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なんで司法書士になったのか・・・。
私のこれまでの人生はご覧のとおりです。
<略歴>
生まれたときは東京でした。
西武池袋線のひばりが丘に住んでいました。
2歳のときに宮城県の仙台市に引っ越しました。
親の転勤でした。
宮城野区の清水沼というところにずーっと住んでいました。
親は転勤族だったのですが、
なぜか16年間も仙台支社に在籍していました。
今になって思うと、転勤の連続より、
少年時代をひとつの場所で過ごすことができてよかったと思います。
宮城野中学校時代は、(その年頃の子供にしては)背が高かったので、
バスケット部に入っていました。
身長は、中学2年で止まりました。
現在170cmです。
※若干サバを読んでいるので本当は1~2cm低いです。
仙台第一高校というところに入りました。
とてもおかしな学校で、
・校内土足
・なのに掃除が学期末のみ
・そして男子校
・鼻毛伸び放題
・バンカラをきどっているが、単に汚いだけ
・入学式のときに、司会の先生から
「今年は生タマゴ禁止!」と注意がある。
・先生はたまに赤ら顔
・女の子に興味があるが、話しかけることができない。
・中学校の卒業アルバムが好き
こんな感じです。
バスケットの才能はないとあきらめ、
高校ではヨット部に入りました。
仙台は松島に近いのでそこの海でたわむれるのです。
松島というと、キレイなところをイメージされるかもしれませんが、
海は汚いです。
そこに1年生は放り込まれます。
ずいぶんと危険な遊びをしていましたね。
ヨットは高校以来乗っていませんが、
またやってみたいと思っています。
ヨット部というのは、土日のみの活動でしたので、
平日はヒマです。
ヒマなので、ギターを始めました。
ヤマハ音楽学校に週一回通って、
毎日何時間も練習していました。
ロックのわりに結構マジメです。
ボウイのほか、ブルーハーツも全盛期でした。
ライブハウスを借りてチケットを手売りして、
そういったなんやかんやが面白い頃でした。
高校卒業時、ほとんどの友人は
「一浪して東北大学」
というコースに進みます。
私は一浪なんてかったるいし、
みんなと同じもつまらないと思って、
立命館大学に行くことにしました。
国際関係学部というわけの分からないところに
入ってしまい、結局、今もってどういう学問であったのか
分かりません。
一人暮らしまでさせてもらって、
こんなありさまで、
両親には申し訳ない気持ちでいっぱいです。
ただ、勉強以外の部分については、
とても恵まれた大学生活でした。
国際関係というだけあって、
帰国子女が多く、
先輩がインド人だったり
(その人は電通に入ってカレーの企画をやったとかやらないとか)、
韓国の友達や、
いろんな人がいました。
1回生の冬休みにアイルランドのダブリンに行き、
1ヶ月のホームステイを体験しました。
そのおかげかどうかわかりませんが、
外国を旅行しても不自由はしないくらいの
英語はできるようになりました。
※知り合った人と世界情勢について
語ることは不可。
大学でも音楽は続けておりましたが、
さすがにブルーハーツもどうかと思いましたので、
ゴスペルなどやってみました。
コーラスのバンドでギターを弾いていたのです。
ジャズなど聴き始めたのもこの頃です。
それでもやっぱりロックは好きなので、
エアロスミスとか、
レニークラビッツとか、
そんなのをコピーしたり、
オリジナルの曲を作ったりして、
京都のライブハウスで演奏していました。
その頃は髪も長く、
今よりもちょっとだけ痩せていました。
就職活動も終わった大学4回生の夏休み、
とくにすることもないので、
バックパックを担いで東南アジアに向かいました。
最初はインドネシアのジャカルタです。
空港についたときの薄暗さ・アジア独特のニオイを
今でも思い出します。
沢木耕太郎さんの「深夜特急」に影響を受けたクチですので、
また、リッチな旅行をするほどのおカネがあるはずもないので、
当然安宿に泊まることになります。
1泊数百円のゲストハウスに泊まり、
ドミトリーで出会った世界各国の旅行者と
酒を飲んで、バカ話をした(おもに女の話。各国共通)ことで、
今でも外国人の人とすぐに打ち解けられる要因かなと思います。
ジャカルタからジョグジャカルタへ行き、
なぜかその後バリまでは行かずにジャカルタに戻り、
長距離バスでブキティンギという小さな町を経由して、
スマトラ島を北上、メダンの町まで行き、マレーシアまで飛びました。
シンガポールにはライオンしかないと聞いたので、
行かなかったのです。
マレー鉄道で北上し、タイのバンコクまで行きました。
