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こんにちは。葉月かん菜です。私はいま、「愛」を伝える「お志ごと」をしています。あ、今、「…は?」 って思いました?漠然とし過ぎてますよね。私が伝える「愛」は、あなた自身があなた自身を愛する「愛」です。健康に気をつかうのも「愛」。あなた自身を慈しむ、大切にするのも「愛」。愛には、本当にたくさんの「形」があります。そしてそこには、あなたの両親の存在が、とても深く関わってきます。私がどうしてこれを「お志ごと」にしているのか、ここで少しお伝えしたいと思います。そうそう、その前に。あなたは他の誰かに「あなたってこんなひとだよね〜」って言われて「え?私ってそう見えてるの??」って思ったことありませんか?あなた自身が思っている「あなた」と他の誰かが思っている「あなた」は、おそらく少し、もしかしたらかなり、違うのかもしれません。もしあなたが「私」を知っているなら、私が「私」をどう思っているのかを一度あなたにお伝えしてみたい、と思ったのも今これを書いているひとつの理由です。もしよかったら、少し長くなりますが読んでみてくださいね。私は、高校に入る前まで世の中に嫌いなひとがいませんでした。世の中のすべてのひとは「いいひと」で、私は誰からも愛されていると信じていました。両親も私に好きなことをさせてくれていましたし、家族仲も良くて、とても幸せでした。高校1年生の1学期、中間テスト。小・中と学年でもかなり良い成績を続けていた私でしたが、はじめて、がくっと成績が落ちました。理由は、はっきりしていました。部活に熱中して、勉強していなかったからです。当時、野球部のマネージャーをしていた私は、弱小と言われながらも頑張っている部員をなんとか応援したくて、練習メニューを監督と相談したり、水やお茶の準備をしたり、と、授業時間以外のかなりの時間を、部活にさいていました。だから、成績が落ちるのはしょうがないこと。でも、部活が本当に楽しかった私は、「今は勉強よりも部活」だと心に決めていました。ところが。成績が落ちた私に両親は、「今すぐ部活をやめろ」と言いだしたんです。私がいくら「好きだからやりたい」「続けさせてほしい」と言っても、許してもらえませんでした。成績があがったら復帰してもいいか、と聞いても「どうせまたすぐ下がるから」「そもそも学費を出してもらってるのに親に逆らうとはなにごとだ」「いうことをきけないなら出て行け」愕然としました。私が親に「好きなことをさせてもらえていた」と思っていたのは、「成績が良かったから」「義務教育だったから」だったんです。私は、一番信じて愛されていると思っていた両親に「親のいうことを聞く子でなければ意味がない存在」であると宣言されたんです。私は誰も信じられなくなりました。友達の言動にも、何か裏があるのでは、と思い始めて嫌いなひとが少しずつ増えていきました。そして、嫌いなひとが増えると同時に、友達が減っていきました。高校2年生のときには、クラスで完全に孤立した「村八分」状態になりました。偏差値の高い学校だったからか明らかな「いじめ」はありませんでしたが、1日学校にいても誰とも話すことなく終わるという日々が続きました。修学旅行も、どこに行ったのかも覚えていません。そんな状態でしたが、家でそんなそぶりは見せませんでした。「村八分」にされているなんて親に知られたら、もっと馬鹿にされる、嫌われる。それが怖くて、でも嘘をついてバレるのが嫌で、親との会話は極端に減っていきました。そんな私も、大学に入って彼氏ができました。友達も増えました。環境が変わったことと、両親の希望の学部に入ったことで少しは認められるのかな、と思っていた私でしたが、ある日、家に帰ってきたら、父が玄関で仁王立ちで待っていました。そしていきなり、「何をしてるんだお前は!」と殴られました。彼氏と旅行に行ったのがバレたんです。大学のクラスメイトの親から電話があったと。彼氏と旅行、は当時そう珍しくはありませんでしたが、両親は「結婚するまでは」というタイプのひとたちでした。両親は、夜私が寝ている間に彼の家におしかけ、彼を土下座させてやった、とまで言われました。彼は大学の同級生だったので、こっそり会ったりできないように門限は18時にされました。大学の実習で遅くなるときは、女友達と一緒に電話をして「こういう理由で遅くなる」と彼女の口から言ってもらわなければならなくなりました。(当時は携帯電話がなかったので、公衆電話から電話してました。)このときにも、「学費を出してもらっているのに何をやってるんだ」と言われていました。両親に認められていない、愛されていない、「あなたが大切だから怒るのよ」と母に言われても全く信じられませんでした。自分たちの思い通りにならない子だったらいらないんだ、親の思う通りのいい子じゃなきゃ価値がないんだ、ずっとずっとそう思って生きてきました。仕事もそれで選びました。結果として、好きな仕事になってはいますが、「それ以外の選択肢がなかった」という思いはかなり根深く残っていました。親の期待に応えることを求められ続けるのが嫌で、就職は離れた場所を選びました。その後地元に戻っても、仕事時間が不規則だから、というのを理由にして実家に戻らず一人暮らしをしていました。ひとりが、楽。誰かに期待されるのも期待するのも嫌。そんなことを心の奥底に持っている私ですから、仕事でもなかなか信じてはもらえません。私が信じていないのだから当たり前、なんですが、友達と呼べるひとも彼氏もいないまま、年月が流れていきました。私はずっと、ひとりでした。私は私が嫌いでした。私には価値がないと思っていました。いつ死んでも別にかまわないと思っていました。でも、いつからかはもうわからないんですが、「このままではだめなんじゃないか」という思いが湧いてきました。ひととコミュニケーションをとりたくないのでどうしても仕事に支障が出ます。