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横浜の海の近くで二人姉妹の姉として生まれる父は、ガス関係の会社を経営しており母もその会社で一緒に働いていた3歳でピアノを始める耳が良かったのですぐに音を覚えて弾いた先生が、事前に曲を聞かせないで、と言うほどだった2年生の発表会ではブルクミュラーのアラベスクを弾いたがその発表会を最後に一度ピアノをやめるなんでも私と比べられるのが嫌だった妹がピアノをやめたのがうらやましかった、、、のだと思う4歳の時にバレエを習う当時の私はよく熱を出していたらしく心配した母が体の強い子に、とバレエを習わした美しい音楽で踊るバレエに夢中になったピアノもバレエも練習は好きではなかったがとにかく本番が好きだっただから発表会前になると俄然頑張った幼稚園は挨拶が「ごきげんよう」のカトリックの幼稚園へ年長になると演じる聖劇でマリア様候補になったがクラスで一番背の高かった子に決まりハートブレイク・・・幼稚園で仲の良かった子がみんな私立の小学校へ行くと知り模試を受けに行ったが、問題がテレビで出されて混乱会場で大泣き・・・そんなで小学校は地元の学校へ入学式にみんなが「おはようございます」と挨拶したのをきいてみんなどこで打ち合わせしたの?とびっくりした小学2年のとき近所の友達に誘われ合唱団に入る入団試験では低い声から高い声まで出たので『君は将来歌い手になるね』そのときの先生の言葉がずっと心の何処かに残っていた4年生になり別のピアノの先生のところでピアノを再開そこではソルフェージュや楽典も勉強させられた運命の出会い!その頃転校してきた子がピアノがとても上手で、すでに音大を目指していたその子とは物凄い喧嘩もしたがなぜか馬が合い、よく遊んだ5年生のときその子から宝塚の舞台を観に行かない?と誘われ宝塚がどんなものかも全く知らずに行った席はなんと前から2列目!オーケストラボックスの前に作られた銀橋に宝塚のお姉さんたちがずらりと並んで、あれはドーラン匂いだったのか?ものすごくいい匂いが漂ってきて『ああ、ここに行ったら私の好きなことが全部できる!』そう思った中学生になり宝塚熱が絶好調!例の友人と毎日宝塚談義やら宝塚愛を書いた交換日記をしたりと楽しかった中学2年のときに初めて同じ作品を2度観る経験それをみた母から、同じ作品を2度観るなんて理解できない、と言われたなのでそれ以降は親に内緒で、親が起きる前に置手紙を残して宝塚を観に行った東京宝塚劇場近くの日比谷公園でプログラムを見ながらひとり宝塚観客はその友人このときも耳の良さが役立ち一度観たらほとんどの曲を覚えられた学生生活では本来なら部活をしないといけない中学だったが習い事が多かったので逆に迷惑がかかる、と免除された宝塚に入りたい!そう思い始めたころ、ピアノの先生が私のソルフェージュの声を聞いて『あなたは歌をやったらいいわ』と言い歌の先生を紹介してくれた渡りに船だった結局、その先生では無かったものの母の参加していた合唱団の指揮者の先生に自宅へ来ていただき宝塚受験に必要だったコールユーブンゲンやコンコーネイタリア歌曲を教えてもらった中学3年のときだった宝塚は中学3年から高校3年までの4回だけ受験するチャンスがあると知り宝塚を受験したいと母に話すと神奈川県立横浜緑ヶ丘高等学校に合格したら受けてもいいわよ、と言われたそこは学区のトップ校だったそのときまで特に勉強はしなくても成績は悪くはなかったしかし緑ヶ丘に入るとなるともう少し内申の点数が必要と言われ塾に通いだし試験勉強をするようになった結果成績爆上がり見事合格を果たし「これで宝塚が受験できる!」と嬉しかった高校へ行くとそこはやはり進学校だけあってみんなよく勉強していた試験も一夜漬けでなんとかなるものでは無かったでも「わたしは宝塚へ行くんだから」とあまり勉強しなかった部活はもちろん帰宅部だったがクラスメイトの男子に『うちのバンドのヴォーカルやってくれない?』