【takesama殿下 プロフィール】
(演奏家として一線を退きました限り、本名及び所属団体、関連団体等を明かすことは現役奏者である仲間たちに何らかの影響を与えてしまうと考えて居りますため、以下、必要箇所を伏字とさせて頂きます。)
4歳より16歳までピアノを習い続ける。
コンピュータに興味があり、芝浦工業大学附属の高校へ進学するも、音楽の道を諦められず、吹奏楽部に入部。打楽器と出会う。吹奏楽コンクールでいわゆる「ダメ金」(その先へは進めない金賞)を受賞するも、音楽というものに甲乙を付けるやり方に疑問を感じる。
高校最後のコンクールの際、ある審査員から直接「君は吹奏楽よりも管弦楽でティンパニストを目指すほうが良い」と進言される。これが現在の「スーパー○○メソッド」(○は私の本名)の追求へと繋がる事となる。(ブログでは、メソッドの一部である弟子たちに教えた言葉を、「takesama教典」として御紹介して居ります。)
芝浦工業大学への進学を蹴り、浪人して某総合大学へ音楽推薦ではなく、あえて一般入試で進学。大学では附属吹奏楽団で3年間首席ティンパニストを務める。
在学中に打楽器アンサンブルの曲を作り、母校の高校へ進呈。これが私の唯一の作品となる(と思われる)。
1995年3月ディプロマ取得。
1996年、更なる修行の場と「自分たちにしか出来ない音楽、隠れた名曲を御届けする、日本の吹奏楽界に一石を投じる真のプロフェッショナル楽団」の必要を強く感じ、1995年より一年間を費やし、某吹奏楽団を設立。これまでに、共同代表、副代表、インスペクター、監事、打楽器パートリーダー、打楽器セクションリーダー、首席ティンパニストを務める。その間、数々の吹奏楽団、管弦楽団へ賛助出演をし、徐々に好評を博すようになる。「炎のティンパニスト」と呼ばれたのもこの頃。
2008年頃より身体を壊し、徐々に活動を縮小しながら、所属吹奏楽団では首席の座を筆頭弟子に譲り、現在10人の弟子達への指導を行いながら、ステージ復帰を虎視眈々と狙う。
2010年4月、埼玉県の自宅に住民票を残しながら、母方の実家がある長野県へ、それまで別に暮らしていた両親と共に移住(母方の実家で伯父が守る田畑に跡取りが居ない事と、それに対する私のある「企み」の為)。長野では農業を、埼玉では音楽を、という「二足のわらじ」生活が始まる。
2010年秋、療養中に長野の自宅で意識不明となり、集中治療室に運ばれ、一命を取り留める。(後に医師より「あと5分、発見が遅れたら心臓が止まっていた」と告げられる)
現在、音楽活動は休止し、自宅療養中。
人生において、叶えたい夢がありました。
その一つは、音楽家となり、自分の力でプロフェッショナルな楽団を創立する事。これは叶いました。現在も、後進たちの力により、更なる成長と活躍の場を広げて居ります。
次の夢は、農業を習得し、更に上記の「企て」で御座います。現在進行形です。この企てとは、ウサギとニワトリの飼育で御座います。
更に、最後に大きな夢を描いて居ります。これはまだ本当の意味で「夢」で御座います。
そんな、壊れても立ち上がろうとする「雑草ティンパニスト」takesama殿下の運命や如何に!?
「腕は錆びても、魂は錆びず! 錆びた腕は地球のエネルギーを得て、再び「炎」となるのだ!」