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伊藤知治(ドクタービート)の音楽活動に関する履歴書(文章内敬称略します)1953年大阪で生まれる。高校の頃から兄の伊藤銀次の影響でギターを弾き始める。ギターを続けるうち音楽の友人が増えてきた頃、高校卒業前に事件が起きる。歯科医師の父の跡継ぎとなるはずの兄伊藤銀次が音楽をするため歯科大学2年時にドロップアウトしてしまう。そこで急きょ親の後を継ぐため知治は、歯科大学に進む事になる。長野県松本歯科大学へ進み塩尻市で下宿生活を送る。大阪と違い田舎の生活ではバンド活動を充分出来る環境ではなかった。長野県での下宿生活はバンド活動より1人でギターを練習する孤独な日々が多かった。卒業し国家試験にもパス。故郷大阪に戻る。歯科医師としての忙しい日々に追われ音楽活動もままならなかった。しかしこのままでは、いけない。「ロックを追い続け自分の身体と心(Body&Soul)に刻むものを得たい」と 一大奮起し1980年頃から忙しい仕事と並行して演奏活動も再開する 数々のバンドを作っては解散し結局アマチュアミュージシャンとのバンド活動では、いずれも満足出来るものは得れないと知る。求める問題は、テクニック的問題だけでないのもアマチュア同士では理解してもらえないと知る。メンバーに最終的に「アマチュアだから」と言い訳されると、それ以上知治は反論出来なかった。87~88年頃よりライヴバーで不定期に知治とセッションしていたキーボードプレイヤー西浦達雄をプロデュースにソロアルバムを作り始める。西浦達雄は熱闘甲子園の大会ソングを作り唄うため朝日放送と毎年契約しそれ以外に中村雅俊に曲提供していた。知治は更に西浦達雄以外にも、バンドメンバーを探し求めセッションを繰り返す。その時に知り合ったメンバーは島田昌典(キーボードプレイヤー)KAJA(ヴォーカリスト、ギタリスト)橘いずみ(ヴォーカリスト)仲豊夫(ギタリスト)山本正明(ベーシスト)浅川ジュン(ドラマー)ボビー原(キーボードプレイヤー)小林健治(ドラマー)三原幸輔(ベーシスト)津田清人(ヴォーカリスト)酒井昌彦(サックスプレイヤー)らである。 彼らは個々にハービー・ハンコックのバンドにいたポールジャクソンとユニットを組んでる者や上田正樹、宇崎竜童、近藤房之助、桑名正博、憂歌団、西岡恭蔵、小阪忠、鈴木茂、岡林信康、増田俊郎、大上留理子、円広志、やしきたかじん、高山厳らとプレイしている一流のミュージシャンである。知治は、この80年代は精力的に仕事(歯科治療)に音楽活動に動き回りカシオペアのギタリストである野呂一生とのセッションも実現する。(末期癌からの生還 I‘ve Gotta Rock My way 44章参照)西浦達雄はロック、ポピュラー以外に歌謡曲、演歌と幅広く音楽の仕事をしており三沢あけみの沖縄公演ツアーにも参加したメンバーの1人であった。音楽ジャンルは知治とは違っていた。西浦達雄は忙しくなりスタジオセッションの時間も大幅に取れなくなり始め、知治はデモテープだけ持ち西浦達雄のタッチアップスタジオを去った。知治は島田昌典や仲豊夫らのいるスタジオウインズに行き彼ら多くの仲間と合流。一旦消えかかったソロアルバム制作を続ける。知治は島田昌典、仲豊夫らとこの頃良く遊んだ。知治の家に彼らは泊まり込む事もあり親交を深める。仲豊夫は元大上留利子&スターキングデリシャスのギタリスト。その後は岡林信康や鈴木茂ら数多くのアーティストとのセッシオンワークや増田俊郎のシェリフのメンバーなど日本ロック界の創成期から生き抜いて来たギタリスト。知治は仲豊夫との初めての出会いでスターキングデリシャスの元ベーシストが兄銀次の昔作ったバンド「ごまのはえ」のベーシスト角谷安彦(故人)と知り世間の狭さを感じる。角谷安彦は知治が17才の時(角谷安彦19才)知治の弾くギター選びのため大阪ミナミの楽器店巡りをしている。角谷安彦は、そのギター選びだけで知治に、半日付き合ってくれている。スタジオ・ウインズで、角谷安彦の才能の豊かさについて知治と仲豊夫は会話し彼の死を惜しむ。この出会いから不思議で素敵な出来事が知治に起こった。後日スタジオ・ウインズに行き「Good Bye」と言う曲をレコーディングするため既に出来ているリズムトラックをかけてもらうとこの世の物とは思えない滑らかなサイドギターが聞こえてきたのだ。島田昌典や仲豊夫の配慮で知治がリードギターを弾きやすい様に仲豊夫がサイドギターを弾き前日に録音させていたのだ。これ以来サイドワークのポジションは、安心して技巧派仲豊夫に任せて知治は、のびのびとリードギターを弾ける様になった。知治は仲豊夫と出会い三顧の礼を尽くして仲豊夫にアルバム参加を頼もうと思っていたら知らぬ間に仲豊夫のほうから「答えは、このギターだ」とばかりに無言の意思表示をしてもらい胸が一杯になる。仲豊夫の友好的な性格と優しさは、紛れもないが、現場を仕切るプロデュサー島田昌典の口利きでもあった。有能なロックミュージシャンは、時々歌謡曲の世界からも声が、かかる事がある。あのピンクレディーは、何度か解散しては、復活しているが、初めて解散した西宮球場でのファイナルライブのギタリストに仲豊夫は、抜擢されピンクレディ-とステージを努めている。ロック系のアーティストは、歌謡曲の仕事は、それほど名誉な事でないのであまりおおっぴらに、自慢したがらない。最近は、そんな硬派なミュージシャンも減りお金になればどんな仕事でも平気になってきている。昔は「魂売ったのか?」と言われることもあって、歌謡曲の仕事をした事を隠すミュージシャンもいた。仲豊夫は知治にピンクレディ-の仕事をしたのを、そっと教えている。