伊藤卓也(いとうたくや)と申します。
通称「たくちゃん」(^^)v
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『普通の人が社会を変えていく』
そんなひとりひとりの力を大切にする社会にしたい
それが、ぼくの人生のテーマです。
ひとりひとりが力をもった社会は、
「One for All. All for One.(ひとりはみんなのために。みんなはひとりのために。」
という姿の社会。
「未来の子どもたちから預かった今をどう生きるか?」という問題を
みんなで考え、みんなで成長していく社会になると思います。
そのために、
【社会を変えるOne(ひとり)を育てる】
ことをミッションにしていきます。
仕事は、
自動車部品会社の総務部で顧問をしながら
ゴール設定をベースにした能力開発プログラムの研修講師とパーソナルコーチ
、ビジネスコーチをしながら、
広く、まちづくり活動などにも取り組んでいます。
【プロフィール】
少〜〜〜〜し長いですが、正直に書きましたので、
一気にご一読くださいませ。
【たくちゃん誕生♪】
1968年(昭和43年) 三重県四日市市生まれ
昭和43年は明治維新から100年後
国民総生産(GNP)が自由世界2位になった年です。
・アニメ『巨人の星』が日本テレビで放映開始。
・阪神の江夏豊がシーズン354奪三振の日本記録を達成
・アメリカ初の有人宇宙船「アポロ8号」打上げ。
社会が活気づき、とても勢いのあったとき、
反面、
・三億円事件
があったり、公害問題や学園紛争など社会問題が深刻になった年です。
【保育器で育った赤ちゃん】
未熟児で、保育器がお母さんがわり。
その後遺症ではないか、と診断されているのですが、
右目、右耳、が物心ついたときより悪く、
特に、耳は今も聞きづらくて困っています(>_<)
【泣き虫で自己主張の苦手な小学校時代】
■茨城県波崎町立植松小学校
コンビナート勤めだった父親の転勤で、
2歳から14歳(中2)まで房総半島の先っぽ
銚子の対岸の町、茨城県鹿島郡波崎町で育ちました。
蓄膿症、皮膚炎などアレルギー症状に悩まされる少年時代。
体中から血が噴き出して、イライラした〜~~。
その影響もあってか、すごく人の目が気になり、欝的な気質がありました。
友達が遊んでいるそばで、ずっと声をかけてもらうのを待っていました。
といっても、通信簿にはいつも「落ち着きがない」「おしゃべりが多い」
と書かれていたので、友達がいないわけでもないし、
いつも仲間には入れてもらっていたんですけどネ(^^)v
4年生のころ、赤いおしっこが出た!
腎臓病で2ヶ月学校を休んだときに、本が好きになりました。
その後、校内読書感想文コンクールではいつも一番。
何度も繰り返し読んだ本は灰谷健次郎の「太陽の子」。
戦争犠牲者の話や差別に関しての書籍をよく読んでました。
以来、本の虫で、今でも、お金がなくても本だけは買ってしまいます。
親はしつけに厳しく、テレビは1日30分までとか決められていました。
「学校では先生のいうことをよく聞きなさい!」
と耳にタコができるほど言われていたお陰か、
夏休みの宿題をひとりだけ全部やって褒められたり、
先生には比較的かわいがられました。
認められたい一心で勉強もがんばり、
高学年になるにつれ成績をあがり
高学年になるといつも級長、
6年生のときには児童会長に選ばれ……
でも、そのとき先生方に囲まれて、
「君は思ったことをしゃべれないから、辞退しなさい。」
と言われたことを今でも思い出します。
(でも、先生には「やります。」といってやりましたけどね。)
