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こんにちは☆佳美です♪兵庫県神戸市に生まれ、神戸で育ち、現在も神戸で暮らしています。子供時代は、人見知りでは無いけれど、人の輪に入ることが苦手。親や周りの大人をはじめ、常に周りの人の顔色を見ていたような子供でした。一緒に遊ぶ友達は居るけれど、うまく馴染めている気がしなくて、違和感を感じながら遊んでいました。学生時代は、大学に進んでほしがっていた母の希望をよそに専門学校へ進学。そこで出会った友人たちや、バイト仲間たちと遊ぶことが楽しくて夢中になり、勉強よりも遊びを優先し、遊び呆けていました。社会人になる前くらいに両親が離婚し、父が家を出て行き、妹も進学、就職、結婚で家を出ました。私自身も結婚をして、実家を出たものの、数年で離婚し、再び実家で母との二人暮らしに戻りました。私が30代の頃、母の言動がおかしくなってきたことに気付きました。一緒に暮らしてはいましたが、子供の頃から、気が強くて言葉も悪く、口うるさい母が苦手…というか、本当に大嫌いでした。最初は「母はまだ50代だし、きっと気のせいだ」と見て見ぬフリをしていたものの、家のローンもまだ残っていて、生活もギリギリで苦しい中、母はいきなりパートを辞めて、働かなくなってしまったのです。病院へ行きたがらない母を、なんとか連れて行くと、若年性の認知症だけでなく、乳がんも患っていることが発覚。ショックや心配はありましたが、私自身、自分の生活で精一杯だったこともあり、母の介護に携わることには、抵抗しかなく、「なんとか逃げ出したい。」「母を捨てたい。」とまで思っていました。しかし、一緒に暮らしている自分しか母を支えることが出来ない。となり、不本意ながらのワンオペ介護生活が始まりました。母の乳がんは、左胸の全摘出手術をした後は、幸いなことに転移もなく、服薬のみで済みました。しかし、認知症の方は服薬をしても、緩やかに…でも、確実に進んで行きました。当時は仕事に出かけても、心配は尽きず、だけど家に帰るのが嫌で嫌でたまりませんでした。今まで頼り甲斐もあり、恐れを感じるほどの大きな存在だった母が、みるみるうちにいろんな事が出来なくなり、話が通じなくなっていく…。それを目の前で見ることは、とても受け入れ難いものでした。私自身、生活のために仕事を辞めることが出来ない中、母の問題行動は増えるばかり。いよいよマンションの管理会社から早急に対応するよう言われ、慌てて手続きをして施設にお願いすることになりました。当時の母の介護度は要介護1だったため、私の仕事が休みの週末以外はショートステイにお願いすることに。仕事に出ている間の不安や心配は解消されました。だけど、働けなくなった母の代わりに家のローンを支払い、ショートステイの費用まで重なって、支払いはかさむ一方…。自分の給料だけでは生活をすることが出来なくなり、借金を重ねながら、なんとか生活をしている状態でした。若年性の認知症なので、身体が元気な母は、ショートステイでもトラブルを起こすことが多かったです。施設から連絡が来る度に、仕事を抜けて様子を見に行ったり、スタッフさんに謝りに行くことが何度もありました。次第に、週末や私が休みの時に家に戻って来ても、目が離せなくなり、機嫌が悪い時は手も付けられなくなって、介護度の再認定をすると、一気に要介護4まで上がりました。介護度が上がったことで、環境を変えないためにも、母を家に戻さないことを決意。しかし、特養へ申し込みをしても、なかなか空きも出ません。当時は毎日、これから先の自分の人生が不安で仕方ありませんでした。だけど、辛い現実を母の介護のせいにしたくない。介護で潰れたくない!その一心で、借金を重ねながらも、癒しや自己啓発に関するいろんなメソッドを学んだり、気分転換に友人との時間を楽しむようにしていました。介護生活や、自分自身の学びを通じて、母への苦手意識や、恨みなどを少しずつ手放して行きました。次第に、自分がいかに母のことが大好きだったのかを思い知り、私の望む形では無かったけれど、母からたくさんの愛情を受けていたことを実感しました。出来ることは限られているかも知れないけれど、母のためではなく自分のために介護をしようと改めて決心しました。親しい友人たちは「今でも充分頑張ってるやん!施設にお願いして自分の時間を持ったって良いと思うよ^^」と、優しく認めてくれました。でも、中には「自分の親なのに、施設に預けて自分は遊んでるの?」というようなことを言われ、とてもショックを受けたこともありました。「母が認知症になったのは、自分のせいなのでは…。」とまで考えるようになり、苦しむことも増えました。いろんな苦しい感情に心も身体も支配され、経済的にも限界寸前だった矢先、特養から受け入れの連絡をいただき、すぐにお願いすることに。しかし、せっかく入れた特養でしたが、入所後半年程で入院することになり、そのまま特養に戻ることは出来なくなってしまいました。そして、サポートしてくださった施設の皆さんや、病院の皆さん、妹家族や、友人、仲間たちの支えのおかげで、2016年3月、大好きな母を見送ることが出来ました。母を見送った後、自分自身も身体を壊してしまったため、無理をしない様に、ゆっくりのんびりを心掛けながらも、学ぶことは続けていました。そんな中、介護生活中から気になっていたけれど「絵も苦手だし、介護もしないといけないから…」…と自分に言い訳をして諦めかけていた、日本ヒーリングアート協会の講座を受講する決意をしました。チャネリングアート講座を受講し、自分の中の自信や、自分を大切にする感覚が、ゆっくりゆっくり復活してくるのを感じました。母の介護のことで残っていた後悔も描くことで自分を癒すことが出来るようにもなってきました。そして、徐々にですが、あれだけ先の人生に不安しかなかった生活が、苦しいながらも少しずつ希望を持てるようになってきたのです。昔から絵を描くことに対しての苦手意識は強く、ずっと避けてきた道でした。だけど、言葉では表せない感情を、描くことで表現する魅力や、自分の人生観が変わって行ったことに強く惹かれている自分を感じ、続けてヒーリングアートも学ぶことに。講座受講中に、さらに描く楽しさや、ヒーリングアートの奥深さを体感し、インナーチャイルドにも出逢うことが出来ました。インナーチャイルドとの出逢いは、私に、自分自身を大切にすること、自分の人生に自分自身が許可を出しても良いこと、人生のハンドルを他人任せにせずに自分が握ること、自分の人生を自由に心から望むものに変えていける可能性を教えてくれました。ヒーリングアートや、チャネリングアートを始めとして、今まで学んできたメソッドを使い、インナーチャイルドと、自分自身を大切にしながら、介護時代の自分と同じように、○今の生活では満たされない。○これから先の人生に不安や不満しかない。○自分で自分を責めてしまい生きることが辛い。○過去の後悔からの苦しみから抜け出せていない。○今現在苦しみの渦中にいる。そんな風に感じられている方に、癒しをお届けしたい。笑顔になるお手伝いがしたい。そう思うようになりました。そして、心から望む人生を創るためのサポーターとして活動がしたいと考えるようになりました。そこで、今までのブログを過去記事にまとめ、名前もσ(・ω・アン)から、本名の「川上 佳美」に変えて、心機一転で、活動しています!
テーマ: ┣ヒーリング曼荼羅
テーマ: ■独り言■
テーマ: ┣はじまるアート100枚チャレンジ
イラスト・アート・デザイン
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