その時のギャラが仲豊夫の生涯史上で最高額であったことも。知治は意外に上品なところがあり、その額は仲豊夫に聞いていない。アルバムハートチリーチプレイス制作時の80年代はコンピューター導入のテクノポップや爽やかなクロスオーバーまたは、ⅯTⅤの様なビデオクリップに収まるヒットシングルやビジュアル系ミュージックの全盛期だった。知治の様にオーソドックスかつブルージーなギターはハートフルであればあるほど時代から振り落とされる傾向にあった。コンピューター導入の無機質な音楽の流行る中では、知治の様なタイプのギタリストは主張が強く厄介で、のけ者とされる恐れを知治自身が感じていた。多くの70年代のトップミュージシャン達も同様に時代の流れに沿うよう生き残る工夫をした。イーグルスもメンバーそれぞれに、解散後はスタイリストも付き、お洒落なAORミュージックに衣替えした。それが興業的にも大成功している。プロなら時代のニーズに沿って生き残るのは当然の事だと知治は認識していた。閉店売り尽くしセールと開店セールを繰り返す店と同じでイーグルスも解散後何度か再結成ライブをしている。ライブの日は全員がそれぞれ、たいそうな高級車に乗りやって来る。会場に着くと着ていたスーツからイーグルスのイメージに合う様にジーパンとTシャツに着替えてステージに立っている。エリッククラプトンもファションも変えて新進気鋭のプロデュサーをつけサウンドの若返りを図っている。マンネリ打破にメンバーチェンジも随時している。ギターのロングソロもブルース以外は減らしキャッチーなⅯTⅤにもハマる尺の曲を選んでいる。あのローリングストーンズでさえマイケルジャクソンらのⅯTⅤ台頭を知り70年後半から90年始めにかけ「ミスユー」や「ホットスタッフ」等のダンスミュージックを発表してよせて来る時代の波をかわしている。同じアーティストの一番良き時代のコピーを気のあった仲間と半永久的にプレイするアマチュアリズムの究極が目的でない知治には両方の形とも悩ましい問題だった。しかしアマチュアでもプロでもない。よりダウン・ツゥーアースを目指す知治には、時代に逆らってでも伝えたい何かがあった。知治と島田昌典は、セッションしながらもハートリーチプレイスをどの様なアルバムにするか考えぬいた。知治は、かってアマチュアの中で、浮き出てしまった。パーソナルなバンドを持たないはぐれ者だった。スタジオウインズには、自分の居場所を求め道場破りのセッションをするためやって来た。今、時代を担う可能性を多く秘めた島田昌典と出会い自分の音楽が大きな化学反応を起こす気配を感じていた。島田昌典は知治がロックに特異な熱い情熱があり純粋であるのにアマチュアでもなく、かと言ってプロの商売気の全くない姿に自分が知治にどうフォローし知治のかなめに、なっていいか考えた。知治がパーソナルなバンドを持たずデモテープだけ持ってスタジオウインズに現れた時、知治は、インストメンタルナンバーだけを作っていた。ボーカリストがいない以上は、インストメンタルなら何処に行っても直ぐにプレイして聞かせる事が出来るからだ。ボーカルの入った曲とインストメンタル曲では曲作りが、全く違う。何故ならボーカルに合うメロディとインストメンタルに合うメロディは違うからだ。インストメンタルにしてこそ生えるナンバーを作って持って行った。最初は島田昌典が、その曲に合わせコンピュータープログラミング(打ち込み作業)してベーストラックをそれぞれ作って行った。知治のギターには打ち込みのバックより生音のミュージシャンが合うのを島田昌典も気付いていた。無機質な機械と生身の音では、知治のギターでは、より温度差に開きがあるからだ。のちに兄銀次も知治の事を「80年代は、知治にとってギタリストとして一番過ごしにくかった時代」と評している。兄銀次でさえ大手レコード会社より80年代フュージョンミュージック全盛時にインストメンタルアルバムを作る話をもらったが辞退している。よりによって知治がインストメンタルアルバムを作ること自体無謀な事は、知治も分かっていた。打ち込みの音と知治のギターの温度差。そして A メロからの機械になり切れないギターの熱量を考えるとインストメンタルオンリーは、避けたほうが賢いのだが・・・知治も気付いていた事を島田昌典は言い出した。日頃から知治は島田昌典と酒を酌み交わしに行くたびに「どんな事でも何でも意見は言ってくれ」と言っていたのでハートリーチプレイスの制作中盤から島田昌典はくたんのない意見を知治に言う様になった。「何でも意見は言ってくれ」そう知治が言えるのも知治が島田昌典に全幅の信頼を寄せていたからである。「レコーディングも半分済みそろそろボーカリストを連れて来て歌ものをやりませんか?」と島田昌典が知治に切り出した。その時の島田昌典の考えは知治の考えと一致していた。そして知治のこれからのすすむ道もこの時はっきりと見えた。良いボーカリストに出会えずにいてインストメンタルナンバーで自分の表現を代償していてもやはり自分のしたいのはバンドサウンドなんだ。自分はソロギタリストになりたいのでなく、グループギタリストでありたいと知治は思う。島田昌典は知治に「誰か(ボーカリスト)いいかたは、いらしゃいませんか?」と尋ねた。知治は「一人切り札的な人はいるけど・・・」と答えた。知治が切り札と言った人物は、Kajaの事だった。昔のテレビドラマ 名高達男主演の「ハングマン」のテーマソングとしてドラマの最後に「ありがたや節」と言う曲が歌われていた。近頃 これを知る人は少ない。若い人なら「何の話?」と言う。これに更に「ありがたや節」は、そもそも守屋ひろしが歌いヒットしたと言えば若い人は、もっと分からなくなってしまう。