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旅が人生アマゾニアンの時系列プロフィールです。★幼少期★東京都板橋区にて生まれる。一重の目だったがある日、起きてきたらぱっちり二重になり大変身!★幼稚園★電車大好きしんちゃん(本名はしんぺい)ちなみに母はきさえ、惜しい!春日部ではなく地元民はヒバリーヒルズと出しゃばるひばりが丘で育つ。どうでもいい情報だが母校であるひばりが丘中学校は略してバリ中。電車が好きで好きでお絵かきは電車。外で遊ぶのはブランコ使って電車ごっこ。家の中ではプラレールか園児のくせに鉄道模型。→鉄道模型は父親がいるとき限定。絵本は買ってもらわず園児のくせに時刻表。→時刻表おかげで漢字覚えるのは早く、幼稚園の時に「池袋」が書けていた。→もちろん時刻表も理解していた。将来の夢はもちろん電車の運転手。電車に関する知識は抜群で自信満々。年長の時におばあちゃんちにひとりで電車で行くと言い放つ。おばあちゃんちは埼玉県大宮市(現在のさいたま市)の日進。自信に満ち溢れていたからか行っても良いことになった。今とは違って埼京線はない。しかも国鉄時代だ。経路は2パターン。ルートA実家【バス】保谷駅【西武池袋線】池袋【赤羽線】赤羽【京浜東北線】大宮【川越線】日進。ルートB実家【バス】保谷駅【西武池袋線】秋津【徒歩】新秋津【武蔵野線】南浦和【京浜東北線】大宮【川越線】日進この時はルートAに決定。いつもおばあちゃんに実家から連れられて行くルートがBの方だったからだと思う。幼稚園生にとっては乗り換えなんて大人になってからのアフリカレベルなはずだ。池袋までは至って順調。池袋でハプニング発生!国鉄の切符売り場で運賃表を見ると池袋から日進まで570円。(ちなみに現在は490円と当時の方が高い)大人の半分が子供の運賃なのは時刻表を読んでいたからか知っていたので2で割る。285円。285円のボタンはない。どこの駅の運賃表にも端っこの方に「小児は大人の運賃の半額、5円以下は繰り上げ」という感じの言い回しは忘れたが書いてある。なので290円分の切符を買うのが正解だ。それは幼稚園児の頭の中にはなかったようで乗り越しや285円より高い切符を買って日進まで行けるという考えすらない。285円でないと日進に行けないんだ!のみ(笑)どうしても285円のボタンを探せずに泣く。切符売り場の迎えに丸ノ内線の改札があって切符切りのお兄さんに聞くが「コクテツノコトワワカラナイ」と今でもはっきり覚えている。冷たい!とも思えるがこちらもテンパっていたのでたぶん何を言ってるかわからなかったのだと思う。母親に電話もするがどうすることもできず・・・そこから記憶がなく、どのようにして切符を買えたのかは覚えていない。何時間も遅れて日進に到着。おばあちゃんは駅の近くでパチンコをしながら電車が来るたびに駅に見に行ったようだが来ないので心配していたようだ。でも、パチンコはちゃんと続けているおばあちゃんも肝座ってるなと思う。おばあちゃんが見えた途端、泣きじゃくって抱きついたのは覚えている。これが人生初めての一人旅。★小学生★低学年の時は引き続き電車。夏休みの自由研究は友達と上野などのターミナル駅に行って電車の写真撮りまくってまとめる毎年。京王線のスタンプラリーも3回行っている。ひとりで西武のレッドアローに乗って秩父や、京浜東北線に乗って大船に行ったり関東近郊の旅はした。小3だったか、はっきり覚えていないが夏休みのある日、親に怒られすねる。自転車に乗って向かう先はおばあちゃんち。家出だ。父親が車で行くルートそのままこぐのみ。曖昧だが真昼間の12時過ぎに出発して夕方暗くなる直前なので6時くらいに到着。おばあちゃんは外出中でいつも鍵を隠してあった場所は知っていたので勝手に上り込んで待つ。おばあちゃんから速攻、家に電話。父親が車で迎えに来る。褒められた(笑)そして今度泣いたのおばあちゃん。孫が自転車で会いに来てくれたと。今思うとギア変もなく1円も持たずによく行ったものだと自分でも感心。真夏に1円も持たずに30キロの道のりを自転車なんて大人の今では無理(笑)途中、埼玉大学の近くのマルエツのトイレ前の冷水器で水を補給したのは記憶にある。