の所に住み込みで働きますが、高山病と無気力になってしまい2週間で辞めることになりました。無気力と行き場を失ったため、一度実家の鹿児島に戻ることにしました。実家に戻ると、父親に今まで家賃を払った領収書を見せられ怒鳴られます。この時私は、福祉の仕事がしたいと思っていました。きっかけは、旅館でアルバイトをしてる時でした。何をしたのかは忘れたんですが、私がお客さんに何かをしました。私の中では当たり前だと思っていたんですが、お客さんはとても喜んでくれたんです。この時に感謝される仕事がしたいと思い、この時に思い付いたのが福祉でした。父親に福祉の仕事がしたいと言うと、「そんな金にならない仕事をしてどうするんだ!真面目に考えろ!」と怒鳴られます。しかし怒鳴られても、福祉以外のことは思いつきませんでした。私は、償おうと鹿児島で働こうと決めますが、ハローワークに行っても無資格で未経験者ではなかなか決まりませんでした。そこで県内から県外に広げた時に、静岡県にある病院で寮ありの看護助手の仕事を見つけます。場所が遠いので面接ができず、その場で電話だけで採用が決まり、私は静岡県に行くことになりました。しかし、ここでも待っていたのはパワハラでした。最初にパワハラを受けたのは1週間後でした。私は、無資格で未経験で入りました。つまり、医療に関しての知識はほぼゼロでした。最初はフロアのケアリーダーに付くのですが、人手不足あって忙しくちゃんと教わることができませんでした。そのため分からないことが沢山ありました。それを聞こうとすると、「私に聞かないで」と言って拒否されました。拒否されてしまうと、聞くということができなくなってしまいます。そんな時、師長に呼び出されます。師長に言われたのは、「無表情」「不安そうな顔をしている」「目が死んでいる」でした。そして、「患者さんからパワーをもらおうとしている」でした。「あなたが不安そうな顔していると、患者さんも不安になるでしょ!それができないならクビにするから!」と脅されます。実際クビにされることはありませんでしたが、常に不安を持っていました。病棟では、病棟のリーダー男性看護師にパワハラを受けます。申し送り中に話しかけると、「うるせぇ!」と怒鳴ります。分からないことを聞けば、「俺に聞くな!」と怒鳴ります。点滴が終わったことを伝える時でさえも、何かをしている時に言うと「うるせぇ!」と怒鳴りました。ちなみに、この病棟リーダーは誰に対してもそう言う訳ではありませんでした。この当時は私だけでした。そして、委員会が私を苦しめました。一番苦しかったのはレク委員でした。未経験の私に、いきなりレク委員を任されます。何をしていいのか分かりません。分からないので相談すれば、「私に言わないで」と拒否される。しかも、私がいた病棟は一般病棟で、そのほかのフロアは療養病棟でした。一般病棟のナース達からは、「一般病棟は治療をするための病棟なの。療養じゃないの。だから協力はできない」と拒否されます。しかしレク委員では、私以外は全員療養病棟の人です。療養病棟の人からは、レクは病院全体でするもの。だから、一般病棟も参加するべきと言われます。板挟みに合い、私はすべて一人でするハメになりました。それでも何とか我慢していました。そのおかげで本の借金も終わりました。しかしそんな状況だったので、私は早くここから抜け出そうと、また本を出そうと決めます。この時出した本は詩集の2冊です。2冊とも作詞をイメージしたものでした。2冊とも共同出版だったのでまた借金ができ、これもまた失敗に終わります。私は、それでもあきらめることができませんでした。私は、この病院には4年半いました。3年以上いたので介護福祉士の試験を受けることは可能でした。しかし、私は好きでやっている訳ではなかったので、資格を取る気はありませんでした。この時、両親は神奈川に住む兄の新居に来ていましたので、久しぶりに会いに行きました。この時に父親は、資格を取ろうとしない私にこう言います。「お前は真面目に生きてない!資格を取って真面目に生きろ!」俺は真面目に生きている。この時に私は決心します。絶対資格は取らない。そして、もう二度と親とは会わないと。この当時、私は静岡県にいました。