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坂本一成のプロフィール1963年7月13日福岡県直方市の産婦人科にて父 恒雄・母 節子の長男としてこの世に誕生。口から先に生まれてきたのではないかといわんばかりに喋り倒した幼少時代。小学校に入学してからは『ガキ大将』としてデビューするも、小学校5年生の時、朝になると謎の腹痛に襲われ不登校に。地元の小児科で検査するも原因不明。大きな病院で精密検査をした結果、精神的な病気で心の病、甘えが原因と判明大きな病院でマザコンのレッテルを貼られた小学校時代となる。そんな病気も卒業前にはすっかり治り、直方第一中学校に入学。中学校時代は人より体の発育が遅く、身長は前から数人目を常にキープ。みんなから軽くあしらわれる様になり、小学校時代の輝かしい『ガキ大将』時代から『ちびっ子かずちゃん』としての微妙な立ち位置を確立する。そんな私も、身長や体重を増やす為に何かイケメン的スポーツはないかとチャラい考えで『空手』を習い始めた。しかし全くセンスがなく、元々自分に甘い性格の為、辛い練習に耐えることが出来る訳もなく、たった3か月でリタイヤ。そんな中学校時代を無事に卒業し、福岡県立直方高校に入学。やっと成長期もやってきて、身長もグングン伸びた。身長が伸びると何故か自信が湧き、「俺、モテるんじゃね?」と素敵な勘違いを発病。『彼女を見つけて高校生活を満喫する』というまたまたチャラい目標を掲げての高校生生活のスタートとなる。しかし、そんな思いとは裏腹に女友達さえも出来ず、『アイツなんか気持ち悪い。』と女子から敬遠される残念な存在となる。特にこれといって特徴もない、やる気もない、でもナルシスト。と素敵三拍子の揃った私。そんな私にまた得意のチャラい発想が。『音楽の道でモテたい。』そんな感じで始めたブラスバンド。これがキッカケとなり、今でもかけがえのない友人達が出来た。全くモテなかった3年間。とにかくブラスバンドで明け暮れた高校時代であった。そしていよいよ進路を決めようという時、担任から『このままでは大学進学とか以前の問題で、卒業そのものも危うい。』とまさかのカミングアウト。当時かなり厳しい父親の逆鱗に触れ無言で一発殴られた。・・・「っていうか俺、そんなに頭悪かったのか・・・」と現実を突きつけられた事と二重にショック。そのWパンチが効いたのか「頑張る私」が出現。卒業すら危ういと言われたのに、成績もまさかの100番以内に君臨。担任も「これなら大学合格も間違いないよ。頑張ったな、坂本君。」と言われ、見事調子に乗り大学受験には全て失敗。晴れて浪人生活を送ることとなった。その後、高校を無事に卒業し、予備校に通うも「頑張る私」は大学受験で完全に燃え尽きたようで、3か月で予備校も退学。なんとフリーターへと昇格した。暗黒フリーター時代は、スナックの店員・葬儀社で霊柩車の運転手・紳士服の店員・レンタルレコード店の店員・喫茶店のウエイター・新聞勧誘員・怪しい訪問販売の会社・ネットワークビジネス・ねずみ講・・・・。19歳の時にはヤ●ザさんの組長様に気に入られ「お前は見込みがあるから来ないか」と勧誘まで受けた。一体自分が何をしたいのかよく分からない2年間だった。そろそろ真剣に仕事をしないとと考えた21歳。無事、デパートの紳士服の販売会社に就職することが出来た。そこで妻と出会うことができ、結婚した。仕事では、負けず嫌いの性格が功を成し、個人売り上げを全社員のトップにまで昇りつめたがすぐに天狗になり、酒飲み三昧、遊び三昧。先輩社員や店長からはもちろん目をつけられ、無理な売り上げを押し付けられる等、プレッシャーをかけられ退職を余儀なくされる。そんな中、私にもう1つの夢が出来た。『必ず自分で会社を興して、社長になりたい』と……。その時、妻は長女を身ごもっていたのですが、こんな無茶ばかりをする私に、何も言わず傍で支えてくれていました。(今でも感謝以外の言葉はありません)。『社長になりたい』という夢を抱えながらも、とびきり可愛い長女も生まれた為、とりあえずは安定しなくてはと思い、趣味から始めた『足つぼ健康サロン』と出会い、元々ハマるととことんハマる性格の為、一生懸命足つぼについて学び300冊以上の健康本を読み漁った。そしていよいよ独立の時が訪れる。健康食品のお店や料理教室の先生に軒並み電話攻撃で『足つぼ健康教室』のお願い営業を始めた。最初は上手く行ったが、中々軌道に乗らず病人を探しては、直接足つぼ体験をしてもらい、病気改善の実績を積んでいった。