今でも親戚同士で集まるとほぼ話しに出る二宮家の伝説。↑↑↑このあたりの経験が大学卒業をしても就職せずにバックパッカーを続けてこられた理由かなと。誰も止められない(笑)小3から少年野球が始まったので日曜日の時間が無くなり、旅は一時中断。野球に打ち込み始め外遊びは電車ごっこから野球へ。★中学生★ 小3とのきから続けていた野球が大好き! ということで野球部に入部。 小学生の時はレフトで6,7番を打っていたくらいでたいしてうまくはなかった。ただ、キャッチャーをやりたい!とか経験もないのに言い始めちょうどキャッチャーが同学年にいなかったのもあり、自動的にキャッチャーになった。そしてその頃出てきたのが打てるキャッチャー古田敦也。 完全に尊敬のまなざしで目指すことになる。そのころまでは父親と沿線の影響から西武ファンだったがこのころからがっつりヤクルトファン。 神宮球場に何度も足を運ぶことになる。 そして自分も打ちたい!!と小学校の時の弱小バッターは思い始め特訓を始める。 まず、腱鞘炎がおきるくらい握力の強化。 体力測定の結果、右が50キロ左が42キロだったかな。 学年で3番目になった。(知る限り) あと背筋も鍛えに鍛える。 今も腹筋と背筋はアンバランスだ。 素振りはかなり重い1300gくらいの素振り用バットを振り回していた。 普通の中学生のバットは700gから800gくらいだった記憶。なのでずいぶんと重く、これのおかげで腰を入れないと振れないので、実際に普通の試合用バットを使っても腰ののった打ち方になる。しかもかなり軽く感じるのでスイングスピードもアップしている。打球が速くそして遠くにも飛ぶようになった。 打法はブンブン丸池山を参考。 絶好調のときは池山同様、打球にドライブ回転がかかっていた。 結果、4番バッターになれた。 決して小学校のチームより中学校のチームのレベルが下がったわけではない。小学校のチームは弱小で中学校は市内優勝校だ。 電車も相変わらず好きだったが特に旅行する機会もなく野球に打ち込む。修学旅行で人生初の新幹線にはいたく感動した記憶。 受験は正直なところもっと上の高校に行けたが野球が強く、家からかなり近い地元の保谷高校に進む。うちの中学の野球部からも他4人が一緒に保谷高校に行くのもあって。 親が言うには反抗期が全くなかったらしい。★高校生★野球を好きすぎて野球が強かった地元の保谷高校へ。うちらの中3の時が強くて都大会では都立ながらもシード校になるくらい。そのためうちらの学年は学区のつわものたちが勢ぞろい。野球部の人数も3学年で100人を超えた。地道にがんばっていた。足は高校まで鈍足ランナー。いつも後ろから数えた方が早かった。父親も弟も速い方なのになぜか僕だけは遅かった。ただ、野球部で新たに取り入れたロングダッシュ。グランドの端から端まで全力で走るダッシュだ。それまでは塁間のダッシュだけだったがこれがかなり功を奏して一気に足が速くなる。後になってわかったが走るときのフォームが力を分散させるようないかにも鈍足のフォームだったらしい。ロングダッシュでフォームが整い、一気に開花。結果、高2と高3の運動会ではクラス4人が選抜される400メートルリレーに出ることができ、しかも高3の時は第1走者。だがこのとき、1コーナー目でこける羽目になる。。。鈍足人生が一気に快速人生になった。人は変われるものだ。高2くらいのときであろうか。肩を強くするための通称「日石体操」が取り入れられた。これも効果抜群で外野からの返球がチーム1だったと自負する。でも、フライ取るのはべらぼうに下手でしたが。。。そんな感じで快調だった高2の2月に悲劇が!体育での柔道の授業中に、怪我をしないために練習する前まわり受け身で鎖骨を折る。また伝説を作ってしまった。全治3か月。そのため3年最後の夏に向けた大事な時期を棒に振る。残念ながらレギュラーにはなれず代打の切り札的な存在に。最後の夏は都立では最後まで残るベスト16。第一シードの国学院久我山と6-1と良い試合をしたが終戦。そのあと人数の足りなかったラグビー部に誘われたのもあり、秋までスポーツ。