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昭和33年北海道士別市多寄町30線の天塩川の近くで生まれる。近くに幼稚園はなく、幼少期は近所の子達と家の周りや川で遊んで過ごす。中多寄小学校(入学時の同級生14名、卒業時11名の小さな学校)を卒業、自宅から約7Km離れた多寄中学校に入学、同級生58名で、人の多さに喜ぶ。昭和48年名寄高校電気科に入学、昭和50年に名寄工業高校として分離、51年名寄工業の第一期生として卒業。後に同窓会(碧落会)の役員になる。就職を希望するも、家族の事情で農家を継ぐことになる。電気科の同級生は、ほぼ全員名寄から離れることになり、地元に友達を作る意味からも拓殖短期大学に(冬季間3年間で農業を学ぶ)進学、バンド活動を開始する。夏期間は名寄市内の電気店で働かせてもらい、農繁期は農業を行う。24歳、稲刈りが終わり、なんとなく日本の中心東京を肌で感じたいと考え、友人宅に3カ月間ほど居候をさせてもらいバイトを探し、東京から名寄を漠然と眺める。自宅に戻り友人から製紙工場の屋根の雪下ろしのバイトの話があり、2~3日の予定が、居心地が良く、6年間働かせてもらう。この間、少し政治への関心が芽生え、地方分権という考え方に賛同し、平成維新の会に参加し、旭川地区での活動を行う。メンバーに政治学を日本、アメリカで学んだ人がおり、民主主義の基本的な考えを学ぶ。昭和63年農業を辞め、保険会社を経て、ゴルフ場で8年間キャディーマスターとして勤務。平成10年風連町で河川敷に第三セクターによるゴルフ場を造る計画があり、支配人として招かれ一年間勤め、具体的な事業計画を検討するが、社会情勢から計画自体が中止となる。行政が中心に進める事業を、途中で中止するということは勇気のある決断だったと思う。町や会社は職を斡旋してくれたが、目前に名寄市議会議員選挙があり、生涯の仕事として挑戦したいと考え、友人知人にお願いして後援会を作ってもらい、現在に至る。紆余曲折の人生を歩んできましたが、市議会議員というやりがいのある仕事に就くことができ、充実した日々を過ごしています。
テーマ: ブログ
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