大人から見て相当にわかりにくい子供だったのだと思います。
泣き虫で
自分に自信がなく、人の反応をうかがいながら
その場をとりつくろう嘘をよくついていました。
そんな自分が嫌いでした。
得意なことはエレクトーン。
茨城県代表になったこともあります。
国語の教科書で田中正造と宮沢賢治という人を知り、感銘を受けました。
田中正造は国会議員として、
足尾銅山の公害事件を取り上げて戦い続けた人であり、
宮沢賢治は美しい物語を書きながら、
農村の生活向上と青少年の未来を願って身を粉にして働いた人です。
担任の先生から「自己犠牲」という言葉を教えてもらい、
「君たちみんなにとは言わないが、この中からひとりぐらい
自己犠牲の精神で身を捨てて人に尽くす人が育ってほしい」
と言われたときに、
心の中で激しく「自分がそうなる」と誓った記憶があります。
【自分を変えようと試みた中学生時代】
■私立清真学園中学→四日市市立笹川中学校(3年時転校)
「環境を変えて自分を変えてみたい、
きちんと自分の意見をいえる人になりたい」
と思い、
私立中学校を受験し、片道2時間近くかけて通いました。
通学時間が長くてクラブ活動はできませんでしたが、
友達との帰り道にオフコースなど、
そのころニューミュージックといわれた音楽を教えてもらい、
レコード屋に立ち寄ったりする道中が結構楽しかった。
「目立とう精神」という言葉をつくって、
冗談をどんどん言ったり、明るくふるまい
クラスの人気者にもなりました。
成績は、上がったり下がったり、ムラが大きく、
好きな科目は数学、苦手は地理。
地理は15点とか20点とかで、友達からは地理バカと言われていました。
中学3年時に、親の転勤にともなって茨城県から三重県に引っ越し。
転校してからは、前に通っていた学校の勉強のペースが早かったこともあり、
テストは全部100点で、校内の様々な賞を総なめし、圧倒的に目立ってしまいました。
いつも友達に囲まれていましたが、
大人への身体の変化が人より早く、
精神的なバランスがよく崩れそうになり、
長く人と会いたくない状態に陥ったり、
学校をやめたくなったりして親を慌てさせたこともあります。
「将来何になりたい?」という友達との会話の中で、
「自動車整備士になりたい、鉄道の運転手……」などなど、みんなの声。
でも、ぼくは何もうかびませんでした。
でも、辛うじて思いついたのは、
「ぼくは、みんながなりたいものになるのを応援したい」という言葉でした。
中学3年生の文化祭のテーマは
「無限の可能生を開発しよう」
ぼくが提案したテーマが採用されました。
人間にはもっともっと可能生があるはずだ。
そんなことを、そのころから考えていたんですね。
【充実した高校時代】
■三重県立四日市高等学校
中学校1、2年時に私立の進学校に通っていた貯金がまだ生きていて、
ある程度のテストの点をとることには苦労しませんでした。
このころのニックネームは”ポチくん”
後輩からは”ポチ先輩”
クラブはブラスバンド。
はじめトランペットをやり、あまりうまくならずに
パーカッション(打楽器)担当に変更。
ドラムをたたくのは楽しかったし、少年時代にエレクトーンをやっていたので、
4本の手足をバラバラに動かすことはさほど苦労しませんでした。
県代表として東海大会にも出場。
後輩によく悩みごとを相談されました。
主に友達関係のことでしたが、そういうふうに頼られるのは嬉しかったなー!
初恋がこのころ(かな?)
彼女と帰り道一緒に帰るようになりました。
生徒会活動にも加わり、生徒会長だった友人とはその後、親友づきあいをするように!