と言われ学園祭やライブハウスで歌うようになった初めて人前で歌う経験だったそして高校1年の3月遂に宝塚を受験!結果は不合格今思えば落ちて当たり前という状態だったが、当時のわたしは何を血迷ったか「わたしを落とす宝塚なんて大っ嫌い!もう二度と観ない!」と進路変更ずっと続けていたピアノの先生からは歌科で音大へ、と言われていたがどうせ大学へ行くなら、と普通の大学を目指し受験勉強を開始しかし、それまで勉強をおざなりにしてきた代償は大きく受験も失敗周りが行くから自分も行けると思ったら大間違いだったそんなのんきな考えは浪人中も変わらずまたもや全滅さあどうしよう?と二次試験で受けた2校には満点で受かり国際政治や経済を学べる大学へ進学した進学した先は女子大時はまだバブルの恩恵が残っていた時期華やかな洋服を身にまとったクラスメイトを見て「好きな服を着ていいんだ!」とファッション熱解禁毎日色々なテイストの洋服を着て学校へ行った7歳の七五三のとき、着物を着た自分が嬉しくて夜まで脱がず中学の時は宝塚の男役さんにあこがれて男の子のような格好をし高校時代は制服指定が無かったので他の学校の可愛い制服を着て行った学校帰りに毎日横浜でウインドーショッピングをするのが大好きだった今まで習い事で埋まっていたスケジュールは華やかなスケジュールへと変わり楽しい日々を満喫した週3で合コンやダンスパーティーの要員で呼ばれインカレサークルに入って慶応のバンドヴォーカルを努めたりルックスが好みだった東大生ともお付き合いした(のちに夫となるがそれは10年後)そんな生活を続けていたある日「何か面白くないな。ん?わたしは宝塚に入りたいと思っていたけれど、歌ったり踊ったりしたかったんだ!」と本来の望みを想い出し再びミュージカルの舞台を目指しはじめるところが、オーディションは書類審査すら通らない書類が通過するためには?と考えた結果ポップスシンガーとしてデビューさせてくれるという事務所に所属したそこでは与えられた曲にわたしが詞を付けレコーディングをしたその後待てど暮らせど連絡が無く、事務所を訪ねたらもぬけの殻だった騙された?倒産した?真相はわからないまま手元には再生もできない音源だけが残ったその後わたしはアナウンサーになろう!とアナウンサー学校へ通った先生から『君は声がいいから記事の内容より声を聞いちゃうな』と言われた地方局なら受かるだろう、と言われたがキー局とNHKを受けてわたしのやりたいことはアナウンサーでは無かった、と気づいたさあ、就職はどうしよう?と思っていた時ゼミの教授から『君は明るいから流通が向いてる』と言われ路線変更するとびっくりするほど順調に審査がすすみ総合職として一部上場企業の内定を貰った歌手の道も無くなりアナウンサーの道も無くなったこれから会社員になるんだな、と卒業式を待っている休み期間大学へ一度来てほしい、との電話忘れ物でもしたかな?と父に車で送って貰い学校へ行くと『4年生の必修単位が一個取れておらず卒業できません』との宣告とんだ忘れ物をした帰りの車の中は父の哀しみでいっぱいだった内定を貰っていた会社へは謝罪に行き単位を落とした教授宅へは理由を聞かせてほしいと伺ったが開示の義務は無いと言われた父から「もう就職はしなくていい!もう一年大学に行き卒業後はうちの会社で働きなさい」と言われた優しい父だったが、故に父が決めたことは絶対と考えていたその一年、授業のない日は父の会社で働き、ガス関係の販売資格や設備士の資格を取ったガスの配管設計やねじ切りも出来るようになったそんな生活を送っていたある日、家で新聞を見ていたら元宝塚トップだった方が劇団を立ち上げるにあたり劇団員を募集するとの広告あの方の劇団なら!