あずみん(自転車交通犯罪遺族)

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これまでの歩みとこれからの道

【訴訟経緯のまとめ】

第1回弁論は2012年3月7日。加害者本人は出ず、ギリギリ出してきた答弁書は「不知」「争う」の連発。
第2回弁論は4月16日。子供じみた知らぬ存ぜずの態度に怒りを新たにしました。
第3回弁論は6月11日。父の成年後見審査中なので次回期日を決めたのみ。加害者の例の笑える非常識弁護士が「電車遅延」を理由に欠席(遅延の事実なし)。そのいい加減ぶりにあらためて失笑でした。
その後7月13日に弁論準備手続という書記官室での非公開の流れになりましたが、「被告と同じテーブルに座るのは汚らわしく屈辱的だ!」と主張したところ、裁判官がそれを認めてくれて、一旦延期の上、公開法廷に戻してくれました。
第4回弁論は9月3日。被告は「医療ミスだ」「適正な治療があれば死なずに済んだ」と医師のせいにしてきました。
第5回弁論は10月19日。非公開の弁論準備手続になりましたが、単独制から合議制に変更。それだけ裁判所が重大視している証拠です。
第6回弁論は12月6日。被告は、母が入院中ベッドの下にしゃがみこんでいたことを、「この時に頭を打って死んだに違いない」「だから自転車でぶつけたのとは無関係」と主張してきました。怒りを通し越して呆れかえるのみです。
第7回弁論は年が明けて2013年1月28日。私は骨折入院中で、涙を飲んでの欠席。そのため弁護士に任せましたが、自爆主張を繰り返すのみの被告に対して、関係医師の方々の(ごく当たり前の)意見提出予定を報告したのみ。被告はまた弁護士が1名欠席。相変わらず適当な弁護団です。
第8回弁論は3月15日。第9回弁論は4月18日。更新できずにいたのでまとめますが、被告側が医者のカルテをいじくりまわして必死に責任逃れの要素を探しまわっている段階で、特に書くべきことなし。私としては、昨年からずっと書けずにいた遺族心情陳述書をようやく書きあげました。言うべき論点は漏れなく書き出し、思いも尽くしたつもりです。肩の荷が少しおりました。
第10回弁論は5月31日。加害者側は、噴飯ものの珍説をバッサリ論破された後も、さらに反論しようとして「1ヶ月半ほど時間をくれ」と言ってきました。「恥を知れ」の一言です。また父の通っていたメンタルクリニック医師が、患者攻撃の滅茶苦茶なカルテを書いてきたトラブルもありました。ただ判決に深刻な悪影響はないと思っています。
第11回弁論は7月24日。医療ミス云々の珍説を、搬送先病院側より完膚なきまでペシャンコに潰されたあと悪あがきの準備書面を出してきました。「病院側意見は過失当事者だから信憑性がない(つまり金で書かせた珍説の方が信憑性がある)」「自転車の衝突は自動車事故ではなく、自転車でぶつけることなんて大したことではない」・・・おそらく「不誠実」という意味では日本裁判史上に残る逸物を相手にしているようです。
第12回弁論は9月17日。被告は「絶対ベッドから転落して死んだに違いない」「病院の管理体制がしっかりしていれば起きなかったはずだ」「だから病院を訴訟に巻き込むぞ!」と主張してきました。ただ失笑しかありません。
第13回弁論は10月28日。加害者側のトンデモ主張で搬送先病院が巻き込まれて長期化かとうんざりしていましたが、病院側は「事件で死亡したのは明らか」「あとは意見書で書いた通り」「よって訴訟参加はしない」と裁判所に文書通知。裁判官もそれに同意し、次回私が証言台に立って結審の予定です。病院もまとも。裁判官もまとも。異常なのは加害者のみ。ということで訴訟が終局に向かうことになりました。
第14回弁論は11月19日。私の原告証人尋問で結審となりました(結局本人は民事で一度も出廷せず)。私の弁護士からの質問に答えて、当時と現在の辛い状況を吐露。また加害者側弁護士側は無礼な言葉づかいで、「加害者は謝罪しているだろ?」という作り話のための露骨な誘導尋問を繰り広げてきましたが、実際のやり取りを突きつけて、バッサリ斬り捨てさせてもらいました。加害者本人は最後まで醜悪なままで、加害者弁護士は最後まで愚かな自爆に終始しました。
判決は年明けて2014年1月28日。加害者の珍説主張は当然ながら一蹴され、私の勝訴判決で終わりました。判決直後、東京地裁記者クラブで記者会見を行い、大々的に報道もされました。しかし奪われた生命は帰ってくるわけではなく、加害者は無反省なまま以前通りの日常生活を送り、町を歩けばマナーの悪い暴走自転車が横行し、自転車による被害者・遺族は出続けています。現実は何も変わっていません。私の自転車交通犯罪遺族としての活動は、今も変わらず続いています。


【事件の詳細】
発生日時:2010年1月10日(日)午前11時40分頃
発生場所:東京都大田区中央2-10-1先交差点(大田文化の森前)
加害者:1967年10月1日生(事件当時42歳)、スポーツ用自転車
被害者:事件から5日後の1月15日死亡、享年75、歩行者

【公判経緯】
2010年 8月 東京地方検察庁が重過失致死で起訴
2010年10月 東京地方裁判所で2回の公判(求刑は禁錮3年)
2010年11月 判決(禁錮2年執行猶予3年で確定。控訴の訴えは東京地検に受け入れられず・・・)

