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未熟児で生まれた私は生まれてすぐ泣かない赤ちゃんでした。このときに父が「死んでる!」と叫んだ衝撃がトラウマの一つになったようです。父が肋膜で長期入院したことでしばらく母一人仕事を再開しながら私を苦労して育ててくれたと思います。幼児期からとにかく身体が弱く、溶連菌感染症のしょう紅熱になり入院隔離されたことなど今も覚えています。そんな子供時代を過ごしたので近くの親戚の家で一人で過ごすことも多く、一人っ子のわりに気を遣う子どもでした。親戚の家族に起こる様々な人間模様を見聞きし、家では気が強すぎる母と退院して復職した父の絶え間ない口争いに心を痛める敏感で神経質な子どもでした。親戚の家にあった年上の従兄姉たちの本や、親に買ってもらった子供向け文学全集にクッキーのかすをボロボロ落としながら読み漁り、一人で過ごすことが多かったのでその淋しさや子どもなりの現実の辛さから逃れるためにか空想しがちでした。中学時代は大学ノートに「自分はなんのために生きているのか・・・」といった悩みや疑問をいつもいつも書いていて、参考になりそうな本もかなり読んでいた記憶があります。しかし学校では友達と冗談を言ったりふざけたり面白いことが好きな子どもで「生きる悩み」については友達と話すことはなかったように思います。長じて大学は単に英語の成績がよかったため英文学科に入りましたが、入ってからは英文学にはまったく興味が持てず、文法は好きでしたが実用には疎く、早く時間たって卒業したい気持ちが常にあり、基本的に無気力な状態が多い学生時代でした。今でも覚えているのは何に反抗しているのかもわからずただただ面白くなくて成人式なども行かず、少人数のシェークスピアの授業の先生に「なんか面白くない顔してるねー」と言われたことも覚えています。多分穏やかでやさしい先生だったので半分申し訳なく思ったのかもしれません。 就活も今とは違い熱心にしていなくて、心配した当時の学生課の名物スタッフに「外資系製薬会社の研究所」がまだ受けられるよとアドバイスされ、そこを受けて内定をもらいました。そこでは研究部門の部長秘書兼その部門の庶務的な仕事でしたが、2週間で事務の能力才能がないことに気づきました。結局無気力状態は底でずっと続いており、若さゆえのいろいろなイベントごとに気を紛らわす毎日だったと思います。3年ほど経ち前から交際していた人と結婚したため退職しました。夫とは仲良く過ごせましたが、その中でも私は無気力状態が潜在しており、「私は何かするべきことがあるのにしていない」という思いと「一見幸せなこの状態は長くは続かないのでは」という不安な想いがいつもありました。身体も弱くひどい腰痛や扁桃炎を始終起こし、夫より先に死ぬんだろうなーという思いで「死」について書かれたキューブラーロス博士の「死ぬ瞬間」や「シルバーバーチの霊訓」などを読み漁っていました。しかし、結局は夫のほうが36歳になったばかりの若さで、解離性大動脈破裂であっという間に先立ってしまいました。「死」についてはいつも頭にあったので「夫の死という現実」は理解というか悲嘆の中にも受け入れました。しかしなぜそういうことが自分に起こったのだろうと思っていて、その怒りや悲しみを手放すにはかなりの年月が必要でした。それから私の2つ目の人生が始まりました。大切な人を失うと一時的に「自分は死にゆく人に寄り添って生きるような仕事」をしたいと思ったりすることがありますが、私にもそんな感じのときがありました。結局なにをどうしたらよいかわからないままにいましたが、恩人ともいえる人生の先輩の女性の知り合いの方に福祉関係の行政の嘱託(6か月)を紹介して頂きました。半年してそこの方から特養ホームでの介護の仕事を紹介され思い切って働くことになりました。体力も経験もありませんでしたがとにかく飛び込み、腰を傷めて休養もありましたが2年間働きました。