両親から一浪しても良いよと許可をもらったので絶対に受からないだろうレベルの大学しか受験せずに全滅で終わる。卒業旅行はJRがちょうど10周年ということで新幹線を含めて安いチケットを販売。それを買って大阪、福岡を一人旅。メインで行ったのは春の甲子園と福岡ドームと行ったところは野球好きならでわ。★浪人時代★代ゼミの本校に通う。得意科目はご察しの通り地理。英語はまあまあで今となっては仕事でも旅でも使うので興味あるが「勉強」なので特に好きでもなかった。浪人はあまり嫌なイメージはなく、地理を極めたいと意気込みはあった。今もそうだが欠点を直すのではなく長所を伸ばしたいタイプ。それもあり地理ばかり勉強。受験勉強は苦手な教科を克服するほうが良いのだが。地理はつねに偏差値70を超え、偏差値80台も何回かとった。代ゼミの模試では地理だけ結果ともに配られる冊子に名前が載るくらい。最後のセンター試験プレテストでは4万人中42位の快挙。地理だけなら東大に入れるレベルだ。そして英語はざっと東京6大学に入れるレベルくらいはあった。最悪なのは国語!本を読まずに時刻表ばかり読んでいたからか・・・受験勉強シーズンに入って国語をどうにかしようと本を読んだり新聞の社説を読んだりしたがあまり意味がないらしい。読解力皆無。それもあり英語にも影響する。英語の長文読解は構文も単語もすべてわかっていても、英語から日本語に訳した時点で僕の日本語がおかしいためなんにも理解してない・・・。こんな受験戦争。結果、東京6大学と滑り止め2校、古田へのあこがれがあったので立命館も受けるが滑り止め2校しか受からず。その2校の受験科目だが英語&選択科目。もちろん選択科目は地理だ。結局、国語はなにも役に立たなかった・・・。★大学時代★武蔵高校付属大学という名がふさわしい武蔵大学に入学。武蔵大学付属武蔵高校とは絶対に言わない。なぜならば武蔵高校は東大の合格者数ベスト3に入る俗に言われる開成、麻布と並ぶ御三家だ。ついでに言っておくと武蔵高校の学生は大学の敷地内を入れるが大学との間に小さな川があり高校の敷地内には立ち入り禁止。大学の正面に大通りがあるので大学が高校を守っている形になる。共用の図書館に行くと大学生と高校生がよくわかる。武蔵高校は私服の男子校だ。大学1年生の男子と見分けがつかないはずだが寝ているか勉強しているかで区別は容易だ。それでも10年に1度くらい武蔵大学への推薦入学があるらしい。いくら御三家とはいえ、なにかしら悪さをすると怒る先生の決まり文句は「大学に推薦するぞ!」らしい。東京4大学と言うのはあまり有名ではないが学習院、成城、成蹊、武蔵である。毎年秋には4大戦という運動会があり交流を図っている。そのようなくくりなので自分は校風に合うのか不安だったがけっこう自由で楽しい大学生活が始まった。サークルはどうしようか迷う。野球は好きだし、高3の時の雪辱もあったのでまた野球でもやるかと思ったが、新入生歓迎の飲み会はあるスキーサークルに入り浸る。絶対に入るなこいつ!と思ったに違いない。でも、結果はホッケー部が大逆転。アイスホッケーではなく芝の上でやるフィールドホッケーだ。マイナースポーツだが一応、オリンピック正式種目。やるのは楽しいがボールが野球のボールくらいで地面から浮かせずに転がすため、観戦してもなにしてるのかわからずはっきり言ってホッケーしてない人が観に行ってもあまり楽しめないかと思う。ホッケー部は体連だ。本気だ。野球で培ったいろいろな技術が活かせるのが決め手だ。高校野球の雪辱はホッケーで返すつもりで入部。あとは大学の健康診断の時にたまたま並んだ自分とまったく同じ名前のしんぺい。ちらっと健康診断表が見えて漢字まで一緒だからびっくり。しんぺいなんて皆さんおわかりのようにそういる名前ではない。彼とそのあと一緒に行動することが多かったので彼の入部した天文サークルにも入った。部活でなかなか参加はできなかったがよき友の計らいでばっしばっし首にされていたサークルではあったが結局4年生の最後まで生き残ることに。リアルな友人には有名だがそのサークルで出会ったのが浜さん。