そして、支障が出るようになると、好きなはずの仕事なのに「私は本当にこの仕事が好きなんだろうか」「こんな思いをしてまでなんでこの仕事をしてるんだろう」と思い始めてしまったんです。今思えば仕事に行き詰まったのはコミュニケーションがうまくいかなかったからなんですが、当時の私はそれに気付かず「今のままではダメだ」という焦りばかりを背負っていろいろなセミナーに顔を出すようになりました。自己啓発系、ビジネス系、スピリチュアル系などなど自分の悩み(表面的なものでも)を解決してもらえるんじゃないか、とわらにもすがる思いでセミナーに出続けました。その結果。…何も、変わりませんでした。そりゃそうです。誰かに「自分の悩みを解決してもらう」なんてことができるわけがありません。私の世界に、色はありませんでした。それに気付いた頃、「メンター」「師匠」と呼べる何人かのひとたちに出会いました。彼らが私に見せてくれたのは、もし「今」に納得がいっていないのであれば、まず自分が変わることが大切で、それができれば世界はこんなにも色鮮やかに変わっていくんだよ、ということでした。自分が変わる。その発想は当時の私にはありませんでした。ずっと親のせいにしていたからです。誰かの、社会のせいにしていたからです。でもそれでは何も変わらなかったんです。だったら、今までに自分がやったことがないことをやるしかない。私が今の私のままではきっと幸せにはなれない。私は私を変えることをテーマに、いろんなことにチャレンジしていきました。その中のあるワークで、私は、不思議な体験をしました。あたたかな優しい私の世界が、少しずつ不安に塗りつぶされていき、息苦しくなって外に出てみると、愛してくれるひとはだれもいない。私はひとりぼっち。そんなイメージが浮かんできたんです。それは、私が生まれる前の記憶でした。私の母は、私が生まれる前に妊娠8ヶ月で兄を亡くしました。そして、兄がふつうに生まれていたら私がこの世に生を受けることはありませんでした。兄を亡くした直後に私を授かったとき、母は嬉しさと同時に不安でいっぱいになりました。妊娠期間中出血が続いていて、兄を亡くしたことが何度も何度も思い出されて、ゆっくり眠れない日もありました。それでもなんとかもちこたえ、出産予定日よりも10日遅れて私が生まれました。不安と痛みから半狂乱になりながらもなんとか私を生み、その直後に母は意識を失いました。胎盤がなかなか出ず、出血多量で生死の境をさまよったんです。母の処置をするために私はすぐに母のもとから離され、新生児室に入りました。父は何度か新生児室をのぞきに来てくれたようでしたが、なんとかもちなおした母が新生児室に来て私が初めて抱かれたのは、生まれてから丸1日以上経ってからでした。(当時は母児同室という考え方はほぼありませんでした。)私が母のお腹にいることで母はずっと不安でした。私を産むために不安と痛みに耐え、命を危険に晒すことになりました。生まれた後、母乳があまり出なかったので生後1ヶ月に満たないうちから完全人工乳になりました。「粉ミルク」が出始めた頃で、母乳よりも粉ミルク、みたいな風潮があった頃でした。抱かれてはいても肌の触れ合いはありませんでした。私がお腹にいたことで母は不安だった。生まれたあとも、肌のぬくもりを感じられない距離。私は、両親に愛されていない。これだけ心配と迷惑をかけたのだから、愛されなくて当然。両親にすら愛されないのだから、他の誰かに愛されるはずもない。私の根っこにはこの思いがありました。そしてそれが怖くて、辛くて、私はその思いを心の奥底に封印しました。でも、封印なんてしきれるはずありません。だから、私はずっとひとりだったんです。私は、本当に本当に怖かったけれど、母に電話して尋ねました。「お母さん、私がおなかのなかにいたとき、不安だった?」「そうね。 でも、それはあなたのことを大切だと思っていたからよ」「でも、出血が多くて死にそうだったんでしょう?」「お母さんがどうなってもあなたのことを守れればそれでいい、 って思ったの。あなたのことが大切だから。愛しているから。 それはお父さんも同じよ?」私は、両親に愛されていたんです。これに気付いた瞬間、自分がなぜ今の仕事を選んだのかが、わかった気がしました。私は、私の経験を伝えるために私と同じ思いをするひとを一人でも減らすために今の仕事を選んでいたんです。ワタシは、ボクは、お母さんに、お父さんに愛されていないんだ。そんな悲しい思い込みが、親にさえ愛されないのだから自分には価値がないのだと自己否定感、自己無力感につながっていってしまうんです。私自身が通った道だからこそ、これから生まれてくる子どもたちにはそんな思いをさせたくありません。そして、もしあなたがそんな想いを抱えて大人になってしまったひとなのだとしたら、思い込みなんだよ大丈夫、愛されてるよっていうことを知ってください。そして、そんなあなた自身をあなた自身が愛してください。この言葉たちを強く確信を持って伝えられるように、私は生まれる前からそんな経験をしたんです。だからこそ今、「愛」を伝えるお志ごとをしているのだと今の私は知っています。お母さん、あなたは今、おなかの子どもに、生まれた子どもに、もう大人になった子どもに、愛をつたえていますか?そして、お母さんから生まれたあなた、お母さんから、お父さんから愛されているということを知っていますか?愛していると愛されていると伝えるために。そして、あなたはただそこにいるだけで「愛される価値がある」のだと伝えるために。私は産婦人科医という仕事を選びました。あなたの子どもに私と同じ思いをさせないために。そして今、「愛」を伝える「お志ごと」をしています。私と同じ思いをしてきたひとにあなたは愛されているのだと伝えるために。読んでいただいてありがとうございました。
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