そのハングマンのテーマソングを歌っていたシンガー兼ギタリストがkajaである。デビューは大手レコード会社からバンド名「ハイウェイ」でⅬPを出している。70年代頃の話だ。プロデュースは伊藤銀次だった。最近で言うと日清食品のコマーシャルソングにkajaのハイウェイ時代の曲「ギラリ熱愛」が使われている。ハイウェイ解散後レゲエミュージックに浸透しkaja&jammingとソロ活動で現在も活躍している。知治とKajaの出会いは知治17才 kaja19才知治が、17才当時に、在籍していたバンド オリジナルマイナーバンドの大川マコトの家でkajaに初めて会った。オリジナルマイナーバンドは元々「春一番コンサート」の主催者 福岡風太の作ったバンドである。その福岡風太の抜けた後に知治が加入している。知治と同じ年齢の北野高校に通っていた(知治は関西大倉高校)大川マコトは、リードギタリスト。大江健三郎を愛読するインテリでアンチホワイトカラーを唱え、ジミーペイジの様な髪形に冬はロングコートを着てギターは低く下げて弾く。マコトは、知治より先にバンドにいた。知治のバンド加入で大川マコトとツインリードギターバンドに、なる。このオリジナルマイナーバンドは、知治が加入以来当時としては知治が、稀少なスライドギター奏者でもあったので、知治の加入で音の厚みが飛躍的にに増し新世紀の進歩的ブルースロックバンドへと進化して行った。2人のギタリストは若々しく2人とも肩までのロングヘアをなびかせステージでの態度も威風堂々で演奏時間の長い事を野次る客には人差し指を突き立てる小生意気さを持っていた。しかしはじめの頃 野次る客に大川マコトが人差し指を突き立てたのに、知治が指を間違えて親指を突き出し野次った客が全部倒れた事件があった。知治は、それ以来反省している。間奏のギターバトルは常に白熱した。エネルギッシュでソウルフルな2人の掛け合いにコアなファンは陶酔した。インプロビゼーションの応酬もステージでは当然となって行った。今から見ると、早く現れ過ぎたバンドであった。もう少し遅く出てくればもっと支持層を沢山得る事が出来たはずだがファンからすれば自分の手の中で青春を自分と共に燃焼し去って行った、いさぎよさ、清らかさが良いそうだ。三国に住んでいた大川マコトは家も変わり今は何処で住んでいるのか消息は掴めていない。知治は出来ればマコトに会いたいと思っている。昔1970年前後にロックピープルがこぞって集まる店があった。大阪ミナミに大塚まさじが店主を、していた「ディラン」と言う名の喫茶店がありキタには「SS」と言う名の喫茶店があった。知治は、そこで多くの音楽仲間と出会うことが出来た。ミナミの聖地が「ディラン」ならキタの聖地は「SS」だった。知治は北摂(池田市)の人間だったので「SS」のほうによく行った。SSで知治は多くの音楽仲間と交流を深める事になる。まだバンドに属していない頃のギタリスト永井充男がいた。永井充男は、グラスブレイン>ジプシーブラッド>金子まり&バックスバニー>加藤和彦のサディクスミカバンド>竜童組などのバンドでその後活躍するのだが、後で出てくる知治の音楽での兄貴分藤本雄志が最初にフリーコンサートで永井充男を知りシュギーオーティスのギタープレーを完璧なまでコピーしていたこの通称「ひょこぼう」こと永井充男に脱帽した。永井充男は当時ヤマハでバイトしていたのでSSで知治に合うと輸入レコードの新譜情報などを知治に教えてくれた。ウイーピングハープ妹尾こと妹尾隆一郎もSSによく出入りしていた。妹尾隆一郎はSSで知治にブルースハープの手入れの仕方を店の楊枝を使って丁寧に教えてくれた。妹尾隆一郎は知治の兄伊藤銀次の高校時代の1級先輩だった。兄が高校卒業後1度、妹尾隆一郎と藤本雄志とでコンテンポラリーブルースコーポレーティドと言う。ブルースバンドを組んでいた時期がある。まだ妹尾はハープに目覚めておらずジャックブルースの様なベースを弾いていた。知治の兄銀次はギター以外にブルースハープも披露していたが当時ベーシストだった妹尾は銀次の吹くブルースハープをもの珍しそうに眺めていた。因みにブルースハープに関しては、知治は16才の時から家で1人でギターより早く始めていた。知治はピーターグリーン風にブルースハープを吹いていた。藤本雄志は、このバンドではドラムを叩いていた。練習場所は兄銀次の高校の同級生だった大西氏の家の離れだった。この大西氏は裕福な家のせがれで大きな家に住んでいたため、その離れは度々伊藤銀次達のバンド練習の場所として利用させてもらっていた。元々大西氏も知治の兄伊藤銀次の高校時代のバンドの一員でドラムを担当していた時期もあった。あの時代でドラムは高価なもので、なかなか持っている者が、いないうえ大きな家に住んでいないと練習するにも騒音の苦情もありなかなか買えないものだったが大西氏の家では、それが出来、銀次達は随分彼のおかげで助かった。知治は大学1年の夏休みに帰阪した際、ギター購入資金を稼ぐため1か月近くのビル解体工事のバイトを大西氏の口利きで得ることが出来た。大西氏と一緒に働いた際に随分大西氏には、親切にしてもらい大西氏に今でも良い印象を持っている。現在 太西氏の消息は分からない。その大西氏の離れにはやがてミュージシャンや詩人、ライター、芸術アーティストなど多くのロックピープルが集う場所として変貌していった。毎日毎夜のように人が集まりコミューン化し新しいロックの聖地となり大西氏の離れは通称「病院」と言われ愛された。ミュージシャンだけでなく多くのアーティスト達同士が知り合い活動範囲を広げて行った。福岡風太もここに集まった一人で「病院」に映写機を持ち込み当時貴重なロックフイルムを上映していた。