やかたのオヤジより
食べるのは当たり前、と思っていることをあらためて振り返ってみましょうか。賢明なる読者のみなさんは、そんなことは百も承知だよと、途中で退屈されるかも知れません。
そもそも「食べる」ことは、日常的に当たり前すぎて、ほとんど無意識に繰り返しているだけで、ある意味では、退屈この上ない行為でしょう。一方で、時々「食べる」ことを実感出来る演出があります。それがご馳走です。ですが、ご馳走だけでは広く一般的な「食の文化」は語り切れません。
また今流行のグルメには、気ままで個人的な趣味嗜好に頼っているだけで、脈絡が感じられません。というよりも、情報化の時代にあって言うなれば、他人のすることに便乗しているに過ぎません。そのことは、こうして自身が情報を配信しているものの、ほとんどの人はその情報を食べているに過ぎず、店全体に流れる空気を楽しんでいるとは思えない人の多さからも感じ取ることが出来ます。
その上で、グルメを認じて「食べる」ことを押しつけがましく講釈しようとは思いません。それぞれに、状況に応じて美味しく食べられればそれでよいのであり、突き詰めれば、美味しいかまずいかを問わずに, 「食べる」ことの意義のみを知ることがあってもいいのではないかと思います。
わたしは、私たち日本人の「食の奇跡」に興味があります。「食の軌跡」は、つまりは「食の文化」です。文化とは、ある社会や集団が持っているクセと、平ったく解釈しています。
ということで、日本人の「食の文化」とは、私たちが歴史を通じて「食べる」ことを繰り返してきた、その奇跡の中に共有するクセであると思います。このクセは、案外当人たちは気づかないまま持ち続けています。つまり当たり前のことと思っているのです。
国際化が唱えられるご時世、なんて大袈裟には構えませんが、私たち日本人が気づかないままにやり過ごしていたり、あるいは気づいても当たり前に思っているクセは、海外に長く滞在して異民族に接したり、海外から来日した人たちの目を通してみることで、あらためて明らかになる可能性があります。
「茶碗まで噛むように、ご飯を短い箸で口いっぱいにかきこむのは、お行儀の悪いように思われるかも知れませんが、実は、しかじかかような歴史がございまして、私たち日本人の文化というものであります……」などと、ちょっとした「食卓の小咄」として、にっこりと笑って語ることが出来たら、愉快なことではないでしょうか。
家に家風があるように、国にはお国柄というものがあります。「食べる」ことを通じて、そのクセを認めあえたら、相互の理解は深まるはずです。真の国際化というものは、案外そうした身近なところにあるのではないでしょうか。