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「めざせ、映画監督!」エピソード①『ゴジラ』{アメンバー承認は読者登録をされた人を対象にさせていただきます}小学生の頃、遠足の前の晩は興奮してなかなか寝付けなかった・・・そんな経験は誰にでもあるだろう。 もちろん私も遠足の前の晩はドキドキして寝付けなかったクチなのだが、遠足以上に興奮して結局朝まで一睡もできなかった事が何度もある。 映画『ゴジラ』シリーズを観に行く前の晩の話だ。 あの頃は(今もそうなのだが)とにかくゴジラが好きだった。大きくなったらゴジラになりたい、と本気で考えていたほどだ。 だから翌日ゴジラを観に行くとなったら、胸は高鳴り血は沸きあがり頭の中をゴジラが駆け回り・・・目はギンギンに冴え渡るという具合だったのだ。 ではなぜ私がこんなにゴジラを好きになったのか、順を追って説明しよう。 私が最初にゴジラに出会ったのは小学校一年生の時、『モスラ対ゴジラ』の中である。 劇場のスクリーンで初めてゴジラに出会ったときは怖くて腰を抜かしそうになり、正義の味方のモスラが(モスラの産んだ)卵を守るために命を懸けて戦う姿に感動し、泣いてしまった。 心底感動した私は、映画が終わっても暫くの間、席を立つことが出来なかった。そしてどうしてももう一回観たいと思った。 当時『ゴジラ』は5本立て(の最後)で上映されており、ゴジラを観るためにはアニメ映画なども一緒に観なければならなかった。もしゴジラをもう一度観るとすれば他のアニメ映画も繰り返し観なければならず、子供ながらに苦痛だったがそれでも『モスラ対ゴジラ』がもう一度見たかった。私は一緒に来ていた母親に頼み込み、後でロビーで待ち合わせをする事にして母が買い物に行っている間、私は一人で映画を見る事になった。 初めに観た時はその迫力に圧倒されるばかりだったが、二回目はもう少し冷静になって観たので話の展開も分かり、ゴジラやモスラのいる不思議な世界に更に引き込まれていった。とにかく見れば見るほど新しい発見があるようで、飽きる事がない。 私はどうしてももう一度見たいと思った。 映画が終わってロビーに行くと、母が待っていた。「もう少しだけ見てもいい?」 母は「まだ見るの」と言いたげな顔で私を見たが、買い物が残っていたからか「6時にはここにいるんだよ」と言って劇場を出て行った。 劇場に来た時は早朝だったのに、窓から見える空は赤く染まっていた。次の『モスラ対ゴジラ』を見たら夜になる。それでも私は母がなるべく遅く迎えに来る事を祈りながら映画を見続けた。 だが、『モスラ対ゴジラ』が始まる寸前に館内放送で私の名前が呼ばれた。母がロビーで待っている、とアナウンスされているのだが、私はどうしても席を立てなかった。 せめてファーストシーンだけでも見たかったのだ。 しかしその願いも虚しく、暫くするとカンカンになった母が私の前に立った。私は相当に無念の思いを残して劇場を去らねばならなかった。 翌日から学校の昼休みには毎日ゴジラごっこをした。私は当然ゴジラの役で、友達にはモスラやモスラの幼虫になってもらうのだ。想像の中で私は思い切り尻尾を振り回し、目をギロリと光らせて放射能を吐き出した。私は無敵だった。誰も敵うものはない。思う様世界を蹂躙し、暴れ回る。キライな勉強も宿題も全部ぶち壊す。 私は心底ゴジラになりたかった。 もちろん、現実にはそんな事があるわけもない。 ゴジラになれない代わりに、私は紙と鉛筆さえあれば常にゴジラやモスラの絵を描いていた。当然授業中も例外ではない。それが見つかって担任の女教師(かなり年配で定年前だった気がする)にこっぴどく叱られたのも一度や二度ではなかった。とにかく四六時中描いていたので私の絵は(自分的には)かなりのレベルに達していたと思う。 そんなある日、宿題プリントをまとめておくための綴り帖を作る授業があった。綴り帳の表紙に使う画用紙に好きな絵を描くのだ。「何でも自由に描いて構いません。