やがて、集まりは、発展し多くのミュージシャン達が知り合い巨大化し福岡風太達は「ビーインラブロック」や「ロック合同葬儀」と言った今ではレジェンドとなったフリーコンサートを開催する事になる。この頃歯科大学を辞めドロップアウトしようとしていた伊藤銀次は学校に残る事を慰留する両親に「親父やおふくろが、今まででは考えられないものが、いま起こりつつあるんだ。それが、正に出来上がろうとしているんだ」とあの時代の事を言っていた。知治は、あの時代の事が全ての原点であったと知る。その後全ての夢は消え去り「病院」跡地(銀次が数年前)に行ったが何もなくなっていた。SSもデイランも今は影も形もなくなった。世の中はあれから半世紀経ったのに何ひとつ良くなっていない。若者達はピースサインを掲げ起ちあがったが改革など起きなかった。悲しいかなあれは若き日の幻想であったのに、あの時のただ心と身体に刻みたいものが、欲しくて生きる精神こそがロックそのものは、未だにそのままと知る。あの時代の体験者は徐々に年老いて亡くなり語る者も少なくなってきている。ロックコミューン化以降 知治が時代のギャップを感じたのは、知治の次の世代の台頭があってからだ。それまで知治が憧れのミュージシャンと言えば 山口冨士夫 陳信輝 洪永龍、加部正義 Paki(ヘビーフレンズ)などロックが商業的に成り立たない時代に現れた先駆者である。金銭的成功を求めロックミュージシャンになる者などいなかった。コマーシャリズムの排除こそがロックの真髄でもあり若者は自由な発想でロックした。ヒットチャートに収まらないような長いアドリブ演奏は3分枠の曲を要求するレコード会社やテレビ業界と真っ向から対立した。この動きは海外が先駆けでアメリカサンフランシスコを中心に大きなロックムーブメントがあった。フリーコンサートで生まれたバンド グレートフルデッド ジェファーソンエアープレイン クイックシルバーメッセンジャーサービスなどがミュージック界の常識を覆しジェファーソンエアープレインのメンバーポールカントナーは「30才以上の人間は、信用出来ない」と言い切った。ロックパワー、フラワーパワーと言われたムーブメントは日本にも上陸し知治達もその洗礼をうけたのである。やがてアメリカで行われた最大のロックフェスティバル「ウッドストック」を最高頂点としロックのスピリッツは衰退しつつも真逆に営業的に金のなるものとして市民権を得ることになる。有名大手レコード会社からアーティストに多額の契約金が支払われて大きなビジネスへとロックは多様化し広がって行った。多くのミュージシャン達は経済的に潤った。知治の住む日本でも同じ事が起きる。日本でもお金が沢山欲しいから ビックになりたいからロックを目指すと言うロック志願者が沢山現れ、知治は時代の流れを痛感する。知治はロックミュージシャンが金銭的に潤う事に何ら矛盾はない。才能豊かなアーティストであれば当然の事と思っている。しかし若者が、その動機として金が儲かるからとロックミュージシャンを目指すのは未だに違和感や抵抗を感じている。知治のそこが既に古い生き方なのかも知れない。生き方と言うより本能的にお金が、あるも無いも関係ないところから始まっているので、そこが、知治の希薄な曖昧なところで若い人のほうが考えが、しっかりしていると知治は思う様になる。知治は夢を追いかけ過ぎたのだろうか。いや人生そのものが、ひとときの夢かも知れない。見果てぬ夢60年後半から70年代にかけてのロックムーブメントが夢であった様に。知治は夢を懐かしんでいるのかも知れない。知治はかねてから「自分は、ウッドストックから止まってしまった」と周囲に漏らしていた。しかし、このまま17のまま生きながらにしてロックに葬られるのも悪い気はしない。70年代当時 夢の聖地だった喫茶店「SS」は大阪梅田阪急東通商店街のパチンコ店の裏路地を入ったところにあった。路地の裏で分かりにくいが、知治達の輝く聖地だった。東京からハッピーエンドや頭脳警察が来てライブした事もある。神戸からはジプシーブラッド 地元大阪からは知治の兄のいるグラスブレインがライブした。SSのすぐ奥には中華料理店「良心亭」がありSS通いの連中はみんなお腹が空けば、ご飯を料理亭に食べに行った。小説家 宮本輝の作品「青がちる」の中で阪急東通り商店街裏パチンコ店の事やロック喫茶店に通ったこと「善良亭」と言う中華料理店などが出てくるくだりが、あり知治は驚いた。おそらく宮本輝は聖地SSに通いその界隈を青春の思い出としこの情景をモデルとし書いたのだろう。宮本輝は関西(神戸)出身。調べてみると知治と同じ関西大倉高校の出身であった。オリジナルマイナーバンドの練習は、この喫茶店「SS」でよく行われた。午後から営業するため朝、練習場所として知治達が、使わせてもらうのだ。SSに、朝いくとアルバイトの店員が交代で寝泊まりしていて扉を開けてくれる。アルバイトの店員の中には、妹尾隆一郎(ウイーピングハープ妹尾、ブルースハープ・故人) 藤本雄志(元ココナッツバンク) PINK(ピンクス・故人)や時に伊藤銀次も昼間臨時で、バイトしていた。知治と大川マコトは練習好きでバンドの練習には朝早くからSSに、ギターケースを抱えてやってくるのだが、他のメンバーが、知治達より年上で、とは言っても4~5つ上だから21~22才で今から思うとその若造が寝坊したりで出席率が悪くそこからバンドは徐々に崩壊していく。メンバーが揃わない時は、SSに泊まりこんでる店員の中にミュージシャンがいれば引きずり込んでセッションした。jÒHNと名乗るギタリストや遊びに来たkajaが臨時でドラムを担当してくれたり藤本雄志やブードウチャイルドの荒金富雄なども見に来てあちこちサウンド面を指摘していた。