思いだすと夜勤明けは帰りの電車に乗っても降りるべき駅を寝てしまって通り過ぎ、また戻ると気持ちよく寝てしまってまたしても通り過ぎ、2往復くらいしたこともあります。夜勤は50人を1階、2階で分けて二人で担当するので大変ですが、朝方素早くおむつ交換と清拭をしてミーティングに間に合わせるのですが何事もなく終われば一種の達成感はありました。そこでの仕事の大変さは忙しかったり重労働だったりすることはありますが、一番は人間関係だったと思います。お年寄りの身体面についてはプロなので褥瘡の手当などとても進んでいた職場ですが、精神面に関しては、プロはいないのでなにかあっても「それは精神的な問題だから」で見過ごされていました。また多忙の中で淋しげなお年寄りと長めに話していると陰口を言われたりしました。そんな中で当時悔しがりだった私は「それなら私は精神面のプロになってやる!」と密かに思ったことが大学の心理学科に入り直す一つのきっかけでした。自分の出た大学の心理学科の学科長にアポをとり、学士入学制度があることを知りしばらく自主勉強をして試験を受けました。2年から入り、3年で修士を受けるよう勧めてもらいました。正直臨床心理士の資格という目的がなければドロップアウトしたのではと思います。また当時個人的な悩みがありとてもつらく、人生で何番目かのきびしい時期だったと思います。それでも乗り越えられたたのは修士のとき個人スーパヴァイザ―になって頂いた外部のユニークな先生と出会ったことが大きかったと思います。この先生からは、私がカウンセラーをやめないですむための貴重な教えをたくさんいただきました。修士ではフィールドワークで単科精神科病院で精神分析の患者さんを受け持たせて頂き、またその病院が関係した精神科クリニックでいろいろなケースに当たらせていただきました。当時の高名な心理臨床家の先生にグループスーパーヴィジョンも受けることができました。修士を修了してから今では故人になられたスーパヴァイザ―の先生に茨城県の企業の健康管理センターを紹介して頂き、母を老いて単身8年間勤務しました。その企業を退職するときに、その企業を私より前に退職され、千葉県の企業に転職されていた産業医の方にそこ呼んで頂き、そちらに月に6日勤務するようになりました。そこでの勤務は現在も続いています。また同じ時期に別のご縁で知り合った医療スタッフからあるある行政機関の健康管理クリニックを紹介して頂き、そこにも月4-5日の勤務を続けています。現在は月10日は外部でのカウンセリングに出向き、他の曜日を自宅兼オフィスでのカウンセリングにあてています。2013年くらいまでスピリチュアルな方法も併用して実践しているうちにいろいろなエネルギーを受けて身体を傷めていることを強く実感しました。そのためよりしっかりしたプロテクションの必要性を強く感じて模索しているときに、現在中心的に勉強を継続している錬金術による手法に出会いました。現在もその手法の認定トレーナーからの学びととスーパーヴィジョンを継続しています。それ以降自分が変容するにつれ、一言でいうとものすごく楽になり現在では大変さはあるものの、仕事に深い「喜び」を感じられるまでになりました。それまでの私は一生懸命仕事をしてきたと思いますが、疲れすぎていたし、仕事が好きとは言いにくいのが正直なところでしたから。2019年夏までにはセッションのほか「カウンセラー、ヒーラーのためのスピリチュアルカウンセリング講座」やその易版も、カウンセラー、ヒーラー以外の方のために作る予定です。因みにこホームページやブログ、メルアドの「アルケリル」という名前はアルケミ―(錬金術)といつもサポートしてもらっている錬金術エネエルギーのスターチャイルド(チャネリング猫)のルカちゃんとリカッちょん と名付けた2体の陶器の猫の名前を合わせたものです。突然その名前が降ってきたのでそのままオフィスの名前にもしました。それでは皆様今後ともどうぞよろしくお願い致します!!
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