プロフィール

ニックネーム
坂本憲彦@脳力コンサルタント
性別
男性
誕生日
1975年11月16日0時頃
血液型
B型
出没地
池袋周辺
職業
その他
職業詳細
経営コンサルタント、速読マスター講師

自己紹介

ご訪問ありがとうございます!
日本脳力開発協会 代表理事
坂本憲彦と申します。

現在は速読や記憶術、視力回復などの脳力トレーニングを
全国の学校や企業、介護施設などに普及していく活動を
行っています。
また、ビジネススクールの講師として
起業家や経営者の方々の指導も行っています。
このブログでは脳力開発やビジネスなどのテーマについて
お話ししていきます。

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マイプロフィール

出身地
和歌山県
お住まいの地域
東京都
職業
その他
ホームページ
http://www.nichinou.jp/

定番

趣味
歴史小説を読むこと、面白い映画を見ること
長所
人に分かりやすく教えるのが上手い
座右の銘は?
知行合一(知識と行動は一体でなければならない)

好き嫌い

好きなスポーツは?
サッカー(日本代表の試合は欠かさずチェック)
好きな男性タレントは?
島田紳助
好きな女性タレントは?
友近
好きなアーティストは?
GReeeeN(扉が大好きです)
好きなマンガは?
蒼天航路、アカギ、はじめの一歩
好きな本
坂の上の雲、竜馬がゆく、峠、ダビンチコード
好きな映画は?
ダークナイト、ホテルルワンダ、おくりびと
好きな車は?
SUBARUインプレッサWRX
好きな場所は?
上高地(めちゃめちゃ空気がきれいで、スイスみたいです)
好きな言葉は?
知行合一
好きなタイプは?
信念を持っている人

その他

尊敬する人は?
坂本龍馬、イチロー、島田紳助、松本人志、曹操孟徳、松下幸之助
自分を動物に例えると?
猿(人のマネをするのが得意だから)
最近一番感動したことは?
ビジネススクールの生徒から沢山の感謝の言葉をいただいたこと
子供の頃なりたかった職業は?
本屋さん
今からでも挑戦したいことは?
穂高岳への登山

■坂本憲彦のプロフィール

■坂本憲彦

日本脳力開発協会 代表理事
株式会社ナレッジアクション 代表取締役

メルマガ 1日1分脳トレ講座
     速読の学校 無料メール講座

ブログ ビジネスマン必見!速読・記憶術で脳を鍛えて
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講座 速読の学校
   インターネットビジネス成功の秘訣セミナー