知治が、kajaと出会う前、バンドの練習後 マコトと一緒にマコトの家に遊びに行くとkajaことカメさん(当時のあだ名)がマコトより先にマコトの家に遊びに来ていた。知治は音楽では大川マコトの兄貴分がkajaであるとこの時知る。そこで大川マコト、kaja,知治3人でセッションし30センチの距離で見たkajaの巧みなギターとブルースハープに知治は刺激を受ける。この時 kajaは、持っているレコードがⅯⅭ5のライブ盤1枚だけでギターを弾けるようになり、ブルースハープに至っては、その70年8月「ロック合同葬儀」大阪城公園であったフリーコンサートで拾ったという リトルウオーターのレコードを聞いてブルースハープを吹ける様になったと聞く。kajaは、レコードを拾った時は何が何だか分からず傍にいたのがフリーコンサートに出演した知治の兄伊藤銀次で「これ何なの?」と銀次に見せたら伊藤銀次が「ブルースハープの第一人者」とkajaに教えた。そのKajaの直ぐにモノにする感の良さには知治17才にして最初の衝撃を受ける。しかしその衝撃とはその後の知治の人生では序の口であったと、知る事になる。やがて知治は、多くのミュージシャンを知り天才があちこち、そして新たな天才に会うたびに、上には上がいると知る。そこから知治は自分のアプローチを考える様になった。自分の出来る事を可能な限り際限なく追求する事だと。kajaと出会ってから知治はKajaのライブやバンドの練習によくくっついて行った。知治は少しでも自分より優れた人のプレイを見て吸収したいからだった。その頃は「明日どこそこのキャンパスで面白い事がある」と言われて行ったらフリーコンサートだったりそれが、あちこちの公会堂であったりとか、京大西部講堂などは、しょっちゅうフリーコンサートをしていた。kajaのライブパフォーマンスを見るために知治は弟子の様に、kajaについて歩いた。1日2件会場を回った事もある。知治は出演するわけでもないのに、どこでも重たいハードケースに兄銀次からのお下がりであるブルーのエルクのテレキャスターモデルのエレクトリックギター(このギターは後日、中川イサトに3000円で譲った)をしまい腕に抱えてkajaについて歩いた。知治はいずれこの安物のバッタもんギターを手放し中川五郎から5千円でヤマハのセミアコを購入し以後長く壊れるまで愛用した。kajaには弟子の様について歩くことで、会場到着から客席を通らずひっついて楽屋へと入る。どこでもその待遇は、まだ若くてガキであった知治には嬉しく思えた。そうしていると運よく僅かな時間でもkajaからギターの手ほどきを受けれる事もあった。それだけのためにギターをどこにでも知治は、持ち歩いていた。知治が若い時に、そんな付き人の真似ごとをしていた相手があともう1人いる。その名は、ギタリストとしてkajaも一目おいていた男、藤本雄志である。藤本雄志は、当時の知治の目から見たらkaja以上の天才だった。藤本雄志は、ごまのはえ~ココナッツバンクまで兄伊藤銀次にメンバーとして帯同した。藤本雄志は、ギターだけでなくベース、ピアノ、ハモンドオルガン、ドラムからボーカルまで何でも器用に、こなせるマルチプレイヤーだった。しかし大瀧詠一のところに兄銀次と行った後に藤本雄志は、この世界を引退している。知治がハートリーチプレイス制作で最初からkajaに接近しなかったのは、もうkajaは、ハイウェイ時代の様なロックを捨ててしまいレゲエに転身していたからだ。知治のたっての頼みにkajaは、まずデモテープを聞いた後で「分かった俺に、ポールロジャースになってくれと言うんやな」と答えた。ポールロジャースとは、Kajaが、レゲエ転身前に、影響受けたと言われるブルースロックの名ボーカリストである。70年代フェイセスのロッドスチュワートをしてフリーのポールロジャースこそイギリス最高のボーカリストと言わしめたポールロジャースだ。知治は確かにそのポールロジャースの線をkajaに狙っていた。しかしサウンドは夭折したギターリスト、ポール・コゾフのいたフリーでは古いと思っていた。ポールロジャースのエキスをもらい新しいビートを感じるものを知治は打ち出したかった。kajaには「サウンドは、こちらに任せてくれ、何も考えずひたすらポールロジャースになり切って思う存分やってくれ」と伝えた。知治は早速島田昌典に連絡した。「kajaにオーケーとれた。フィリップベリーにフィルコリンズだイージーラバーだ。」「あんな前にスコーンと出るビートが欲しい。それにKajaの湿り気のあるハイトーンボーカルなら今までなかったものが出来る。」と言い切った。知治はあとは、ここにもいた天才。島田昌典に任せるだけだった。知治の軌道修正の速さに島田昌典は驚いた。そして知治の柔軟で好奇心があり恐いモノなしに何でも受け入れやってしまうところは、クリエイティブルな仕事をしている島田昌典として見習いたいと天才に褒められた。知治は素直に喜んだ。ハートリーチプレイスで知治は、何度も軌道修正している。タッチアップスタジオからスタジオウインズに来た時に持っていたデモテープ中スタジオウインズでプレイした曲は「Good bye」 「sad hearted woman」 「nomore lonely night」の3曲のみであとはプレイする度に次はどんなタイプでいくか決めてから新たに曲を作ってレコーディングしていた。そのほうが、時代感覚に合うものが出来ると知治は思ったからである。島田昌典と会い今までと別タイプの曲を書いてあれやこれや試してみたくなっていた。ほとんど1~2日で知治は新曲を書き上げていた。ソングライターとしては、知治は自分の腕に自信を持っていた。