女神クリエイター MOMO☆

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なぜヒーリングを始めたのか?



幸せ笑顔開花セラピストMOMO☆

愛知県豊橋市にて第一子として生まれます。
父母、祖父母、身障者の叔母(目が不自由)、叔父(父の弟)、3年後に生まれた弟の8人で住んでいました。
 父は12人兄弟で7番目に生まれた長男です。
家の権力は祖父と、身障者の叔母が握っていました。
母は、家事は叔母がやるからやらなくていいと、朝から晩まで外で畑や果樹園の仕事をしていました。一緒に夕飯を食べれるようになったのは、私が高校生くらいからだったと記憶しています。

 祖父や、叔母からはしつけと称して、氣にいらないとよく叩かれていました。そこら辺にある色々なもので。
子どもの頃の自信のなさと、自己肯定感が低いのと、内気で内向的、消極的で、人前に出て話す事も苦手でした。

クラスの何かグループの、班長にされただけで人生終わったと思うくらいショック受けていました(笑)きっと今の私を知る方からは想像もできないくらいだったと思います。
とにかく、大人が思う「いい子」にしていないと母が攻撃されるので、いい悪い関係なく日々大人の顔色を見て我慢する。
母を助けられるのは私しかいないと思い込んでいたので、背負ってましたね、きっとかなり。

それを無意識にずっとやっていたので、人のエネルギーや、深層心理を読むのが自然にできるようになっていったのだと思います。
 ただ、このころはそれを生かすすべも持っていませんし、そもそもそれが才能だとも思っていなかったですからね。
なにしろ、大人の中で自分を殺してとにかく生きていく。
その理由は、母を助けたいから・・・・
これにつきますね。

 どこか行きたいところがあっても、ことごとく親戚に邪魔されることが日常茶飯事。上手くいくことの方がまずないのでもし行けたなら奇跡中の奇跡でした。


大人になってからも、父の親戚の有りえないくらいの(ドラマ何本できる)ことが起きるんですよね・・・・言えないくらいの・・・
それを母が全部、処理していました。
父も祖父母もまったく関知してませんでした。
 
子どものころからデジャブ(予知、前にもあったと感じる)が多い子でした。
特に、味や、香りに敏感に何かを感じていましたね。

そんな私に転機が訪れたのは、「宝塚」との出会いでした。
夜、テレビで偶然(偶然はないですね、笑)宝塚の「ベルサイユのばら」を見たんです。
「こんな華やかな世界があるんだ。こんな人間がいるんだ」凄い衝撃でした。
衝撃も波動(エネルギー、振動)なのでね、私の中で何かが変わりました。
 相変わらず祖父は、ちょっとしたことで私をハエたたきで叩こうとしましたが、それを避けて、ハエたたきを掴んだんですよね~
それから言葉の暴力はずっとありましたが、叩かれなくなりました。

これも「宝塚」に出会った事がきっかけになっていたように思います。

毎日、宝塚のレコードを聴いて鏡に向かって歌っていましたからね。
それが楽しみで楽しみで。
あれだけ引っ込み思案で内向的だったのに、友人が増えていきました。


高校生になり、一つ決めたことがありました。

「賞状をとる」
頭がいいわけでも、勉強が好きなわけでもなかった私が取れる賞状は?
ありました一つだけ、「皆勤賞」です。
3年間無遅刻無欠席で登校した人にいただける賞状です。
結局色々な人に協力いただき、初めて「自分で決めて」「現実化」させた事だった気がします。
「皆勤賞」いただきました。
嬉しかったですね。

 母は頭がよく何十もの賞状を持っていましたから、娘なのに私は、という想いもあったと思います。

無意識にやったことでしたが、今思うと、幸せセッションや講座でお伝えしている事の基礎的なことでした。

これが一つの自信や、自分自身の尊厳にも繋がっていった氣がします。

子どものころから、「バカ」だなんだと祖父や叔母に言われ続け自信の欠片もなくしていましたが、自分自身でそこを抜けることが出来るのだといつの間にか証明していたんですね。
「やればできる」「自分で決めた事なら」