まゆげつながっていたのでいじり倒して遊んでいた。ちなみに浜さんは何回か首になっている。ホッケー部の練習は週に4日か5日。ホッケーメインの大学生活が始まった。バイトは地元ひばりが丘でちょうどオープンしたココイチに。部活で真っ黒だったのもあってお客さんに「インド人がカレー作ってる」って言われたこともあった。そのほか、地理が得意だったのと代ゼミのT先生と仲良くしてもらったのでその流れで代ゼミの地理のテキスト作りのバイトもした。偶然にもT先生の家は実家から自転車で5分くらいとかなりのご近所だった。大学1年生の時にツアーではあるが初めての海外。タイに行く。親が海外に行かないので海外進出は遅咲きの方だ。ホッケーの方はディフェンスからスタートしたが、2年生の途中からフォワードへ。野球で養った動体視力が買われたからだ。ホッケーはサッカーと同じ感じだがボールを浮かせてはいけない。そして右用のスティックしかないので左利きの人も右で振らないといけないスポーツ。サッカーのように左サイドから攻め上がるとセンタリングの際、左で打てないのでどうしてもつまってしまう。それもあり右側から攻める。そしてセンタリングをあげて左のフォワードの人がタッチしてゴール!というのがオーソドックス。その左フォワードに抜擢された。2年生ながらも秋の大会は4か5試合で3得点と活躍できた。そしてみんなが目指していたインカレ(全国大会)にも出場できることになった。高校野球の雪辱を果たせた。ただこれは先輩たちのおかげ!!学校の休みと部活のオフが重なるときは海外へ。2年生が終わった春休みにオーストラリアへ1か月。これが海外発一人旅。それまではバックパッカー的な旅行の仕方は知らなかったが、キャンベラのユースホステルで出会った人が東南アジアとかを放浪していていろいろ話しを聞き、バックパッカーに心揺らされる。3年生になる。要領がいいのは昔からでそんなに勉強はしていないが過去問や友達ルートのおかげで1,2年で100単位近くを取れた。武蔵大学は珍しく1,2年生はゼミ必修。3,4年生は選択だ。就職活動するのであればゼミを取った方が教授が面倒を見てくれるので良いらしい。3年生の履修のときは就職活動をする予定でいたのでゼミを取る。とは言っても残りはテストだけの科目だったので大学へ行くのはゼミのみ週1日だった。がっつり稼ぎに時間を費やせた。就職活動を考えなければいけない時期になった。幼少期の夢であった鉄道か好きな旅行に行こうと決め、コネづくりのためもあったがやりたかったので地元ひばりが丘駅で駅員のバイトを始めた。満員電車に人を押し込む仕事だ。走っていけないホームで走れるのもあり、朝早かったが楽しいバイトだった。そんなんだったがいよいよ5月に第1回就職活動ガイダンスが始まった。とりあえず出た。そのすぐ後の部活のオフ中の6月に中国とモンゴルに行った。そこでモンゴルの大草原を見ながら2泊3日の鉄道の旅中(ウランバートル→北京)に人生について考えに考えた。そこで出た結果は旅をしよう!就職活動はやめることに。そして残念ながら海外旅行に集中するためホッケー部もやめた。部活をしていると旅行はまだしも卒業後の旅人生を考えるとお金をもっともっと貯めなくてはならないからだ。そのとき自分はがっつり就職活動中の4年生の代わりのまとめ役であるひとつ下の学年の副キャプテンでもあった。6月くらいは4年生の就職活動はほぼ終わり、オフ明けの練習からはあまり3年生の副キャプテンは立場が半減するが、自分のやりたいことだけでやめてしまい今も心残りでいる。旅人生にすると親にも話し、好きなことやってもいいけど20代までにしなさいよとのこと。それを忠実に守ることになる。もう怖いもんなんてなにもない。突っ走るのみだ。ココイチは部活後の9時から12時半のラストだけだったが、そのことを話すとがっつり朝から夜までシフトを入れてくれたのでココイチでがんばる。秋にはNYへの6週間の短期留学と北米を帰り際に旅行。帰国後、ココイチはそのときの店長とウマが合わず1月頃にやめてしまう。正直、そのころ旅中にひげもじゃ、髪もじゃが自分的にしっくりきてココイチは身だしなみに厳しいのでやめ時かとも思っていた。