彼は政治家志望の男で、
彼にならすべてを投げ打ってもいい、
と思わせる魅力的な男でした。
誕生日であるバレンタインデーは20個ぐらいチョコをもらっていました。
上には上がいたが、まあまあのレベル。
こんなに恵まれた高校時代なのに
時々、どーんと鬱状態になることもあり、
心の中にいつも孤独感と不安、自信のなさがありました。
【はじめて独りで暮す】【はめをはずして遊んでいた大学時代】
■慶応義塾大学 法学部政治学科
高校からは推薦入学で大学に合格。親元を離れての一人暮らし。
はじめ、体育会で合気道に夢中になっていましたが、
生活があまりにも合気道一色になりすぎ、
退部して、興味の向いたことにいろいろと首をつっこむことになりました。
共産党系の運動に誘われて一回で懲りたり、
ラテンアメリカ音楽のサークルを立ち上げ、でもあまり続かなかったり、
邦楽サークルで尺八をやってその部長もしました。
安酒の飲み会や、新しい彼女とのつきあい、そんなことが楽しく
勉強は単位を落とさないようにノートを借りて試験前の一夜漬けでした。
また、高校時代に読んだ本に感銘したのがきっかけで、
仏教学者 紀野一義先生が主催する仏教の勉強会には熱心に通いました。
高校時代から精神世界や自己啓発、仏教の本などをかたぱしから読んでいて、
「生きるとは何か?」みたいなことを考えたり議論するのが好きでした。
「〇〇は○○でなければならない。」という杓子定規の教えではなくて、
白も黒も灰色も包み込んでいくような仏教の世界観が好きで、
夏には高野山で仏教の勉強会の合宿に参加。
西野流呼吸法やTM瞑想、気功法などを習いにいった思い出もあり
好奇心旺盛な大学時代でした。
【寝る間を惜しんで仕事をした最初の就職】
■経営コンサルタント (株)船井総合研究所勤務(3年)
■健康器具開発、販売会社 営業・経理(2年)
まだバブルの中、ジュリアナ東京! が全盛期のころに・・・
友人は次々と大手有名企業に就職を決めていく中、
就職活動の方向も定まらず悶々としていいました。
子供のころ、
高校出の父親が大学出の若い上司の愚痴をいいながら
ビールを飲む姿を見て育ったぼくは、
サラリーマンになることがいいものだとは思えませんでした。
「おまえは、大学に行け。」とさんざんに聞かされて育ち
「大学を出たら親への義理を果たした。あとは自分の好きなように」
といった気持ちがありました。
社会やお金が汚いものだという感覚をもっていました。
そんなころ、経営コンサルタントという仕事があることを知ったのです!
「素直、勉強好き、プラス発想」が伸びる経営者の条件で、
長所をのばすことが経営のコツ
という風変わりなことをいう船井幸雄という経営コンサルタントを知り、
「誰かのサポートをする仕事をしたい」という思いと、
「経営を勉強すれば、いずれ独立して仕事できるかもしれない」との思いで、
会社訪問。
運良く、とんとん拍子に採用となりました。
先輩にも恵まれ、ほとんど家に帰らないでがむしゃらに仕事、仕事。
その頃覚えたのは、
オフィスの椅子が3つあれば寝れること。
気分を変えたいときは飲み屋に行って、そのまま会社に戻って寝ないで仕事。
羽目を外しすぎて、飲み屋の女の子から会社に電話があったときには焦りました。
競合店調査ということで、小型のテープレコーダーを懐に隠して、
クライアントのライバルの宝石店や衣料店、食品店、寝具店などの品揃えを
小声で吹き込んでくる仕事は、冷や汗もので、
寿命が縮まる思いがしました。
店内の様子を隠し撮りし、歩測して店舗レイアウトを写し取ったり……。
昨日まで大学生だった新卒社員が、いきなりコンサルティングなんてできるわけがない……。
調査調査の毎日で、売れる店、売れない店を体で覚えながら、
やがて、
出店計画、チラシづくり、店舗レイアウト設計、品揃えの設定、
仕入れ担当者の教育などができるようになりました。
お客様が目から鱗が落ちるように膝をたたいて反応してくれるのは楽しかったし、
誇らしかった。