その当時はかなりの足つぼファンが出来てきたのだが…自分自身が肩こりやめまいに悩まされるようになり、どっちが病人なのか分からなくなって来た為、足つぼ事業を断念せざるを得ない状況となる。途方に暮れている時、自宅マンションで1枚のポスターを発見。今思えばこれが運命の出会いとなった。“ピッキングが横行しています。あなたの家が狙われる!!今この鍵が危ない!!”というポスターだった。このキャッチコピーに非常に心動かされ、私の興味アンテナがピッピッと反応。すぐさまリサーチと関係事業者にアポイントと面談…それが現在に至る『防犯・防災ビジネス』のスタートとなったのである。平成11年にスタートし、最初は怪しくも3人のスタッフと一般住宅の鍵の訪問販売をスタート。怪しまれながらも売り上げは少しずつ上がった。しかし、この販売方法ではいつか限界が来ると判断…それからは、とあるストアの軒先とレジ回りをお借りして“鍵と防犯グッズの販売”を開始する。これが非常に大当りでした。信用の無い者が信用のあるスーパーで販売する。新しい販売スタイルを確立したのです。それからはもっと売上の上がる戦略かつ信用のある販売方法を確立する為、考えに考えた末、一つの結論が出ました。それは『デパートで防犯グッズと鍵の販売をすること』でした。九州全域(宮崎、沖縄を除く)のデパートに飛び込み訪問。バイヤーに『デパートで高額商品や高級宝石を販売するなら安心してそれらを置ける住まいの提案をするのもデパートの義務だ』と訳のわからない自信満々の営業トークの連発で“九州の主要なデパートに導入決定”が実現できたのでした。平成13年には、とある団体に所属入会し、防犯ビジネスのイロハを学ぶこととなる。平成14年10月には待望の“防犯設備士”の試験に合格(社団法人日本防犯設備協会【警察庁所轄公益法人】)、ここで福岡県警本部委嘱“防犯設備アドバイザー”として志願し、認定も受け福岡県内で『防犯セミナー』を開始する。そこから現在の私が誕生するのである。福岡県警宗像警察署により『防犯設備アドバイザー』としての派遣要請があり、私に白羽の矢が立ったのである。そこでの私の役割は1、 宗像市と宗像警察署、防犯協会が認証する「防犯モデル認証制度」の防犯基準の作成と認証のスキーム作り。2、 地域安全リーダー養成講座の講師(犯罪や緊急災害時に基本的な知識を学び地域の防犯・防災リーダーとして活動するための養成事業)3、 宗像地区の防犯環境設計の審査委員(犯罪に強い街づくりや建物作りのアドバイス)4、 自治協議会と協力し防犯教室の (警察署員や市役所職員同席)講師5、 子ども見守り・防犯パトロールなどのコミュニティー防犯の啓蒙活動その宗像地区を皮切りに、私の防犯・防災活動が本格的にスタートすることとなる。その実績が飯塚地区に飛び火し、飯塚警察署、飯塚地区防犯協会からも宗像地区同様【生活安全サポーター委嘱】を受け、福岡県全体に活動を広げていくこととなる。ちょうど防犯ビジネスをスタートする前から私はある病気達と闘いながら仕事をしていた…それは“パニック障害とうつ病、心臓神経症”です。症状は心臓に動悸が走り、今にも心臓が止まるような恐怖心との戦い、ついでに乗り物恐怖、女性恐怖症((笑))ととにかく出張や飛行機等の乗り物が全く駄目。ましてや“人前で防犯防災セミナーの講師で講話することは至難の技でした。病院の薬をひと時も欠かさず、大事な場面では安定剤を少し多めに服用して心を落ち着かせて仕事をこなしていました。その当時の体形は身長178㎝ 体重45㎏ ウエスト60㎝ まさにスーパーモデル並み、いやむしろ病的、痩せすぎの何やら薬物中毒者っぽい状況で、当時お世話になっていた刑事さんから“お前何か薬でもしてないか(笑)”って言われるほどでした。現在は第二成長期が40歳を過ぎてやってきたのか身長が1cm伸び、体重 60㎏ ウエスト76㎝ 下腹84㎝(ビールの飲みすぎ)でいたって普通のおじさんとなりました。病気もすっかり落ち着き、上手く付き合っていくコツも心得て、絶好調で仕事をこなすまでになりました。長々と恥ずかしい歴史を紹介して参りましたが、こんなにも辛く、楽しい一度きりの人生。世界一の家族にも恵まれ、私は今幸せです。これからの人生も、もっと豊かで、人さまのお役に立て、私と一緒に楽しい人生“絶好調でツイてる人生”を満喫できるお手伝いがしたいと今、真剣に思っています。
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