※加害者の主張:逃げずに介護してやったんだ。サイクリング自転車は下を向いているので斜め上の信号なんか見えなくても仕方ない。自転車で殺したのではなく、自転車にぶつかって道路に頭を打ちつけて死んだんだ(意味不明)。だから執行猶予つけてね。
※裁判官が遺族にかけた唯一の言葉:「黙っていて下さい」

【その後~今に至るまで】
(この間、うつ病が悪化した父のケアや、マスコミ取材などあり。別途お話していく予定)
2011年 7月 損害額を確定させ、加害者側に請求
2011年 8月 全国交通事故遺族の会に入会(相談は公判前からさせて頂いていた)
2011年10月 加害者側忘却が発覚(ずっと無反応につき確認を取ると、加害者側弁護士は完全に忘却している様子で、ようやく思い出して発した言葉が「ああ、あれね」だったとのこと)
2011年11月 ハートバンド(犯罪被害者団体ネットワーク)全国大会に参加
2012年 1月 加害者側延々無反応につき、東京地方裁判所に損害賠償請求訴訟を提起
(※ちなみに加害者本人は、今に至るまで、ただの一度も謝罪に来たことがありません)

【目的】
私が今回このブログを立ち上げた理由は、いくつかあります。
①自転車に家族を殺されるということがどんなことか、多くの人に知ってもらいたいこと。
②交通犯罪の犠牲者の命がどれだけ軽く扱われているか、多くの人に知ってもらいたいこと。
(自転車殺人は重過失致死、ただでさえ軽い自動車運転過失致死よりさらに軽い扱いです)
③知ってもらうことで、加害者天国ニッポンの問題点を改善する流れの後押しをしたいこと(具体的には、人を死に至らしめた犯罪に対する執行猶予の廃止、そして被害者参加制度を儀式化させず有効なものにしていくことです)

【想い】
 母は、2010年1月の成人式連休中、青になった横断歩道を渡ろうとしたところ、加害者の運転する信号無視の自転車にはねられました。息子の私が事故を知らされたのは深夜、母が意識不明の重体になってからでした。妻と病院に駆けつけると手術中で、手術は明け方まで及びました。

 それから私と妻は実家に泊まり込み、連日病院に通い詰めました。一進一退の容体に一喜一憂し、無理に食べようとしても胃が全く受け付けず、ほぼ絶食状態でした。病院にいても、ただ見守るだけです。ただただ無力でした。ただ死にゆくのを見守るだけ、まさに悪夢の日々でした。

 そして1月15日、一時的に母の心拍数が安定したので、着替えを取りに自宅に戻った途端、看護師長から切羽詰った口調で「今すぐ来られないかな!お母さん、もう駄目なんだよ!」と連絡を受けました。病院に駆けつけると、母は亡くなっていました。父も無言で立ち尽くしていました。そして私と妻の到着を待って、半ば儀式的に死亡確認がされました。結局私は母の死を看取ることができませんでした。

 逮捕もされず、謝罪にも来ないままだった加害者が起訴されたのは8月、公判は10月でした。公判が開かれて、加害者は初めてパフォーマンスを演じてきました。公判中の瞬間だけ、携帯に着信を残し、謝罪しようとしたと主張。さらに法廷で絶叫型の猿芝居まで演じ始めました。

弁護士:「東様に今ここで謝りたいと思いますか?」
加害者:「はい!思います!」
弁護士:「では今ここで謝りますか?」
加害者:「はい!謝ります!(ここで私の方を回れ左して、90度お辞儀し)東様!このたびは!東令子様を死なせてしまい!申し訳ございませんでしたぁぁぁああっ!」

 まさに猿芝居。動作も含め、弁護士とおそらく何十回とリハーサルを繰り返したのでしょう。その努力の跡がありありと残る、セリフ棒読みのお芝居でした。傍聴席からもあちこちで失笑が漏れていました。

 しかし裁判官には当たり外れがあります。人としての情を持ち、常識を持っている裁判官とは限りません。私の場合はハズレでした。猿芝居を見て「反省している」と判決理由に書き、執行猶予付き判決を言い渡したのです。執行猶予を言い渡された瞬間、加害者はホーっと安心しきったように背中を丸め、裁判官に対して「ありがとうございます」とハッキリつぶやきました。私はつい「不満です」と叫びましたが、それに対して裁判官は、敵意むき出しの表情で私を睨みつけ、「黙っていて下さい」と吐き捨てました。「黙っていて下さい」これが裁判官が遺族にかけた唯一の言葉でした。判決文からも、遺族の存在は見事に消し去られていました。

 私は被害者参加制度を利用しました。そして加害者の実刑判決を求めて、できることは全てしてきたつもりでした。しかし振り返ってみれば、ただ検察官席に座らせてもらっただけ、ただ法廷で喋らせてもらっただけ、ただ単に遺族感情のガス抜きに利用されただけでした。被害者参加制度は、少なくとも私にとっては、ただの無意味な儀式でした。

 その後、全国交通事故遺族の会に参加し、それ以外の団体の交通犯罪遺族の方々とも意見や情報を交換する機会に恵まれました。多くの方の話を聞いてわかったことは、それでも私はまだ恵まれていた方だったということです。なかにはヒドイ警察官や検察官に当たり、事件そのものをなかったことにされた方もいます。司法の不備も目立ちます。例えば、飲酒運転で人を轢いた場合、逃げてしまった方が、後で捕まっても罪を軽くできる現実もあります。こんなのは全部おかしなことです。変えていかなくてはいけません。そのために提訴に合わせて、ささやかながらブログでも発信していくことにしました。

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