3年生が終わった春は初のバックパッカー!一番の初心者コースである東南アジアを周遊し、チベットそして船で上海から帰ってきた。4年生になった。そのころには髭はいつもあり、髪の毛はツイストパーマをかけワイルド感あふれる雰囲気になっていた。ある日、天文部で髭でバイトできるところないかな?と後輩たちに問うとうちなら大丈夫ですよ!と言われたのが知る人は知るブラジル料理バルバッコア。人が足りなかったのもあってすんなり入れてくれた。バルバッコアは夜で昼間は渋谷のお寿司屋さん。渋谷からバルバッコアのある表参道までは歩けるので交通費をダブルでもらえる特典付き。バルバッコアは忙しくて仕事は大変だったけど陽気なブラジル人たちに囲まれ、ブラジル好きな日本人たちだったのもありかなり楽しい。仕事でバタバタ歩き回って体力は使うが話しが楽しくなんだか遊びに行っているような感覚だった。それからブラジルを意識し始めた。僕が使っているアマゾニアンはここで名づけられた名前。お客さんに「アマゾンから出てきたみたいだな」と言われ後ろで聞いていたブラジル人が大爆笑。それから「アマゾニアン」と呼ばれるようになった。バルバッコアでバイトを始めたころ、韓国語の学校に通い始める。韓流ブームなんてなかったときなので学校はあまりなく水道橋まで通っていた。韓国語のきっかけはさかのぼること中学校。ハングルが無性に読みたくなり、本屋でよく立ち読みはしていた。そしてトラベル韓国語というJTBの本を購入して今でも家にある。韓国語に接する機会はそれ以降なかったが大学3年生のNY短期留学中に韓国人がたくさんいて、楽しい!!とのことでNYでハングルの基礎を習い始め韓国語に火が付いた。大学はゼミを取らなかったのでテストのみ受ければOKの週0だったが韓国語は自由選択科目で履修していた。あとスペイン語も。卒業の単位には関係なかったが今後のために。そして4年生の夏休みは韓国へ短期留学。高校の同級生が韓国語学科なのもあり、同じ大学の語学堂、同じ下宿先にお世話になった。節約のためにその短期留学から日本へ帰らず直接、西ヨーロッパ、モロッコ、チュニジアを3か月かけて周った。1ドル135円とかなり高い時期だったのでしんどく飢えに近いときもあったが楽しい旅行となった。それ以来、西ヨーロッパは行っていないので少しお金ができた今、再度訪れたい。 卒業旅行はインド・スリランカを6週間。たっぷり刺激を受けた!★20代前半★大学の卒業式の5日後にはソウルにいた。しかも飛行機ではなく下関経由の陸路だ。なぜ卒業後の完全フリーなところで韓国を選んだかと言うと・・・2002年日韓ワールドカップ!!韓国はまだ席が余ってるとの情報が後押し。結局、行ってすぐに買ったがブラジルVSトルコと3,4位決定戦をGET!授業が始まる。韓流ブーム前なので日本から韓国語を習いに来たという人たちと言えば在日の人たち、オーストラリアなどで韓国人の恋人ができた、僕みたいに変わった人のどれかでほとんどであった。まじめに授業を受ける。2級から始めたのでみんなゆっくりだがそれなりに話せる感じで、休み時間中はおぼつかない韓国語なので英語も混ぜて話していた気がする。なぜ韓国語をと言うのは大学生後半の自己紹介のところで書いたがそれにプラスして韓国のお酒文化が大学4年生のときの短期留学で大好きになり、今回ははじめっから酒に走る。授業は午前中だけなので午後に宿題を済ませ、夜は飲みに行くという流れだ。韓国は飲み屋が安く当時は日本円で1000円もあれば普通に飲めた。日韓共催のワールドカップなのもあり日韓仲良くしましょうという感じが両国からとも出てきたのがこのころ。韓国のテレビ局SBSの日韓海兵隊キャンプに参加できることになった。2泊3日で軍隊体験をするのだ。日本人は絶対数が少なかったので誰でも参加できる感じだったが韓国人はかなりの倍率だったらしい。そのときの映像がYOUTUBEに載っているのでご紹介。僕、若いです(笑)3分57秒に集中!https://www.youtube.com/watch?v=TPFnOu9SgUg7分30秒に集中!https://www.youtube.com/watch?v=SrbfcuMvZ4s0分40秒に集中!https://www.youtube.com/watch?v=SQHTiH3gf80そんなこんなで5か月が過ぎた。