モズライトギター
モズライト・ギターの創造者『セミー・モズレー』は、子供の頃からギターを習い、その習熟に伴い、十代の前半から、自らの手で愛用のギターに工夫を加えることを始めます。そこから発展した彼独自のベター・ギターのデザインは、やがて世界の多くのプレイヤーに支持され、彼自身によるブランド『モズライト』の製作は生涯の仕事でありました。
それらは、彼が50年代に自らのために製作したトリプル・ネックに始まり、C&W界のジョー・メフィスやラリー・コリンズの愛器となったダブル・ネックへと繋がってゆき、60年代はポップスのザ・ヴェンチャーズ・モデルを生み出し、その後、ラモーンズやカーズのエリオット・イーストン、さらに日本の寺内タケシやノーキー・エドワーズなど、世界のミュージシャンに応じて製作したどれをとっても、彼のベター・ギターへの熱意が満ち溢れています。
ギターを置く事ができる小さな作業台と塗装に必要なスペース等が確保できれば、どんなところでも最高のクオリティのギターを造ってみせるというセミー・モズレーは、ロスのガレージからその製作を始め、その後、工房や工場はベイカースフィールドやジョナス・リッジなど、各地各所への移動や移転を伴いながら、個人や業者からのオーダーに、生涯を通してたくさんのギターを造り出しました。 中でも、とりわけ大きなビジネスとなったのがカリフォル二ア州のベイカースフィールドでした。 友人が貸してくれたトラクター・ハウスの片隅で始まったそれは、ロスから尋ねてくれたノーキー・エドワーズとの出会いによって発展拡大し、ここから『ザ・ヴェンチャーズ・モデルの伝説』が始まったといえるでしょう。
ザ・ヴェンチャーズが使用を開始してから数年かかって、やっと量産へのめどが立ち、楽器会社として多数の商品が準備されて、世界への供給が始まります。そしてヴェンチャーズがモズライト・ギターと共に来日し、空前のエレキ・ブームを巻き起こします。さらに、彼等と親交のあった加山雄三や寺内タケシも、モズライトを手にしてそのブームを牽引したため、セミー・モズレーのブランド『モズライト』が日本を席捲したといってもけして過言ではないでしょう。
当時のブームを体験したファンの間では、今も彼らが弾いていたモズライトへの熱い想いが語られ続けています。とりわけ人気が高いのが、ブームの立役者たちが使用していたザ・ヴェンチャーズ・モデルであり、それらは歴史から言えば、量産化に乗り出して前半3年ぐらいの間に製作されたものでした。日本からの要望に応えてこれを再び製作するために、セミー・モズレーはノースカロライナ州ジョナス・リッジの工房で全てを見直します。これが『リイッシュー』と呼ばれる再現モデルでした。63とか65という呼び名は、その再現にあたって基準となったギターのおおよその製作年代を意味しています。
このリイッシュー最初のサンプルは当時の日本の総代理店ロッコーマンによって1991年に楽器フェアで発表され、年末から予約販売が開始されました。これらは極めて好評で、翌1992年春、アーカンソー州ブーンヴィルに工場を開きます。60年代前期の各モデルの他、代理店であった高谷企画がプロデュースした63年モデルを発展させた『新ザ・ノーキー・モデル』もそこで製造されています。また、高谷企画は1993年に、やはり60年代モデルをベースとしたマリン・ブルーやクリーム・ホワイトの各種『ザ・ユーゾー・カヤマ・モデル』なども企画制作しておりますが、これらはセミーが世を去った後、ロレッタ夫人がアーカンソーの工場を指揮して造りだしたものでした。そのサウンドは、1994年に新しく録音された『ブラック・サンド・ビーチ‘94』や、1996年のアルバム『鯛取る』などで、今も聴くことが出来るでしょう。
今回、私たちは再びリイッシューを手がけるにあたり、1991年のセミー・モズレーの見直しをもう一度考えました。日本で製作することもあり、ロレッタ夫人の希望も加わって、セミーと本当に親交のあった方々や、モズライトに昔から精通している方々にも連絡を取り、ご協力をお願い致しております。結果的に細部にさらにメスを入れることは困難を極め、動きだしてから本当に長い時間が必要となりましたが、そのひとつひとつを改めて検証し、繰り返し手を入れた成果は、木部や構成する部品全ての完成度にとどまらず、そのサウンドにこそ『これがセミーのモズライトだ!』として遺憾なく発揮されることとなり、その結実を今や確信するに至りました。これこそ『真正』を謳って恥じない『モズライト』であると自負しております。是非一度、私たちの『真正モズライト』をお確かめください。
http://www.mosrite.jp/
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