ニーズに応じて直ぐに書き分けられるのだ。楽器はテクニック維持の為たゆまぬ練習がいるが、本職が他にある知治は忙しく練習不足になりがちで、そこで職業ミュージシャンと差がついてしまう。しかしソングライティングの世界は、メロディやアイディアが浮かぶかどうかだけなのでいくら普段音楽に携わっていなくても一夜にして何マイルも差をつけられていた職業ミュージシャンの横に並んでしまう事が、出来るのだ。島田昌典から知治に次は、「アップテンポでブラスの入った曲をお願いします」と注文され知治は「Darling」をセッションに合わせて一晩で書き上げた。別の日は、島田昌典から「次はカチカチのニューヨークぽいことが、したい。デヴィドサンボーンみたいな曲が欲しい」と言われた。知治は、それを聞いて「今、時間良かったらスタジオに行くから作ろう」と言いスタジオで、知治はマイク1本だけ使いメロディを歌い島田昌典にエレピで伴奏させ「Ⅽool as hot」を20分で書き上げた。島田昌典はKajaの参加曲を打ち込みしトラックを作った。そのトラックでのレコーディングをkajaは、嫌った。理由は「生音で、したいから」ここで島田昌典は、プロデュサーとして彼の切り札を出す事に、なった。当時島田昌典が、心血注いでいた島田がリーダーであるバンドメンバーをスタジオに連れて来たのである。島田昌典のバンド エキスパンションから島田は、ドラム、ベース、女性シンガーを連れて来た。ここで「打ち込みなしで生音一発取りでレコーディングしよう」となる。曲は「ヘルプミーロード」あえて全員で1回だけのトライとしたのは、ライブと同じ意味をなす。自分だけミスしたからもう1度はない。1人が納得するまでしても付き合う他のメンバーのクオリティが、下がっていくからだ。録音は、ざっと通しで、1回リハーサルしただけで、1発取りで決めた。全員が渾身の1発だった。これ以上でも以下もない(ヴォルテージは上がり過ぎても下がってもいけない)最高極地で留め切る本能をもち備えた者だけが集まって出来る1発必中だった。録音後いつもクールなエンジニアが録音ブースから最高の出来に興奮してヘッドホーンを外し忘れ、熱気のまだ残るレコーディングルームに「凄かった!」となだれ込んで来たほどだった。知治と島田昌典のつき合いは、真面目な話だけでなかった。一度島田昌典の車のペインティングを知治が頼まれやってみたが上手くいかず車の外観を台無しにしてしまい2人顔見合せて笑うしかなかった事があった。島田昌典は当時、お金がなくそのまま、そのあまり似てない説明しないと分かりにくい。スティーヴィー・ワンダーやボブ・ディラン、ジョン・レノンのイラストが書かれた中古の小さなバンにながく乗っていた。2人共失敗作のイラストの書かれた見るのも思い出して嫌な、そのバンに徐々に見慣れだし知治も島田と一緒にその後、バンの助手席に乗り込み近くのケンタッキーフライドチキンに食事に行っていた。 仲豊夫は知治の診療所の院内旅行に歯科助手も参加するのを知り旅行の運転手に立候補して旅行に着いて来た事もある。公私共に親しかったメンバーと作る知治のアルバムのプロデュースは、島田昌典が、買って出てくれた。島田昌典は当時エキスパンションやヒューマンソウルの中心メンバー。また日本を代表するギタリスト渡辺香津美と共にテレビ番組「夢の乱入者」にも出演し渡辺と共に竹中尚人(チャー)とも共演し既に関西にいた頃より頭角を現していた。スタジオウインズでのアルバム作りは、始めは、島田昌典以外にモントルージャズフェスティバルでマイルス・デイビスや世界のミュージシャンと同じステージに立ったアルバトロスのキーボードプレイヤー光森英毅とのダブルプロデュースだったが途中から知治の意向により全プロデュースを信頼する島田昌典に委ねてアルバム「ハートリーチプレイス」は完成した。 後にシティレコードからCDは発売されることとなった。このアルバムで島田昌典は、ヒューマンソウルで島田と共演していたホーンセクション(当時矢沢永吉のツアーメンバーも含む)をそのままスタジオに呼び知治のアルバムに色を添えた。ハートリーチプレイスでの知治の誇りは、このアルバムは参加メンバー全員が、ノーギャラ友情出演であったことである。当時はCDプレス代が今よりも高くこの規模でアルバム作りはスタジオレンタル料も含め相当の赤字が出るのが明白だった。それをあえて承知のうえ敢行した知治をメンバーが思ってくれての事だった。しかし知治からのメンバーへの感謝は知治主催の打ち上げとしてアルバム制作前、制作中、制作後に関わらず未だに語り草となる程半端ない数行った。勿論行けば、一晩中朝までハシゴ酒は必至であった。 島田昌典は、この後この大阪での楽しい日々を思い出に上京し、いきものがかり、アイコ、スガシカオ、スターダストレビュー などのプロデュースで高い評価を受ける。島田昌典は彼個人としてテレビ「情熱大陸」でも紹介されている。その時の動画はYoutubeで見れる。知治のアルバム制作には人伝いに多くの賛同を得て実際には知治自体が把握出来ないほどの協力者が集まった。ある日アルバム制作のプレイヤーやシティーレコード幹部らといつもの様に打ち上げをし2~3軒回り次の店に行く途中、島田昌典や仲豊夫に促され振り返ると後ろに途中合流のアルバムスタッフらしきものが総勢30人ほどいて驚いたほどである。 知治は、1991年ソロアルバム「ハートリーチプレイス」完成後は暫くライヴ活動やFM出演(ラジオライヴ、インタビュー等)また知治と同じシティレコードに所属のグループ、ザ・クラブのリーダーでありベーシストの山本正明らとフォークシンガー中筋博治のライヴツアーのバックミュージシャンとしても参加。