次の4級の教科書を買ったが故事成語とかばかりで、3級までですでに基本的な文法は終わり。と言うことで仕事で使うつもりもないし、そこまで韓国語の能力を求めていないので1年いる予定だったが予定を早めて帰国することに。日本で2か月間、コールセンターの仕事をがっつりする。週7、午前9時から21時まで。稼ぐというよりはどちらかと使う時間を与えないという考えだ。2か月で50万円の純利益。次の目的はオーストラリアでワーホリだ。その前にタイのバンコクからマレーシア、シンガポール、インドネシア。そしてバリ島からオーストラリアに入った。一番初めに入ったパースは気に入ったが仕事の数が少なく、完全に日本食レストランとかのオーナーは上から目線。1時間3ドル(当時のレートで180円)から始めようではないかとか。。。ワーホリは英語の目的もあったが、ワーホリ後にはまた旅が続くので稼ぐつもりで来た。それもあってパースは断念したくさん仕事のあるシドニーへ。英語があまりできなかったのもあり、とりあえず中国人経営の日系焼肉屋で働く。学校にも通い始め、家はシドニーの中心まで歩いて行ける最安の韓国系シェアハウス。1週間で50ドル(当時のレートで3000円)5ドルプラスして払うと米、ジャガイモ、たまねぎ食べ放題。韓国人20名と日本人常時5人以下という韓国人ハウスだった。韓国語が話せたので大ヒーロー。調子に乗りますわ。しかーし!韓国語が話せるという鳴り物入りで入居したが聞き取れない・・・。方言だった。ちなみに韓国語の方言って日本より狭い国土でありながら日本よりきつく、僕の感覚ではスペイン語とポルトガル語より遠い気がしています。ショック!ということで釜山弁を習い始める。そして英語は半分諦め、韓国人経営の日本食テイクアウトショップにバイトを移したことからオーストラリアで韓国語生活が始まった。ぐんぐん韓国語は伸び、普通に釜山弁で話していたこのころ。オーストラリアでは30万円をトータルで稼げた。そのあと日本に一時帰国はするがすぐにアジア横断、東欧の旅を始めた。タイミング良くサッカー日本代表がUAEで3試合(オリンピック予選)、そのあとハンガリーとチェコにもA代表が来る。5試合中4試合にテレビ出演するという快挙!まあ、日本人応援団の絶対数が違いますからね。そのハンガリーとチェコのところでGOくんに出会う。ブラジルのサルバドールのカーニバルの話しを聞いた。なんとカーニバルに太鼓を練習して実際に出れるらしい!見るのではなく叩けるのだ!!それを聞いた僕は次に中南米の旅行を企てていただが今回の旅を早く切り上げて太鼓の練習をするための時間分を前倒ししたスケジュールに組みなおした。本来は東欧からシベリア鉄道で日本に帰る予定だった。飛行機でチェコからバンコク経由で帰国する。ロスから入り、まずは中米へ。グアテマラのアンティグアでスペイン語を勉強。先生と1対1で週5日の1日3時間で破格の40米ドル!1対1で英語も話せない先生となので伸びる伸びる!6週間で最後の2週間は午後の授業も付け加えて文法は一通り終わらせてしまった。つめこみだったので最後のほうのあまり使わないフレーズはすぐに忘れてしまったが。。。その後は中米をチキンバスで下って南米IN!主要どころはまわってブラジルのサルバドール!最後の2個の太鼓でぎりぎりセーフ!練習をしてめでたく出場できた!アマゾンなどにも行ってベネズエラから帰国。2005年の4月、26歳で中南米から帰国。グアテマラのスペイン語学校で出会った兄貴から連絡がきた。韓国系の会社に入ったんだけどバイトしない?とのこと。とても良い兄貴だし、直属の部下として働けるし、オフィスワークもしてみたかったし、韓国語を活かせる!?かもしれないしということで即決。物流部でのオフィスワークが始まった。同じ階には正社員として働く日本の社会人がたくさん!こんなの旅中になかった刺激だ(笑)この時、人生初めてFAXを送信。1年弱で旅費を稼ぐ。