一時間目と二時間目は自習にしますから、皆頑張って描いて下さいねー」 そう言われても皆何を描こうか迷っていてすぐには描き始められない。しかし私は下絵も描かずにすぐにクレヨンを取って描き始めた。 当然、ゴジラの絵である。手慣れたものだ。「すっげぇ、ゴジラじゃん」 右隣の男子が言った。 この頃はゴジラの映画が頻繁に上映されており、男の子なら誰でもゴジラが好きだった。それで「僕のも描いてくれない」と頼んで来た。「いいよ」 私は明るく返事をして描いてあげた。 ところが左隣に座っている女子まで「ねぇねぇ、私にもゴジラを描いてくれない。私はピンクのゴジラがいいな」と手を合わせてきた。 勉強が大の苦手だった私にとって、級友から頼りにされるなど初めての経験だった。私は嬉しくて仕方がなかった。 アッと言う間にピンクのゴジラも仕上げてあげた。 しかしその時には私の周りにはゴジラを描いてほしい人間で人だかりが出来ていた。次から次に頼んでくる友人のために休み時間も返上で片っ端からゴジラを描いた。正確には覚えていないがクラスの半分位の人間の宿題綴り帳にゴジラを描いてあげたと思う。 二時間の自習が終わる頃になって先生が現れた。「それじゃ皆さん、できましたねぇ。じゃ、見せて貰おうかなぁ。では一斉に先生の方に向けて高く上げて下さい。せーのっ」「はーい」 全員が高々と宿題綴り帳を上げた。 その瞬間、先生の顔は蒼白になりフラッとよろめいたように見えた。 が次の瞬間、鬼のような形相で真っ赤になって私に「コラーッ」と怒声を上げた。 その後、何と言って叱られたのかは全く覚えていない。(当時の私は何故怒られなければならなかったのか、さっぱり分からなかったのだ。)ただ、気を失うのではないかと思う位蒼白な顔と、真っ赤な鬼の顔だけは今もハッキリと覚えている。 その後益々私はゴジラ映画にのめりこんでいった。ゴジラ映画が封切られる前日の夜には興奮してなかなか寝られなかった。 そしてほとんど必ず初日に映画館に観に行った。同時上映作品が少なければ、同じ日に三回はゴジラを見た。更に、仲の良い友達が別の日にゴジラを観に行くといえばそれにも一緒について行って見た。だから同じ作品を多いときには十回近くも観た事がある。 ゴジラを観た後は物語の内容を母親に聞いてもらうのが恒例になっていた。「映画は二時間もないはずなのに、お前は二時間以上もゴジラの話をする。驚くよ。その位熱心に勉強してくれればねぇ・・・」 母は呆れながらも笑ってそう言った。 しかし、どんなに好きでもやはり人間はゴジラにはなれない。 私はやがてゴジラになる事を諦め、代わりにゴジラの映画を創りたいと思うようになった。 映画を創る人・・・それが映画監督と呼ばれる仕事である事も知った。 つい最近、小学校の卒業文集が実家の押入れの奥から見つかった。 文集の最後には《将来の夢》というコーナーがあり、男子はプロ野球選手やパイロットが圧倒的に多かった。その中で私はただ一人「映画監督になりたい」と書いていた。 それから三十年以上の歳月が流れた。 夢は、まだ実現していない。しかし諦めてはいない。四十半ばを迎えた私にとって『映画監督』は夢ではなく目標である。ビデオ映像の世界では何とか『監督』の端くれ位にはなれた。これからは、劇場で上映されるような映画を創る事に一層の情熱を注ぎたいと思う。その実現に向けて、ブログを始める事にした。 ゴジラから始まった映画への思いはその後ブルース・リーやスピルバーグ、そして黒澤映画をはじめとする多くの映画と出会う事によって影響を受け、更に大きく育って来た。勿論映画だけでなく、様々な人との出会いや出来事があり、その全てが今後の目標(映画創り)の糧となっていると思う。そんな日々の歩みやエピソードを織り交ぜながら、このブログを綴っていこうと思う。
テーマ: 劇団真怪魚
テーマ: ブログ
アラフィフ
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