■和歌山生まれ

坂本憲彦は1975年11月16日に
祖父の代から住んでいる和歌山で生まれました。

それから、どんな生活をして育ってきたのかについて
こちらですべてお話していきたいと思います。


■父の代から住んでいた家


私の実家は、和歌山県の県庁所在地である和歌山市の北のはずれにあります。

家の裏はすぐに山があるようなところに建っている一軒家です。

生まれた時の家は、木造の平屋建てでした。

そこに、私の父、母、姉の4人で暮らしていました。

この家はもともと、祖父が建てた家だったそうです。

私の祖父は明治生まれで、戦時中は軍人として海軍工廠(海軍の軍需工場)で働いていました。

祖母によると戦時中は結構、食べるものもあって、裕福にくらしていたそうです。

ただ、戦後は仕事がなくなり大変だったそうです。

仕事が無くなった祖父は一生懸命に農業を営み、その後、田んぼを3つ所有できるまでになりました。

そして、父は祖父の5人の子供のうち、3番目の次男として生まれました。

父が生まれたのは、昭和15年、広島の呉で生まれました。

祖父が戦時中に日本中を転勤していたので、父は呉で生まれたそうです。

ただ、生まれてから半年後には引っ越しをして別の場所に住んでいたそうです。

そんな父は成人してから、30年間、鉄鋼会社の工員として働いていました。

真面目一筋な父はずっと三交代の勤務を続けて働いていました。

母の生まれは和歌山県の紀ノ川市です。

母は生まれた時から身体が弱かったそうです。

父とはお見合いで結婚しました。


■幸せだった家族4人での生活

私が生まれてからの一番最初にある3、4歳頃の記憶を振り返ってみると
母との思い出が甦ってきます。

3歳上の姉と私は幼い頃はよく遊んでいました。

ある日、とても雷の強い日がありました。

昼間にも関わらず辺りは真っ暗でした。

その日は家の縁側で、姉と二人で遊んでいましたが、
突然、大きな雷が鳴り響きました。

幼かった当時の私はとても怖くなって、
母のところに急いで飛びついていったのを覚えています。

その後も続く雷の恐怖で私と姉はずっと母の足にしがみついていました。

その私たちを守るように抱いてくれていた母のぬくもりは今でも忘れられません。

また、私は近所の書道教室に通っていました。

その日は母の誕生日でした。

書道教室の帰りに咲いていたタンポポの花をつんでかえりました。

タンポポの花をプレゼントしてあげた母の顔はとても嬉しそうでした。


■突如、襲った母の死

そんな幸せだった私たちの家族に突然、その日がやってきました。

もともと身体の弱かった母が急遽、体調を崩して入院することになったのです。

私が小学校1年生になった8月でした。

ただ、その時の入院は1ヶ月ほどで退院できました。

母はまた以前のように元気な姿を取り戻しました。

私も姉と二人で喜んでいました。

しかし、母の病気は私たちの目の届かないところで着々と進行していたのです。

その年の12月に再び、母が倒れたのです。

原因は不明でした。

夕方の4時頃、夕飯の支度をする前に
母は突然、気分が悪くなって倒れ込んでしまったのです。

そのまま、父が病院に連れて行って、再度入院になりました。

その後の母の容態はどんどん悪化していきました。

私は当時、まだ幼かったので母の病がどれほど重たいものなのかを理解していませんでした。

母のいない正月を自宅で過ごしたあと、
病院にお見舞いにいきました。

しかし、そのときの母の病状はかなり悪化していました。

人工呼吸器を口に当てられていました。

父によると、すでにその時には自発呼吸はできなかったそうです。

そして、その数週間後、昭和58年1月27日に母は息を引き取りました。

37歳の若さでした。

8歳の私にとっては辛い別れでした。

あの優しかった母のぬくもりが今でも忘れられません。


■明治生まれの厳しい祖母に育てられた小学生時代

母が亡くなってからは
父方の祖母が一緒に同居して、幼い私たちを育ててくれました。

祖母は70歳近くまで看護師を務めた気骨の人でした。

小さな身体で人の世話を良くする祖母でした。

祖母は当時76歳。

私が8歳で小学1年生、
姉が11歳で小学4年生でした。

76歳のおばあさんが小学1年生と4年生を育てるのですから、
今思うと、祖母も大変な覚悟を持って私たちの世話をしてくれたんだと思います。

子育ては若い人でも大変なのに
70歳を超えてからさらに子育てをするのは本当にすごいことだと思います。

やはり、明治生まれの女性は強いですね。

戦争を経験して、戦後の大変な時代を乗り越えて
子供を5人育ててきたという経験があったからこそ
76歳になって、私たち姉弟を育てられたのだと思います。

ただ、祖母のしつけは厳しく小学生の頃はほとんど
ものは買ってもらえませんでした。

当時、大流行だったファミコンも一度も買ってもらったことはありませんでした。

私はもっぱら友だちの家に行って、
友だちがゲームをしているのを隣で眺めるという役割でした。

また、外食にもほとんど行ったことはありません。

年に一回あるかないかくらいでした。


■1日50円で過ごしていた中学生時代

中学生のころはサッカー部に所属していました。

小学3年生からサッカーをしていましたが、
あまり上手くありませんでした。

試合では、いつも12人目の選手でした。