とオーディションへ行った3年ぶりに踊って身体はバキバキだったけれど、準団員として合格を貰えたその結果を聞いた母が『ずっと軌道修正しようとしてきたけど、結局あなたはそこへ行ってしまうのね』そうつぶやいたそれから劇団でレッスンの日々が始まった週5で様々なレッスンを無償で受けさせてもらった教えていた先生方はいわゆる日本のショービジネスの第一線で活躍されてる方だった少しずつお仕事をさせてもらうようになった踊るのって楽しい!歌うのって楽しい!そんな矢先バブルが崩壊劇団は運営が厳しくなり解散また路頭に迷ったが、新人歌手の仮歌レコーディングやCMソング入れテーマパークでミュージカルに出演するなど芸能の仕事をするようになった東宝ミュージカル「オズの魔法使い」にも出演、ドロシーは安達祐実さん初めて観てあこがれた宝塚の舞台に2番手として立たれていた寿ひずるさんの代役にも選ばれてイーさんにとても可愛がっていただいたこんな日がくるなんて!歌で仕事をするようになると、自分の声の音色が色々あることに気付きどの声で歌ったら良いのだろう?とヴォイストレーナーの先生を紹介して貰った初めてのレッスンでその先生は『オペラを歌ったほうがいい。次のレッスンまでに椿姫のアリアを練習してきて』観たことも聴いたことも無かったオペラのアリア1週間で必死に練習したそのアリアは20年以上経つ今でも歌い続けているなんて奥の深い世界もっとミュージカルの舞台に立ちたい!その思いで始めたオペラだったが『藤原歌劇団受けてみたら?』先生の一言でオペラ歌手育成コースをダメもとで受験してみたらなんと合格昼はテーマパークで歌い踊り、夜は研修所へ通い2年後藤原歌劇団の団員となったオペラの楽曲は今まで歌ってきた曲からはけた違いに難しかったそのために芸大出身の先生を紹介してもらいクラシックの発声を教わったその先生の声の美しさ、生き方に感銘を受けた先生に教えていただくと、歌えなかったところがどんどん歌えるようになったオペラの世界に魅了されていった先生は人生のこと、音楽のこと、たくさんのことをわたしに教えてくれわたしのライフモデルとなった先生はご結婚もされお子さんもいらしたのでわたしも結婚を決断し、ミュージカルからオペラへシフトしたわたしのオペラの世界はどんどんと拡がり「世界をみてみたい!」とイタリアへカルチャーショック!イタリアでは見るもの食べるもの言葉、何もかも新しいことばかりその出会いの中から価値観が大きく変化したイタリアでは待っていたら何事も事は運ばなかったすべて言わなくてはならなかった言わないとチーズ一つ買うことも切符も買えなかったそして何よりも素晴らしかったことは、イタリアの先生のお弟子さんたちの声は聴いているだけで心が震えるということその声を聴きたくて一日中他の人のレッスン室を聴いていた同時期、夫はボストンのハーバード留学が決まりわたしも一緒にボストンへ渡ったまたまたカルチャーショック!イタリアでは綺麗にしていないと人生が良く運ばないのに対してボストンでは身を守るためにTシャツGパンで過ごした歌の勉強を続けたかったわたしは何度も大西洋を行き来した2年後、夫の帰国に伴いわたしも日本へ帰国直前に受けたシミオナート国際オペラコンクールで3位を受賞することができた帰国した年末、母が脳幹出血で倒れた母の死が現実味を帯びて頭をよぎった時母に子供を見せてあげたい!そう思ったオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』のリハーサル中に妊娠が判明したリハーサル中演出家ミヒャエル・ハンペ氏が『モーツァルトはダブルミーニング!もう一つの意味を歌いなさい』と言っていたのが印象に残り子供の名前は日本語とイタリア語で意味を成すようつけた生まれてきた子は大仏のような顔をした大きな男の子だった9カ月になるころにはベビーサインで意思疎通ができるようになり2歳になる前には足し算引き算ができるようになった絵本の読み聞かせは毎日40冊以上息子の「教えて!教えて!」の要求に毎日へとへとだった夫は海外出張が多く、帰宅も夜11時は当たり前わたしが我慢すれば わたしさえ我慢すれば いいお母さんになりたい!