20代でこの生活は終わりにしようと決めていたので最後の長期旅行だ。ルートは今まで行っていないところを線でつなげたもの。・中央アジア→コーカサス(シルクロード)・中東・東アフリカ・西アフリカ・ロシア最後は前に中南米に早く行くために切り捨てたシベリア鉄道で帰国。チョコレートはもらってから出発しようということで2月14日の夜行バスで東京発。見送りに親友たちが新宿までかけつけてくれた。ちなみにいただいたチョコレートは人生最高の20個越えだ。もてもてなのではなく旅に出る「餞別」としてであろう(笑)この日の直前にもたくさんの友達を集めて宴会をしているのでたくさんのチョコレートも集まった。この宴会だが、今の海外旅行オフ会と日韓交流会の前身である。日本に一時帰国してたくさんの友達と会いたいが正直なところひとりずつ会っているとお金も時間も足りないので一気にいろいろな友達を集めて多いときは50人くらいで飲み会をしていた。今回は1年弱だったが1週間とか1か月くらいのスパンしかないときは1回の一時帰国につき1回のみの宴会であった。けっこう友達同士も仲良くなり、わいわいがやがやととても楽しい時間が過ごせた。そのパワーもすごい。50人で飲むのは5人のパワーの10倍ではない。勢いを増して100倍にでも達しているのではと思う。大人数で飲む楽しさがこのときわかった。チョコレートは食べきれずに旅に持っていく。節約旅行のお昼ご飯として重宝させていただいた。まずは名古屋、そして大阪、フェリーで釜山。釜山の宿を取って大邱の友達に連絡すると今日、誕生日会だということで宿代は損した形だがそのまま大邱へ。韓国には韓国留学時代やオーストラリアワーホリ時代の友達がたくさん。1週間の予定がなんと3週間いることになる。お小遣い帳をつけていたのだがこのとき韓国で使ったお金は1200ドル。このあと、中国からイスタンブールまで2か月半くらいかけて旅するがこのとき使ったお金も1200ドルと始めにずいぶんと浪費してしまった。楽しかったからいいや(笑)そのあとシルクロードを旅する。途中、ビザに挟まれ人生最初で最後!?(この後の西アフリカなどで渡す可能性はあるが)のわいろを払う羽目になったが誕生日の5月12日にはトルコのイスタンブールへ。ひとり誕生日は嫌だったので日本人宿で祝ってもらった。中東、東アフリカもいたって順調。アフリカのボツワナに足を踏み入れて渡航国100か国目!そして西アフリカへ!という当初の予定だったがブラジルへ飛ぶことになる。今回の旅中に出会った人たちにブラジルのサルバドールの話しをしていたらみんな行くと。仲良くなった人たちなので行ったらより楽しいだろうなあと思っているうちにブラジル行きになった。そして中南米旅行のときと同じくカーニバルに参戦しブラジルから帰国。と言うことで出発の時は世界半周の予定だったが結果的に世界一周になった。2007年4月28歳。翌月には29歳になるし、旅費を貯める時間を考えても「日本で出稼ぎ海外への生活」はこれにて完!結果論だが大学受験は失敗して良かったと今でもつくづく思う。成功してたら学歴携えて、「もったいない思考」から普通に良い会社に入るよう努力して普通に働いていたんだろうなあと思う。滑り止めで入った武蔵大学だけどあの自由な校風と良い教授(むっちゃ海外志向で後押ししてくれた)に出会えて本当に良かった。VIVA武蔵!失敗が断然良い道を生むこともある良い例。30歳からは下記のリンク先へ旅する雑貨屋コパカバーナを始めた経緯http://ameblo.jp/amaz0na/entry-11992264751.html海外旅行オフ会を始めた経緯http://ameblo.jp/amaz0na/entry-11993782620.html日韓交流会を始めた経緯http://ameblo.jp/amaz0na/entry-11994127365.html
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テーマ: 日韓交流会
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