誰かがケガをしたら出られる控え選手でした。

また、中学時代もまったく贅沢はできませんでした。

中学生にも関わらず1日のお小遣いは50円という少なさでした。

父に何度かお小遣いのアップを交渉してみたのですが、
その度に断られました。

ひょっとして自分の家は貧乏なのかな?
思う程でした。


■とにかく苦しかった高校生時代

あまり勉強の出来なかった私は
地元の中堅の公立高校に進学しました。

高校に入ってからは、サッカー部ではなく
ラグビー部に入部しました。

元来、飽き症の私はサッカー以外もやってみたいと
思ってラグビー部を選びました。

このラグビー部で大変なことになるとは知らずに・・・

高校時代はとにかく部活三昧でした。

朝から夜まで常に部活でした。

朝練をして、夕方も練習、その後は夜まで筋トレととにかく
一日中、ラグビー三昧でした。

もちろん、土日も当然、部活です。

練習だけでなく、遠征で大阪や徳島の高校ともよく試合をしていました。

また、夏休み冬休みももちろんありません。

あげくの果てには高校生活の一番大事なイベントである修学旅行も
ラグビーの練習のために参加できませんでした。

ラグビー部では運よく高校2年生からレギュラーとして活躍していました。

私は身長が181センチあることもあって、フォワードのロックとフランカーをしていました。

ただ、こんなに頑張って部活に励んでいたのに
高校3年生の最後の大会では1回戦敗退という
最悪の結果に終わりました。


■友だちのまったくいなかった浪人時代

大学受験は、高校時代に部活しかしてこなかったおかげで
見事に失敗しました。

そして、大阪の予備校に通うことになりました。

私が通っていた予備校は大手の予備校でクラスは一応あったのですが、
みんな自分の選択科目を受けるということで
あまりしっかりしたクラスはありませんでした。

元来が引っ込み思案な私は、あまり他の人に話しかけることができませんでした。

ですから、予備校時代の友だちはゼロでした。

1年間、通っていましたが、親しくなった友だちはまったくいませんでした。

それでは、さぞかし勉強がはかどったことだろうと
思うかもしれませんが、勉強も思ったほど成績は伸びませんでした。

結局、大学受験も第一志望、第二志望、第三志望の大学まで落ちました。

そして、なんとか引っかかったのが下関の大学だったのです。


■なんとか復活した大学生時代

大学時代はなんとか友だちを作ることはできました。

サークルにも沢山入りました。

まずは茶道部。

これまで運動部にしか参加したことがなかったので、一度文科系の部活に参加したかったので茶道部に入りました。

茶道を選んだのは「花の慶次」という漫画の影響です。

前田慶次はカブキモノと呼ばれる豪快な戦国武将でしたが、茶道もしっかりたしなんでいるというところにかっこよさを感じました。

そこで私も武士のたしなみを身につけたいと思って茶道部を選びました。

茶道部は結局、副部長を務めるまでになりました。

次に空手同好会に入りました。

これまで団体スポーツしかしてこなかったので、個人競技をしてみたいと思って空手を選びました。

強さにあこがれがあったのと、週3日という活動日数の少なさで選びました。

中学、高校とずっと部活ばかりやってきたので週3日の練習くらいが丁度いいと思いました。

でも、入ってから気づいたのですが、この空手同好会は極真空手をしていました。

すなわちフルコンタクト(実戦)空手でした。

だから、入ってからはかなり頑張って練習をしました。

そして、もう一つ入っていたのが、大学祭実行委員会です。

田舎の大学だったので大学祭実行委員会は結構、実力がありました。

ここでもいろいろな経験をさせてもらいました。



■突然おとずれた育ての母の死

そんな大学生活を謳歌していた私に再び悲しい知らせが届きました。

私を小学1年生のときから、亡くなった母に変わって育てくれた祖母がガンになったとの連絡を受けたのです。

私が大学1年生のときでした。

元看護師の祖母は自分の身体の異変にきづき、自分で病院に行きました。

そして、すぐに検査を受けました。

末期の肝臓ガンでした。

もうどうにも手のつけられない病状でした。

そして、肝臓ガンの発見から3ヶ月後の9月23日に祖母はこの世を去りました。

87歳でした。

祖母が亡くなる前の日は一緒の部屋で眠りました。

祖母が私に最後にかけてくれた言葉は今でも忘れられません。

意識もはっきりしない状態で最後に私に言ったのは、

「ご飯たべたか?」

という言葉でした。

自分が死ぬ直前まで私の食事の心配をしてくれていた祖母には感謝の気持ちしかありません。

祖母は私が大学生になって、安心したのかなと思います。



■大失敗した就職活動

祖母の死もありましたが、私は無事に大学生活を続けていました。

そして、大学4年生になって就職活動を始めました。

起業家志望もありましたが、まずは普通に就職活動を行っていました。

元来、人見知りの私は面接でいつも緊張をしていました。

そして、田舎の公立大学ということもあって面接では何十社も落とされました。

最後の最後で合格したのが、ダイエーでした。

ただ何か違うなという違和感を感じていました。

もっと将来の起業について役立つ仕事がしたいと思いました。

そこで、銀行という仕事が思い浮かびました。