ライヴツアーにて山本正明とは寝食共にする音楽活動を行う。しかし1992年、酒に酔った音楽関係者の思い違いから知治ソロ名義のライヴ活動に不手際が起こり音楽ではなく音楽業界に、はびこる「ウジ」に嫌気が、さして「以後人前では2度と演奏活動しない」と決め1人で自分のためにギターを弾く生活に戻る。再び歯科治療1本に明け暮れる2004年5月に「ライヴ見に来ないか?」と春一番ライヴスタッフに誘われ春一番コンサートに遊びに行く。その時、楽屋にいた出演メンバーは、今は、亡くなったかたも多いが、忌野清志郎、シーナ&ロケッツ、石田長生などのそうそうたるメンバーであった。そこで出逢った東京から来た矢野誠(キーボードプレイヤーであり矢野顕子の元ご主人)と矢野顕子論や哲学の話をしていたら同じく矢野誠と一緒に来ていた布谷文夫(その頃はナイヤガラレーベルで大滝詠一プロデュースによりアルバム発表済み、現在は故人)から「バンドを組もう」と誘われる。 またまた封印していたロックへの熱い血が騒ぎ出し抑え切れず「これで長い「ミソギ」は終わった」と新たに区切りをつけ今度はもっと妥協することなく打ち込んでロックする決意をする。12年ぶりにロックシーンに出ることになる。 ボーカリストを布谷文夫でアルバムを制作するため前作ハートリーチプレイス制作時のメンバーを招集する。兄の伊藤銀次がその時「何と凄いメンバーと知治は、プレイしているんだ?こんな素晴らしいメンバーが揃うなら自分がプロデュースしたい」と参加を名乗り出る。 アルバムは完成したが布谷文夫のコンディションが悪く、知治個人が納得出来なかったためお蔵入りとなる。布谷バージョンが、没となり新しくヴォーカリストを探しレコーディングする事になる。それでも知治の兄銀次は、ギリギリ迄、布谷バージョンを使用しアルバムを発売する事を知治に勧めた。兄銀次は、かさむスタジオ使用料等を考えると、これ以上の知治の金銭的損失を食い止めたいと思っていた。布谷バージョンならアルバムセールスの点でも固定の大瀧詠一のファンを中心としたナイヤガラーによるアルバム購入が見込めるからだ。プロデュサー伊藤銀次は、今まで沢田研二、佐野元春、ウルフルズ、アンルイス、浜田省吾など数多くのヒットアルバムを打ち出してきたプロ中のプロとしての冷静な目を持っていた。兄としても苦労してきた知治に、この辺でアルバムのヒットと言うプレゼントを渡したいと思っていた。しかし知治は布谷バージョンは、到底承諾できる内容でなく「少しくらいアルバムが売れお金が回収出来ても、ここで妥協してアルバムを出したら今までの苦労が何のためにしてきたか台無しになる。一生後悔する事になる」と言い切り兄の説得に首を縦に振ることは、なかった。兄銀次は、知治が、このボーカルテイクの見逃す事の出来ない部分があちこちあるのも勿論細部にわたり把握していた。その事を理解しての説得だった。布谷文夫の友人である音楽評論家からの情報で布谷文夫参加の作品が伊藤銀次、知治の作詞作曲、編曲の元作られていると流れたことがあり一部ナイヤガラーにも伝わった。しかし知治は作品が出来たにも関わらず捨て去った。最近ナイアガラーの集いの様な催し物に知治の兄銀次が呼ばれ1部ファンから、「どこかに故布谷文夫最後のレコーディングテイクが残っているそうだ」と言われ銀次はあの知治が没にしたテイクの事だとすぐ分かりかたずを飲んだと言います。のちに銀次は、知治について「不器用に、ひとつの事を突き進めていくひたむきなロックへの姿勢は真似出来ない。しかし知治が自分と同じ世界に、もし来ていたら名前が、ある程度出たとして認知されてもそれ以上に、あの知治の尊敬していた山口富士夫の様に、一生大変な苦労をする事になっただろう」と評している。ライブで知治と共演した際も銀次は、知治のギターワークについて「あのミディアムテンポやスローテンポの曲で、まるで地べたから徐々に頂点目指して構築し高まって行くギターフレーズとタッチは、あの手の仕事をさせたら俺は、歯が立たない」と手放しで知治を褒めた。 新ヴォーカリスト探しが始まり、ロック界の大物、山口冨士夫や日本ロック創世記のレジェンド、ツゥーマッチのジュニラッシュらとミーティングを重ねた。 半分以上ジュニラッシュに決まりかけていたが、結局ボビー原の追悼ライヴで出会った最高のベーシストでありヴォーカリストの天野Shoにヴォーカルは、決定した。天野SHOは綾戸智恵やBOWWOWのギタリスト山本恭司、BORO、桑名晴子らとも競演を重ねてきた実力派ミュージシャン。 レコーディングは再開しアルバム「グレートロックシティ」は完成する。因みにドクタービート&クランケの名付け親は、伊藤銀次である。知治は神戸出身の天野SHOを通じ神戸のミュージシャン達とも知り合う事が出来た。神戸に上屋劇場と言う本物の劇場跡に出来たライブハウスがある。そこで知治は、エディブーケンショウと言う神戸で古くからあるバンドの名ギタリスト「ブーケン」こと山下賢一とセッションした。その時のベーシストは勿論天野SHOだった。グレイトロックシティー制作前の挨拶代わりのセッションとなった。天野SHOは半径1キロ以内に住んでいるミュージシャン仲間のロメルアマード(元桑名正博&ファニーカンパニーギタリスト)や島田和夫(元憂歌団・故人)を知治に紹介する。3人はネイバーズと言うバンドもしていた。3人とも大の野球好きで勿論阪神ファン。天野SHOは、ランディバース(アレン、マットキーオ)時代の阪神の通訳をしており全国を阪神タイガースに帯同した経験がある。好きが高じてロメルアマードと島田和夫は家庭用の野球ゲーム盤でチームを作り本当に年間約130試合こなし全スコアをノート付けしている。