『ウンジュよ』との出会い 大場久美子
わたしはこの作品に初めて出会ったとき、不思議な、そして感動的な体験をいたしました。
言葉の1つ1つが私の体と心の中に溶け込み、情景や登場人物の心情や動作が、あたかも自分がその場にいるかのようにリアルに伝わってきました。
たとえば、手榴弾が不発のため死ねなかった母親が、手をかけようとして一人息子を膝の上に乗せる場面では、わたしも膝の上にその息子の体重を感じ、子どもを抱きしめて雨にぬれた縮れ毛を撫でる場面では、私の掌にもその感触がじかに伝わってきました。
また、カミソリで自分の首を掻き切って倒れた母親が草の葉から落ちる雫を見ている時のシーンとした静けさは、わたしがこれまで体験したことのない世界でした。
そういう体験が作品の至る所にあって、私はこの作品の虜になりながら、最後まで一気に読み進めることはできなかったのです。
言って見れば、わたしは作品の中の1つ1つの言葉の雨に打たれながら、何度も立ち止まっては作品の世界を疑似体験していたのです。
初めての経験でした。
わたしがなぜいま『ウンジュよ』なのか、それはわたしがこの作品に捕えられてしまったからというのが現在の答えですが、今後役者として語り続けることを通して、もっと違う、別の答えがいっぱい出てきそうな気がしているのです。
なぜなら、この『ウンジュよ』は、たしかに戦時中の「集団自決」を題材にはしていますが、同時に、現代社会の状況に通じるものがあり、また、わたしたちの普段の暮らしのなかの身近な死や愛や命という普遍的な問題をも提起していると、わたしは考えるからです。