でも、そう思ったのは4年生の10月だったのですべて就職活動は終わっていました。

そこで悩んだ私は思い切って一年留年して、もう一度就職活動をすることにしたのです。

そして、翌年また新たに就職活動を行いました。

ただ、銀行の壁は私が思っていた以上に厚かったです。

時は金融危機のまっただ中です。

ただでさえ厳しい銀行への就職がさらに採用人数を減らされていました。

ここでも何社も落とされて、もう受けるところがなくなった7月に福岡シティ銀行から連絡がありました。

「内定辞退者が出たので、もう一度面接を受けてみませんか?」

という連絡でした。

九死に一生を得た気持ちでした。

そして、念願の銀行に就職することができたのです。



■銀行の研修時代

銀行の最初の研修は2週間の泊まり込みの研修でした。

2週間カンヅメにされて、ビジネスマナーを徹底的に指導されました。

同期に東大卒の人がいました。

田舎の公立大学だった私は、変に彼にライバル意識を燃やしていました。

試験があれば彼に負けないように頑張っていました。

誰よりも出世したいと思っていたのです。

大企業の論理も知らずに。

配属先の発表の時にその現実を知らされることになります。

彼は当然、本店勤務。

そして私は小さな支店勤務。

大企業の論理を知らされた出来事でした。



■マーケティングと出会った銀行マン時代1

銀行では最初は預金係をしていました。

いわゆる窓口のお姉さんの後ろで仕事をしている人です。

事務処理ばかりを半年間やっていました。

そして、次に融資担当になりました。

融資の窓口でローンの相談などに乗っていました。

この融資の窓口時代に営業成績で地区の2位になりました。

1位は大型店だったので、実質的には1位でした。

私はここで初めてダイレクト・レスポンス・マーケティングに出会いました。

銀行のお客さんにオリジナルのチラシを作って郵送していました。

また、オリジナルチラシはATMコーナーの目立つところに貼ったりもしていました。

そしてそのチラシを見た人が私の窓口にまで来てくれました。

その戦略が成功して私の営業成績はいつもトップクラスでした。



■地獄のような銀行マン時代2

窓口の営業でトップクラスだった私は転勤して外回りの営業担当になりました。

銀行に入って4年目のことでした。

ただこの転勤が地獄のはじまりでした。

当時の私の上司である支店長は銀行でも5本の指に入る程、厳しい支店長でした。

昔ながらの営業スタイルで、月末になるとノルマを達成するまで支店に帰ることはできませんでした。

営業計画がなっていないということで、目の前で営業日報をビリビリに破られたこともありました。

毎朝、営業会議を行いますが、4人の同僚もみんな、支店長に怒鳴られないかとビクビクしていました。

営業担当としては一番若かった私は、当然のように支店長の標的になっていました。

毎日、毎日、数字を詰められて本当にギリギリのところまで追い込まれていました。

でも、
「ここで会社を辞めたら一生仕事が続けられなくなる」
と思って、歯を食いしばって頑張りました。



■流れが変わり始めた銀行マン時代3

そんな厳しい支店長のもとで1年以上しごかれた成果もあって、少しずつ営業の成績も上向いてきました。

そして、支店長が転勤して新しい支店長に変わってからは営業成績もぐんぐん伸びてきました。

そして、支店の営業マンの中で一番の成績をおさめることができました。

これも辛い時代を乗り越えたおかげだと思います。

そして、順調に営業の仕事をこなせるようになったのです。




■30歳になってから独立を目指す


営業にも慣れた入社6年目のころから、別の道を考え始めました。

学生の頃から考えていた独立の道です。

私もちょうど30歳を迎えていました。

銀行の仕事は結構上手くいっていたのですが、やはり将来を考えると、もっといろんなことに挑戦したいと思いました。

自分の上司を見ていると、あまり楽しそうに仕事をしていませんでした。

上司は確かに年収は1千万円以上もらっていましたが、楽しそうに仕事をしていなかったんです。

結局、上からの意見には従うしかないのです。

それを見て、自分が将来、5年後、10年後にそういうポジションになりたいかというと、なりたくありませんでした。

そして、銀行を退職する決意を決めたのです。



■度重なる転職での失敗

銀行を退職することになった私は東京に上京しました。

福岡で仕事をしていて、東京の話をお客さんなどから聞くうちに、一度は東京で仕事をしてみたいと思うようになっていました。

そして、東京に上京してきました。

東京に上京して、私はまず転職活動を行いました。

将来は独立したいと思っていましたが、この時点ではまだ何をするのかまったく決まっていませんでした。

ですから、まずは東京に慣れるために転職しようと思いました。

そこでいくつかの会社の面接を受けました。

ただ、私はその時、バカ正直だったので面接は散々な結果に終わりました。

たとえば、面接官から
「将来は何をしたいですか?」
と質問されたら

「将来は独立したいです」
と答えていました。

また、
「将来は何になりたいですか?」
と質問されたら、

「将来は社長になりたいです」
と答えていました。

こんなことを面接で言っていると
100%面接では落とされます。

もしあなたも面接を受ける場合は注意してくださいね(笑)

