我ながら浮き沈みの激しい人生を送って参りました。
(以下、長文です)
東京オリンピックが終わって間もないころ、福岡市内で自動車整備工場を経営する両親の長男として誕生。
当時は父の仕事の景気がよく、ペダル式のベビーカーを持っていたのは、肉屋の息子と僕の二人だけ
3歳のころ、自宅の池に落ちて溺れかける。おそらくこれが原因で、水が怖くなる
幼稚園のころは、かけっこが早かった
が
父の商売の関係で、小学校入学と同時に那珂川町に引越し。郡部の子供たちは走るのが早く、鈍足の部類に
小学校1年の時、担任の先生の一言「差がついたら取り戻せない」に恐怖を覚え、必死に勉強して成績優秀。
小学校2年の時、はじめて小児喘息の発作。「お父ちゃん、ぼく死にたくない」と言って救急病院に担ぎ込まれ、酸素テントの中で一泊二日の入院生活を初体験。先生からは「あと15分遅かったら危なかった」
小学校5・6年生の時、担任の先生から「口ばかりでなく行動力がないとダメ」「陰日向がある人間はダメ」と言われて落ち込む。
中学校入学、身長135㎝と小さかった。早熟な同級生たちとの体力差に、コンプレックスを抱く。
喘息の発作も収まり始め、陸上部に入部して長距離を始める。理由は「喘息に比べれば楽だから」
先輩たちから筋がいいと褒められ、将来を期待される。
しかし競技会では、ビリケツを経験。
中学校3年時、唯一の取り柄だった成績も下降して、いよいよコンプレックスの塊となる。
福岡県立春日高校に入学。創設間もない3期生だったので、先生方にあらゆる面で鍛えられた。
何も考えずに陸上部に入部。毎年インターハイに数名が出場するチームは雰囲気がよく、自分の負け癖も解消。走るたびに記録が伸びる快感に浸る。専門の5000mは、走るたびに30秒から1分縮まるほど。
高校1年の冬、尊敬していた先輩が受験を理由に退部。いきなり5000m部門の責任者に戸惑う。
がしかし、自覚が出てきて練習にますますのめり込む。
勉強も絶好調で、学校で1番になる。マラソン大会の1番だったので、父がとても喜ぶ。人生で初めて父に褒められ(た気がして)ますます頑張る。
高校2年の春、5000mの母校の記録を更新。秋の新人戦で県大会目前の7位まで行くが、県大会出場は果たせず責任を感じる。
その冬、東京の大学生になっていた先輩と冬のトレーニングで1000m×20本という学生並みの練習で、坐骨神経痛を発症。
大学3年のシーズンを棒に振る。努力が実らないこと、体が言うことを聞かなくなることを、初めて経験する。
いま思えばいい経験をした。
陸上部を引退した後は受験に没頭。共通一次試験では、予想以上の高得点で合格確実と言われる。
がしかし、2次試験で失敗し不合格に。浪人を希望したところ、父から「チャンスは与えた。生かせなかったんだから就職しろ」と叱責される。
浪人中は予備校で楽しい高校生活?を送る。リベンジとばかりに、さらに難関校を目指すが、結局地元の大学に入学。いま思えば地元でよかった。
大学で1年で駅伝メンバーに選ばれるが競技に力が入らず、2年でマネージャーに。裏方の仕事に存在意義を求めていた。
大学3年のとき、父が発病。陸上部を休部し、学費免除・バイト掛け持ちで家計を助ける。他の家族は仕事で忙しかったので主婦となり、カレー・とんかつ・天ぷらなど、カンタンな料理ができるようになる。
父が亡くなる3週間前に、フルマラソンに初出場。目標の3時間切りは果たしたが、福岡に戻ると父親から「マラソンで飯が食えるか」と激しく叱責される。これが最後の叱責だった。
大学4年の時、陸上部は全国大学駅伝に出場。
大学始まって以来の快挙であったが、何も貢献出来なかった自分に無力感を感じる。
(つづく)