天野SHOが2人が野球ゲームしてるのを覗きに行くと2人とも野球のユニフォームを着て身を乗り出してゲームに興じていたそうだ。知治も小学校の頃、兄銀次と記録をつけて野球ゲームしていたのを良く覚えている。規制球団だけでは面白くないとして特別編成チームまであり、その特別編成チームの代打に兄銀次が作ったコマ「天皇陛下」が代打サヨナラ逆転ホームランを打った事がある。CDは完成したが完成直前にメンバーのボビー原と山本正明が癌で他界。山本正明はCDのプレス中に亡くなったためⅭDのライナーノーツにボビー原への弔辞は述べれたが、山本には出来なかった。80年代は知治と山本正明は同じシティレコードに属していた。居酒屋で仲豊夫に山本正明を紹介してもらい以後は、知治と山本は意気投合した。山本正明は小坂忠や「プカプカ」や矢沢永吉の「黒く塗りつぶせ」の作者である西岡恭蔵のベーシストとして人気を博していた。山本正明はハートリーチプレイス初ライブでボビー原をステージに上げ知治に紹介した。知治のハートリーチプレイス発売後に山本正明のバンドと一緒に京都磔磔でジョイントライブも行っている。それ以来の関係もあり、アルバム完成とライブを待ち望んでいた山本正明を思うと未だに知治は気にかけており次のアルバムで山本正明に捧ぐ曲を1曲入れるつもりでいる。山本正明の後釜としてハートリーチプレイスで一緒にやった三原幸輔をベーシストとして補充し島田昌典にビアノ以外ボビー原のパートであるオルガンも受けもってもらい、完成したアルバムを引っ提げてライヴ活動を始める。東京に住む島田昌典は体調悪い布谷文夫のレコーディングの際も自身所有のグレートスタジオを知治に提供してくれ島田の知るエンジニアも手配して布谷が地元東京で歌入れ出来るよう手配した。兄銀次がプロデュサーとして布谷のレコーディングに立ち会った。島田も大阪の知治の代わりにレコーディングの終始を見届けた。その島田の協力の甲斐もなく後に布谷テイクは没となるも天野Shoボーカルでアルバム完成後も島田は東京からわざわざ知治のライヴに参加してくれた。アルバム・グレイトロックシテイの完成ライブでは、知治は2人のドラマー浅川じゅん、小林健治の両人に参加を呼びかけたが、小林健治は都合で参加出来なかった。小林健治ほど音楽が嫌いで普段音楽を聞かず譜面も家に持ち帰らず演奏本番当日にやって来てぶっつけで信じられない正確なドラミングで全ての事をいとも容易くこなしてしまうドラマーは、類を見ない。小林健治は、あのハービィハンコックのバンドにいたベーシスト・ポールジャクソンとユニットを組んでいる。小林健治は自分は「特別に音楽が好きでないが誰よりも上手くドラムが叩けてしまうから音楽をやってるだけ 俺は本当に音楽が嫌いみたいだ」と言っている。何と言う話だ。知治は小林健治の才能には果てなくただただ羨ましい限りだった。知治は30代の頃、よく小林健治や仲豊夫らと酒を酌み交わした。十三界隈の居酒屋でよく飲んだ。十三と小林健治の家は近かったが、時々ミナミから遠征して山本正明も知治が小林健治、仲豊夫と飲んでいる席にやって来た。十三には80年代当時「あかおに」と言う居酒屋によく行ったものだ。小林健治が2008年の知治のライブに参加出来なかったのは、東京で宇崎竜童のニューアルバムに参加するためだった。酒を酌み交わし分かったのは小林健治は知治の関西大倉高校の後輩だった。知治は、小林健治に「グレートロックシティは完成したもののⅭD1枚作るに、8千円かかった。それを2500円で売っているんだ」と言うと小林健治はこう言った。「だったら宇崎竜童さんと同じだ。宇崎さんも俺が参加しているⅭDは先生(小林健治は知治を先生と呼んでくれている)と同じで自費出版している。1枚8千円かかったと言っていたわ」と知治は小林健治から教えてもらう。宇崎竜童は山口百恵を始め他人に曲を書き今までヒットを連発し商業的にも成功しレコード会社のニーズに答えてさんざん仕事をしている。自費出版して今度は自分のやりたいものを作り出したいのだろう。知治は自分の作ったⅭDを最近の購買者がレアな廃盤としてアマゾンなどの通信販売で時折1枚1万8000円~2万円の高値で買われているのに心を痛めている。知治のハートリーチプレイスは 島田昌典のブレイク前のプロデュース作でありボーカリスト橘いずみ(現在 榊いずみ)のCBS・SONYでのブレイク前(橘は知治の診療所でバイトしていた事がある)の録音である。その理由だけの不当に高い価格には心痛めるものが、ある。「ロック愛好者でない1部のダフ屋まがいの連中のために俺は散財し命がけでアルバム作ったのでないから」と知治は嘆く。知治は「グレートロックシティも大手レコード会社からの発売でないほど購入しにくく後でひょっとして値打ちが上がるかも知れないから投資のため開封せずに置いておく」と言う購買者に出会った。買ってもらう以前にそう聞かされた以上「開封して聞いてもらえないものなど売るわけにはいかない」と断った。買う以上消費者の勝手だ。しかし知治も8000円かかったものを2500円で売るスピリッツ。プライドがある。2008年ライヴ活動しだして知治は、すぐに癌を発症し長い闘病生活を強いられる。長い闘病の末に2016年レベル4の末期癌は完治し新たに新作アルバム制作のため作曲とレコーディングを開始する。2018年に新規癌の発症も再度克服しアルバムは完成。現在ライブもふくめ精力的に活動を続けている。 動画はYou Tube「ドクタービート&クランケ」でクリックよろしく。
テーマ: それからのロックマイウェイ 伊藤知治
入院・闘病生活
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