おかげで10数社、受けましたが
見事にすべての会社から落とされてしまいました。

そして、悩んだ私はある転職コンサルタントに方に
相談に行きました。

そこで言われたことは今でも忘れられません。

「30歳にもなって、独立したいなんて言っているヤツはクズだ。
 
 20代にヤツが独立したいというのは、まだいい。

 社会のことが分かってないから。

 でも、30歳にもなったら自分の身の程をわきまえないといけない。

 自分が人の上に立てるのかどうかを。

 自分の身の程をしらないといけない」

と言われました。

この言葉は自分にとってはとても衝撃でした。

私は、それまでなかなか勇気が出なくて、
30歳になってようやく、自分が学生のころから
夢を見ていた独立というものを目指すことができるようになりました。

それを真っ向から否定されたのです。

そこで私は大きな虚無感を感じるようになりました。

その出来事があってからは、転職活動を続けることができなくなってしまいました。

これからどうしようと家で一人引きこもってしまったのです。



■人生を変えた運命の出会い

転職活動を続けることが出来なくなった私は
知り合いの紹介であるセミナーに参加することになりました。

それはインターネットビジネスのセミナーでした。

講師は後の私のメンター(師匠)となる高城永地さんでした。

そのセミナーは、月1万円をネットで稼ごうという内容のセミナーでした。

最初は興味本位で参加しましたが、内容の面白さに引き込まれていきました。

そして、家に帰ってすぐにセミナーの内容を実践すると、
1ヶ月後には本当に1万円の収入が生まれました。

これが私とインターネットビジネスの最初の出会いでした。

そして、もっとインターネットビジネスを真剣に学びたいと思って
高城永地さんが主催していた「JIS(ジェイアイエス)」(現在のインターネットビジネス集中コース)というスクールの1期生として参加したのです。



■初めての独立起業


インターネットビジネスのスクールに入って、何を売ろうかと考えました。

そこで出てきたアイデアが、
「不動産投資で成功したい人向けの教材をつくって販売しよう」
というアイデアでした。

不動産については銀行で仕事上で関わっていました。

また、自分自身も29歳のときにアパートを1棟購入しました。

その経験とノウハウをまとめて、
これから不動産投資をしたい人に教えていこうと思いました。

そして、不動産投資の教材をつくって、
ホームページを制作して、無料レポートを作って
見込み客を集めました。

4ヶ月後には販売を開始しました。

そして、販売初月に50万円を売り上げることに成功したのです。



■失敗した販売戦略

ただ、順調に見えた不動産の教材販売の売上は
翌月には売上0円ということに事態に陥りました。

なぜ、急に売り上げが落ちてしまったのかというと
それには理由がありました。

それは、値上げを止めてしまったからです。

販売初月は売上を伸ばすために、毎週、値上げキャンペーンを行っていました。

値上げキャンペーンを行って、毎週締切を作ると、お客さんは焦って購入してくれます。

でも、値上げを止めてしまったらパタっと売上が止まってしまったのです。

そこで私はこう考え直しました。

「もっと真剣にお客さんの悩みと向き合わないといけない」

それまでは、姑息なテクニックを使えば売上が上がると思っていましたが、
そんなものは長続きしないのだと悟ることができました。

ビジネスは一時的に売り上げが上がっても意味はありません。

継続できるかどうかが一番重要です。

そのためには、もう一度、自分のお客さんと向き合い直して
商品を作り替える必要がありました。

そこで、再びお客さんのリサーチを行いました。

「お客さんがどういうところで困っているのか?」

「お客さんは何を必要としているのか?」

というのを、インターネットとオフラインを駆使して
徹底的にリサーチしたのです。



■成功したインターネット販売

そして、リサーチ結果をもとにホームページや商品を
全面的に改定しました。

それまでのターゲットは漠然と不動産投資をしたい人でしたが、
リニューアル後は
「これから1棟目のアパートを買いたい人」
にターゲットをしぼってホームページや商品を作り直しました。