そんなある暑い夏の夜ものすごい息苦しさに襲われ動悸が激しくなり怖くて救急車を呼んだ過呼吸だったこのときから自分の内面との対話をはじめた息子は育つにつれどんどんこだわりが強くなり良かれと思ってしたことが裏目に出ると彼は1時間でも泣き叫んだほっと一息つけるのは息子が寝ている時だけ歌の練習なんてできなかったそんなとき夫に海外転勤の話しがもちあがった言語習得の早かったこのこだわりの強い息子をある程度の年齢になってから知らない言語の国へ連れて行くのは酷かもしれない環境に慣らすためにもとインターナショナルの幼稚園へ通わすことにした彼は言語習得に長けているのか英語もどんどん読み書きできるようになった気持ちを伝えるのはしゃべるより手紙のほうがよさそうだった4歳になるころには一人で本を読めるようになった読み聞かせのリクエストが無くなり少し楽になった子供を産んで良かった! 愛おしい!そんな感情が芽生えたとともにこの子を失ったらわたしは生きていけないもう一人子供を産まなくては!恐れから二人目を授かった順調だった一人目とは違い二人目は過酷な妊婦生活だった5カ月のときに出血し緊急入院早期破水だったおなかの中で命が消えてしまうかもしれないという恐怖はこんなにも恐ろしいものなのか一晩中板の上に寝かされているような感覚とともに恐怖で一睡もできなかった意識がもうろうとしてきたとき光があふれる夢をみたその後破水は止まった管につながれご飯も寝たきりで食べなくてはならない絶対安静の入院が2カ月続いた一日中見えるのは天井だけ窓際のベッドに移った時「空が見えるってこんなにも素敵なことだったんだ」と気づいた二人目の出産は緊急帝王切開だった術後、傷跡を見たら「こんなに切るんだ」もっと軽く考えていた子供が無事生まれてくるのは当たり前じゃない命はすべて奇跡の連続なんだ生まれてきてくれて本当にありがとう夫の海外転勤はわたしの長期入院のため見送られそのうちに行かなくてよいことになった現地の学校へ入学予定だった息子は個性的で英語もよく話せたのでインターナショナルの学校を勧められ受験し合格をいただいた小学校で集団生活がはじまるとクラスメイトとのトラブルが増えてきた学校からしょっちゅう呼び出しがきた担任の先生と校長先生からカウンセリングへ行くよう勧められた息子を育てながら「普通ではないな」と感じてはいたかかりつけの小児科医に紹介状を書いてもらって児童精神科を受診先生からの言葉は『いわゆる天才型アスペルガーですね』『脳の機能の問題なので治ることはありませんし、好きなことしかできませんよ』好きなことしかできない?障害?こんなに意思疎通もできて普段は穏やかで優しくてそれなのに障害?わけがわからなかったそんな時わたしを救った言葉は『本人が困っていたらそれを障害というんですよ』というものだったそうか!彼は困っていたんだ!今までの出来事が腑に落ちたなんでもがんばれば出来ると思ってきた出来ないのはがんばってないからだと思ってたわたしはコミュニケーションの仕方、発達障害に関して、心の仕組みギフテッドの教育など色々学び始めたその過程でどんなことがあっても生きていればいいできないことを頑張るんじゃなくて やりたいことを頑張る子育ては『幸せを感じる力』『生きていく力』を教えることそのためには親が幸せに生きること親がやりたいことに挑戦し続ける姿を見せることそんな想いに行きついたわたしは今も舞台が大好きで音楽が大好きまだまだ舞台へも挑戦の日々この『舞台が好き』という想いは決して消えなかったこういう想いは消えることが無いだからこういう想いを持ったお子さんを持つ親御さんたちにはそのことを知ってほしいそしてこれからはわたしと同じような想いのある子供たちにわたしの学んできたことを伝えていきたいと思っています
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