そのきっかけをくれたのが、やっぱり「大好きなもの」があるという事だったと思います。
そう「宝塚」でした。

高校大学と合唱団に所属していました。
歌が大好きで、歌っているとご機嫌で生きていることを無意識に感じていた氣がします。

合唱コンクールで何度か指揮をふり、入賞したこともありました。
って、歌ってないやん、指揮振ったら歌えないんですよね~(笑)


短大卒業後は、幼稚園の教諭として6年勤めました。

その後、市役所でアルバイトしている時、旦那さんと出会い、半年くらいで結婚しました。

しかし、一人目を妊娠したのだけれど流産してしまいました。
そこから健康オタクが始まります。

何が原因だったのか?

今なら、魂同士の話し合いだったり、私の準備が出来ていなかった、

何らかのメッセージを持ってきたと。

その当時はそんなことわかりませんから、自分を責めながらふて寝している毎日でした。同時に、原因究明のために本を読む調べることをしていました。



諦めたら出来る、と言われているように、旅行にでも行こうかと決めた途端妊娠。

第一子長男出産。よく泣く子で抱っこしていないとほぼ泣いている。

今にして思えば、母親の心がすべて子どもには投影されるのでね、

罪悪感やら何やらを感じて泣いていたんでしょね。
夜泣きは小学2年生まで続きましたから。


目に見えないものも感じていたのかもしれません。

その時育児に精いっぱいで毎晩。、どうやって寝かせようかとそればかりでしたから。氣づく余裕もない。
氣付きとは余裕がないとやってきませんからね・・・


第2子長女が生まれると、何の苦労もなくて寝くれるわ、食べてくれるわで、こんなに楽でいいのかと思うほどでした。

ところが、長男が幼稚園に通い始めると、熱が頻繁に出たり下がったりしていました。

どこの病院に行っても同じ答え「幼稚園に通い始めた疲れだね」と。

でも母親だからわかるんですよね、そうじゃないと。

個人病院で他では見付けられない病氣を見つけくれるという病院を紹介されていきました。

長男の熱は「マイコプラズマ肺炎」でした。いまでこそ知られるようになりましたがこの時は全く知らなくて、ずっと風邪薬を飲ませていても全くよくならないわけですよ。


その後、長女も幼稚園に入園するも喘息系の咳がひどくよく吸入していました。


毎日幼稚園に通うのと同じように病院に通う。
一体いつまでこれは続くのだろうかと思っていました。
抜けられないトンネルに入り込んだようなそんな感覚でした。


この時、子どもの病も母親の心の在り方(潜在意識)だと知っていたらこんなに長く薬を飲ませる必要も病院に通い続ける必要もなかったんですけどね。


逆にこれがあったから、病氣の仕組みに興味をもち今それが役立っているのですけどね。

お子さんの喘息の多くは、親の過干渉(潜在意識で守ってあげなければ)が課題のエネルギーとなりお子さんの首をまわたのような柔らかいもので、少しずつ締めて言ってるようなものだったんです。

ヒーリングを始めてこれを知った時は驚愕でした!
でも1人でこれに向き合うのは、きつすぎたので、プロの方のセッションを何回か受けて解放しました。

これに氣づけただけでも、エネルギーヒーリングを習得しようと学びだした意味は大きかったです。


この喘息もある時期から軽減され、それから今までほぼ発症していません。

それは私のフォーカスが育児だけに向けられなくなったからです。
子ども教材の、勧誘、配布のお仕事を始めたことで、エネルギーや視点のフォーカスが分散されたからでした。


そして、薬局にパートに行きました。
そこで、お客さまへのカウンセリングをさせていただき、心の中でカウンセリングを学びたいと思うようになりました。
けれど、パートなのに200%くらい仕事でエネルギーを使ってしまうので、帰宅して2,3時間寝ないと家事出来ない毎日でした。