電車の旅というのも風情があって、
窓から顔を出していると、「世界の車窓から」のような感じです。
夜行列車でしたが、とても清潔で、
車内で食べた夕食もナプキンとナイフ・フォークという、
ちょっと贅沢な雰囲気です。
国境を越えるときにパスポートチェックや、両替をするのも
日本では味わえない感覚でした。
タイではグリーンカレーばかり食べていた、
わけでもなく、やっぱり移動移動の連続でした。
どうも、電車やバスで移動すること自体が好きみたいです。
トゥクトゥクという三輪車で市内を回るのも大好きです。
チェンマイ、チェンライといった北部の町まで行き、
トレッキングなどしました。
新卒で入社したのは日興證券株式会社(当時)です。
兵庫県の西宮支店に配属になり、個人富裕層を対象として
株式や債券や、投資信託などを販売するのが仕事です。
営業エリアには芦屋というお金持ちの住む町があり、
豪邸に無謀にもポスティングなどしていました。
1年半ほどで日興證券を退職し、
その後、またまたバックパックを担いでしまいます。
大阪の南港からフェリーで上海まで2泊3日かけて行き、
そこから半年におよぶ放浪生活が始まりました。
上海から西へ向かい、洛陽、西安。
そこから東へ北京まで。
北京からモンゴルへ行こうと思い立ち、
現地でビザをとり、
電車のチケットが満席でとれないため、
バスで国境の町まで行きました。
このバスが臭いのなんの。
国境の町で、ダフ屋から電車のチケットを買い、
モンゴルのウランバートルまで行くことができました。
モンゴルは、都市部からクルマで数十分走ると、
もう草原地帯が広がっています。
ゲルという遊牧民の白いテントにステイさせてもらいましたが、
羊の内臓鍋には度肝を抜かれました。
それでも、夜空にキラメク星の数は
日本のそれとは比較にはならないほど多く、
星が「降ってくる」ような感覚です。
モンゴルから中国に戻り、
電車・バスで2週間くらいかけて高山病になりながらもチベットまで行き、
そこが旅の終わりでした。
中国旅行から帰ってきて、
働き始めた会社が
株式会社ロックフィールドです。
東京の国立店で店長を2年ほどやり、
その経験からブログのタイトルをつけました。
本当に毎日毎日コロッケを揚げていました。
コロッケだけでなく、
そうざい、弁当いろいろです。
社員というのは、私ひとりで、
あとは年代の様々なパートの女性に
手伝ってもらっていました。
人を使うというのはこのときがはじめての経験でしたが、
本当に難しかった…(泣)。
当時25歳の若者が、
下は高校生、上は50代の、
10数人の女性を管理するのは酷なものがあります。
…今でもあまりやりたくないですね。
いつまでもコロッケを揚げているわけにもいかない、
結婚もしたし、この先どうしようと、
けっこうお先真っ暗的な感覚を持っておりました。
退職するにあたって、
三社目に転職をするかと検討しましたが、
それまでの経緯から自分にはサラリーマンは向いていないと思い、
独立するしかないと考えました。
しかし独立するといっても、
何ができるというわけでもない。
であれば資格をとるしかないのではないか、
じゃあ何の資格か、
本を読んだり、
受験予備校のパンフレットを読んだり、
いろいろと研究して、
弁護士、公認会計士、税理士、社会保険労務士、行政書士…
資格といっても、さまざまなものがあることがわかりましたが、
どれがやりたいのか。
裁判とか数字の話はどうも違う。
そんなとき、司法書士の業務として「相続、遺言」というのが
目に飛び込んできました。
コレダ、コレナノダ。
と直感的に感じ、
司法書士になることに決めました。
そのほかには、資格をとってから、開業するまでの期間が
短そうだということも決断の要因です。
コロッケ屋さんの退職の手続きをしたのは、
結婚してわずか半年のことでした。
そこから1年半、早稲田セミナーで勉強し、
「落ちたら離婚」と、
妻に脅されたおかげか、
1回の受験で平成16年に合格しました。
合格後は、世田谷の司法書士事務所で1年ほど勤務させていただき、
仕事を覚え、平成17年の9月に独立しました。
カネなし、コネなしの29歳での独立開業でしたので、
不安だらけでしたが、
相続・遺言を中心にお仕事をいただき、
今にいたっています。
現在は東京都の小平市に事務所を設けております。
平成20年には「相続アドバイザー協議会」の認定会員にもなりました。
独立と同時に資格予備校の早稲田セミナーで講師をつとめ、
司法書士試験の受験科目すべて(11科目)を担当しました。
※長文でしたが、読んでいただきありがとうございます!
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