インターネットができたばかりの頃でしたが、まだまだ情報が全然入ってきませんでした。そのため私は、情報が早く入る東京か神奈川に行くことを決めます。そして、4年半勤めて神奈川にある老健に就職します。老健には2年いました。辞めた理由はこの時、教育にものすごい興味を持っていました。私は日本の教育に疑問を持っており、アメリカの教育を学んでみたいと留学を考えていました。しかし、留学にはお金がかかります。何かいい方法はないかなぁと探していた時に、英会話教材の販売の求人を見つけます。求人を見ると、働きながら英語が学べ、さらに留学もできると書いてありました。これはいいと思い、老健を辞めることにしました。英会話販売の仕事に転職したものの、そこの会社には半年で辞めてしまいました。理由は、お給料にありました。固定給ではなく完全な歩合制だったため、売り上げがなければお給料ゼロでした。私は、もともと人見知りが激しかったので、なかなか上手く話すことができません。なので、働いてはいるのにお給料がゼロという日が続きました。この時、まだ詩集2冊のローンが残っており滞納し始めていました。無収入なので生活も厳しくなりました。そこで少しでも稼ごうと土日を使って、少年サッカーのコーチのアルバイトを始めました。しかしそれでも生活ができなかったため、消費者金融に借金をします。仕事はしているけど無収入が続いたため、借金もあっという間に無くなります。限界を感じ留学することをあきらめ、半年で辞めました。そして、病院で看護助手の仕事に転職ました。少年サッカーのアルバイトは、看護助手になっても続けていましたが、代表のパワハラが原因で5年で辞めました。パワハラが始まったのは、大体3年目頃から。パワハラは、保護者や子供達の前でもよく怒鳴られました。その時の子供達の不安そうな顔は、今でも覚えています。パワハラがあっても辞めなかったのは、当時担当していた学年にありました。私が入った時に担当になった学年は、当時幼稚園生でした。長いこと見ていると愛着が出てきて、この子供達が卒業するまで見たいと思っていました。しかし代表が、強引に学年担当を替えました。これにより、やる気が無くなってしまい辞めました。病院で看護助手に転職してからは、そこの病院には約4年半いました。ここでは、パワハラよりも格差の屈辱が多かったです。病院は資格社会なので、年齢は関係ありません。なので、年下に「お前」「コイツ」とか言われたこともありました。作家になる夢はこの当時にもあり、自費出版で2冊出しています。その当時コーチングの勉強をしていたので、内容は、ポジティブ思考になるためのセルフ編と、子供がのびのび育つためのコーチングの仕方です。コーチングの勉強してからカウンセラーになりたいという気持ちが強くなり、起業するために病院を辞めました。しかし3か月後、別の病院に看護助手として転職します。3か月で諦めた理由は、準備不足が原因でした。3か月無収入だったことと、英語教材の販売の仕事をしていた時に借りていた消費者金融の借金が滞納していました。そのため、消費者金融の人が家に来るようになっていました。しかし、かと言って親に借りることはできなかったので、滞納していても借りれる消費者金融を探しました。1件だけ見つけ、そこの消費者金融に行きます。担当の方にこれまでの経緯を言います。すると、このままでは差し押さえされるよ。今まで何やってたんだ!と怒鳴られます。呆れ果てた担当の人は、このままではまずいから任意整理した方がいいと、法律事務所に行くことを勧められます。言われるがまま法律事務所に行き、任意整理の手続きをしました。これをすれば毎月の借金返済の額は減ると思っていましたが、逆に増えることになりました。それを紹介した消費者金融の人に言うと、「返せんの!?」と言われます。私は、まずは生活費の20万円が欲しかったので、何回怒鳴られても我慢していました。8時間ほど説教されましたが、借りれたのは1万円でした。私はガックリ来てしまい、親に連絡してお金を借りることにしました。親には、電話せず手紙を送りました。電話をすれば、また怒鳴られることは分かっていたので手紙にしました。親は、返信はなかったものの銀行に振り込んでくれました。このおかげで転職ができ、生活ができるようになりました。