そのおかげで、メッセージが分かりやすく伝わるようになって
売上が安定するようになったのです。

そして、4ヶ月後には念願の月100万円の売上を達成することができたのです。

その後、この不動産投資の教材は売れ続け
現在では累計4000万円以上の売上を記録しました。



■友人との会社の設立

不動産投資の教材販売で成功した私は
友人と一緒に会社を立ち上げることになりました。

私のメンター(師匠)である高城さんと野口さん、
JISで同期だった齋藤さんと小川さんの5人で
ジーニアスファクトリー株式会社を立ち上げました。

そして、会社設立後、わずか6ヶ月で売上1億円
粗利6,000万円を達成することができました。



■ネットビジネススクールでの講師活動

ジーニアスファクトリーでは主に
インターネットビジネススクールの事業部長として
活動していました。

運営からサポートまで全てをこなしていました。

のべ800名以上の起業家や経営者の方々にネットマーケティングの指導を
行ってきました。

東京だけでなく大阪や名古屋、福岡の方々にも指導を行ってきました。

私が指導してきた方々が新たに生み出した
売上の累計は8億円以上になります。




■新しい道へ

ジーニアスファクトリーでコンサルティングを行っている中で
速読などの脳力開発の分野で世界的な権威である川村明宏先生と知り合いました。

川村明宏先生の脳力開発はとても素晴らしく私は感銘を受けました。

特に速読に関して、川村先生は30年以上の指導実績を持たれています。

私自身も5年程前に別の速読講座に通いましたが、習得することはできませんでした。

「速読は特殊なセンスや才能を持った人しか身につけられないのかな・・・」

とあきらめていました。

そんなときに川村先生から速読の指導を受けて衝撃を受けたのです。

あれほど、勉強しても身につかなかった速読が
川村先生の指導を受けていくとみるみると読書スピードが伸びていったのです。

半年後には1冊1時間程度で読めるまでに成長していました。

そして、速読を身につけたのは私だけではありませんでした。

私と一緒にトレーニングをしていた方々も全員が読書スピードを
上げていたのです。

この成果に私は驚嘆を覚えました。

これはもっと多くの人に広めていかないといけないと強く想いました。



■日本脳力開発協会の設立へ向かって


そこで、川村先生と相談をして
速読などの脳力開発をもっと多くの方に広めていくために
日本脳力開発協会という団体を設立することにしたのです。

この協会では、単に速読を教えるだけではなく、
速読などの脳力開発を教えられる先生を沢山生み出していくという目的で
設立しました。

これまでごく一部の人にしか知られていなかった脳力開発のトレーニング法を
多くの講師を育成して、多くの人たちに正しい脳力トレーニングを広めていきたいと想ったのです。


また、起業家や経営者の方々を指導していく中で脳力開発の重要性を感じていました。

ビジネスには情報収集力がとても重要になってくるのですが、
多くのビジネスマンの方が、情報収集力が弱いという欠点を持っていました。

その解決策として、脳力トレーニングを取り入れて
ビジネスの活性化に役立ててほしいと思ったのです。

そして、現在では発足1年で60名以上の講師の育成を行っています。

また、NHK学園やよみうりカルチャーセンターなど
延べ13校で速読や記憶術、視力回復の講座を開講しています。

今後は日本全国に脳力開発のインストラクターを養成していける
組織を作っていきたいと想っています。

>日本脳力開発協会のサイト



■結婚する
また、私生活でも35歳のときにようやく生涯の伴侶を見つけて
結婚することになりました。

今後は一人だけの人生ではなく、
二人の人生を妻と一緒に作っていきたいと思っています。



■最後に

今回、私自身、自分の人生を振り返ってみて
本当にいろいろな紆余曲折があったと感じています。

これまでの成功は決して自分一人の力ではなく、
私を生んでくれた母と、育ててくれた祖母
そして父の影響がとても大きかったと思います。

この3人のおかげで今の自分がなりたっていると思います。

また、それ以外の方々にご指導いただいたおかげで
今の成功を掴むことができたと思っています。

そして、これからは私自身が学んできた
ビジネスのスキルや脳力開発のスキルをもっともっと多くの方に
伝えていきたいと思っています。

今、時代は混迷を迎えています。

私自身が迷って来たように
多くの人が人生の道に迷っていると思います。

その手助けをしていくことが、私がこの世に生を受けた
理由だと思っています。

私の使命は、すべての人が愛と勇気と知恵を持って
人生を昇華させていく手助けをしていくことです。

これからも元気に楽しくみなさんをサポートしていきたいと思います。

長くなりましたが、最後までお読み頂き本当にありがとうございました。

これからも何卒よろしくお願い致します。

坂本憲彦



なお、会社を辞めて独立した2006年10月から現在に至までの道のりは
mixiに掲載していますので、もしよろしければ見てみてください。

>坂本憲彦のmixi





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