そして、肩こり、眩暈、背中の痛みが日常的にあり、毎週マッサージに行ってもすぐにこってしまう。そんな状態でした。

こどもたちが喘息の頃にも、この眩暈はありました。
「頑張ろう、やらなきゃ」と心で思っただけで過呼吸になったり、止まっている車が動いて見えたりしていました。
多分、心身症、さらにすすめばウツ状態だったのではないかと思います。

こどもたちの幼稚園でPTAをやった時も、言いたいことが言えなくて心臓がバクバクして寝られなくなることもよくありました。

病院に行って症状を言うと薬を出されました。確かにそれを呑むと少し落ち着くような氣がしました。
後で調べるとそれは「安定剤」でした。

こんなに氣軽にこんな薬が処方されることに疑問を覚えました。

でも1度飲んでしまったら、勝手にやめると副作用が起きます。

一生飲み続けることになる薬でした。
そんな説明は一切なかったです。


このころから、病院の先生の言う事でも、全て鵜呑みにせず調べよう、疑問を持とうという事を学びました。


その後、自力で薬を辞めることが出来ました。

もし読まれている方がいましたら、自分の判断だけでは危険なので専門医と相談しながらにしてくださいね。


さらに健康オタクが加速していくきっかけにもなりましたね。

そんな潜在意識は、現実化してくれます。
薬局がなぜか急に閉店することになります。

そしてて、PC教室に通い、資格をとり、遅いながらもパソコンが出来るようになりました。
そしてブログを始めました。
会った事もない人と繋がることが出来る夢のようなツール、ブログで、書きたいことを書くことでさらに癒され楽しくなっていきました。

そこである人と出逢いました。
その人は病氣になりました。病は進みよくなる氣配がみられなくて、それでもメールやコメントのやり取りを続けていました。

病院や医者でも治せないこと軽減出来ない事が、ヒーリングや、催眠療法、レイキ、などの働きで軽減できるという事を初めて知りました。

また、今の知識がその時あったら、いや、心から向かい合っていたらその力があったなら、現実は変わっていたのではと、その方が亡くなり、自分を責めていましたね。

もう限界を超え
初めてエンジェル系の方のヒーリングを受けに行ったとき
「最近幸せと感じた事は何ですか?」ときかれて、頭では理解できているその言葉の意味でしたが、心には「幸せが分からない」家族もいるのだから幸せと感じていないのは悪だくらいのものが来ました。

でも幸せが出てきません。
そしてやっと泣けたのです。

そしてその方は言いました
「あなたのせいじゃない」と。

でもわかっているんですよ、私にも責任はあるのだと、
それでもその言葉に救われました。

「真実では人は救われない。」

これを最初に体感したんです。

そして
やはりヒーリングを学ぶことを決意します。

そこからも順風満帆ではありませんでしたが、現実を最短で変えられる
ツールを今迄活用し、望む現実を現実化してきました。

でもすべては自分自身の「心の在り方」なのだと体感しています。


自分の潜在意識(深層心理、心の奥の本音)を知ることが何よりの近道


病氣の彼女を救う事は出来なかったと思っていたけれど
そもそもそれも失礼なことですよね。

彼女の事がベースとなり、心より添うとは、本音を引き出すサポートをするとは?
全てが今に繋がっています。


そしてなにより、救われてきたのは、私自身であると・・・


この経験が、今現在トンネルから抜け出せない方のお役にたてましたら幸いです。

ひとりでは抜けにくいからです。


でも
「決める」事が出来ればそのドア入り口はすぐそこだと思います。


あなたが本来のあなたに戻り

あなたらしく幸せな本音を奏でるために・・・・



あなたの人生はあなたのものだから




これまでの経験や知識でお役にたてましたら幸いです。
この経験があるからこそわかること、共鳴できることが
必ずあると思うから・・・



お氣軽にご相談くださいませ。


喜び溢れる愛と感謝をこめて



























































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