しかしこの病院には、任意整理がまだ完済していないのにも関わらず1年で退職します。その理由は、パワハラが原因でした。パワハラを受け始めたのは半年経ってからでした。パワハラを受けたのは、病棟主任の女性看護師さんでした。パワハラを受けた原因に、思い当たることがありました。その主任と一緒に清拭をした時に、主任から指示を受けたのですが、私は違うことをしたんです。私の中ではシカトしたのではなくて、それをしなくてもできたので、それをやっただけなんです。しかし、主任からするとシカトしたように見えたのだと思います。それが2回続けてありました。そこからパワハラを受けるようになり、小さいことでも怒鳴られることが多くなりました。怖かったのは、主任の目つきでした。目つきが、本当に蛇に睨まれてるような感じだったんです。それが半年続いて私は胃潰瘍になり、ご飯が食べれなくなりました。辞めようと決意したのは、同じ夜勤の時でした。私の言うことに対して全てシカト。そこで限界を感じ、辞めようと決めました。部長には、主任のパワハラが原因だとは言えませんでした。それを言うと、復讐されるのではないかと恐れたからでした。この時、まだ任意整理の返済は途中でした。しかも、起業するための準備もできていませんでした。だから、本当は辞めたくなかったんですが、精神的に限界が来てしまったので辞めました。この時、親に手紙を送りお金を借りることができたのですが、精神的に病んでいたためすぐに転職活動することができませんでした。やっと転職活動した時には、携帯電話代を払えず止められていた時でした。これが原因で、なかなか転職ができなくなりました。電話が使えないので、兄2人に手紙を送りましたがシカトされ、前の職場の仲良かった人にも手紙を送りましたがシカトされました。持っていたお金が底をついたので、家の中にあるものをリサイクルショップに全て売りました。そのお金で、電話なしでもできた日払いの足場の仕事を始めます。しかし、体力が無くなっていたため一日中怒鳴られ、3日でリタイアします。八方塞がりの状況になり、ついにお金が無くなります。そこからはスーパーなどに行って試食品を食べ、何とか生きていました。これが半年位続き、この間も家賃が滞納していました。最後の砦として、親に電話して実家に帰りたいことを伝えます。しかし父は、気合さえあれば何でもできると言って拒否をします。八方塞がりになっていたので、今の状況を伝えに不動産屋に行きます。そこで生活保護を勧められ、生活保護を受けることになりました。生活保護を受ける際に、市役所の方から生活困窮者を支援するnpo法人を紹介され、そこが管理する寮に引っ越しをします。生活保護を受けながら転職活動をし、派遣で介護の仕事を始めました。収入が安定してきたので、半年位で生活保護は終了します。そのため寮を出なくてはいけなくなり、アパート探しを始めます。しかし、この時に問題が発生します。保証人問題でした。アパートを仮契約し、あとは保証人のみになりました。そこで親に電話し、保証人になってもらえないか頼みます。しかし父は、これまで散々滞納した家賃や生活を出してきたことを言い拒否をします。この時に私は、これはお互いのためにならないと思い勘当することにしました。ここから親とは一切連絡していません。そこからは、寮に住んでいたnpo法人が管理するアパートに保証人なしで引っ越しをしました。アパートに引っ越してからも、派遣会社で介護の仕事をします。この間に、ようやく任意整理の借金が完済します。これによって生活にゆとりができます。ゆとりができたことでノートパソコンを買います。私は、親とは勘当しました。そのため、頼りになるのは自分しかいません。そこで私は自分で自分を守るために、大嫌いだった勉強をyoutubeと本でするようになりました。今では、勉強がとても楽しいです。勉強して分かったことがあります。それは、パワハラや心理的虐待はこれからも増えていくということ。国や会社も対策をしていますが、それだけでは不十分です。これはまずいと思い、私はパワハラや心理的虐待を受けて悩んでいる方のためのカウンセラー活動を始めます。
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