経営コンサルタントの結果は売上げとしてすぐに出るので、
いかに売るか、いかに人を集めるか、
そんなことを休む間もなく考え、悩むと街に出ていろんな店を見て回りました。
大好きな上司にも巡り会いました。
「It's the spirits that makes the world go round.」
世界を動かすもの、それは情熱である。(サン・テグジュペリ)
という言葉を教わった思い出は忘れられません。
時には大目玉をくらった元アイスホッケーの日本代表チームの上司は、
ぼくが入社2年目のときにお亡くなりにました。
その上司から教えていただいたことは、業種業界が変われども自分が仕事を続ける限り、
守っていこうと思っています。
入社3年がたったとき、もうひとり、
敬愛していた1年上の先輩が実家の商売をつぐために退職しました。
その後を追って、先輩の健康器具の会社に入り、
そこでは、あまり、健康器具を売る事ができず、営業から経理に変わりました。
結局、後で出てくる親友の選挙のこともあって
2年で会社をやめることになって、先輩には申し訳なかった、と思っています。
【人生の曲がり角? 選挙に出る】
■1994年 26歳のとき、友人が県会議員選挙に立候補した時に、
会社をやめて選挙事務所の責任者として従事。
■1995年 国会議員の秘書(浪人時代3年を含む)
■2007年 39歳、県会議員立候補 落選
■2009年 秋、政治の世界を離れて、自分の針路を模索
■2011年 春、政治からの撤退をお世話になった方々に宣言した。
26歳のとき、松下政経塾で勉強してきた親友が地元に戻り、
「県会議員に挑戦したい。」と相談してきました。
彼によると
周囲のみんなが引き止める中で、
ただひとり、ぼくだけが「やりなよ。」と言ったそうです。
新人には厳しい田舎の土地柄で、20代の世間知らずの自分たちが
町中にポスターを貼り、街頭演説をしてチラシを配り
一軒一軒訪問して……といった活動をしているうちに、
これまで選挙になじみなかったいわゆる「素人」が徐々に集まってきて、
次第に事務所の形をなしてくるようになりました。
ぼくは、昼食を抜いて給与をつぎ込んでといった感じでのめり込んでいき、
その内に事務局長として中心的な役目をつとめるようになりました。
そして、「えいやっ」と会社を辞めて選挙事務所で寝泊まりするように!
現職の壁に素人軍団が挑戦。
毎日、土下座して泣きながら頼んでという毎日を繰り返し、
1万2000票以上を獲得しましたが、最終的には259票差で落選。
ぼくは、悔しくて
選挙を勉強したくて
ちょっと縁のできた自民党の国会議員の秘書になり、
以後、15年間政治にかかわることになりました。
友人は県会ではなく1996年の衆議院選挙に臨み、
ぼくは再び事務局長を務めましたが、
敗退し、政治の世界から退きました。
もともと政治にかかわる気のなかった
ぼくなのに、運命の不思議で
その後も国会議員の秘書を続け、
その事務局長をつとめるようになりましたた。
ぼくが仕えた代議士は、
参議院議員から衆議院議員に転身して
日本有数の巨大な組織力をもつ大物政治家にぶつかりましたが、
敵いませんでした。
以後、何度か対決したが、票数ではかつことができずに、
2回落選し、
2回比例区での復活当選をしています。
他にも国政、地方選挙の応援に多数駆り出され、
20ぐらいの選挙を経験。
次第に選挙をプロデュースする力もついて、
自分が責任をもつ選挙で勝利をおさめることができるようになりました。
ぼくが
好きで
得意なのは
組織のない草の根選挙。
一票ずつ丁寧に積み上げる選挙。
ただ、
声の大きな人の声がやっぱり強く
お金をもっている人がやっぱり人を大きく動かし
、
自分の利益のために政治家に要求をつきつけてくる有権者や
様々な人間模様の中で、
人が人をコントロールしようとして争う姿に疑問を覚えるようになりました。
1年ほど選挙を離れて自分をリフレッシュ。
マクロビオティックを基礎とした断食道場でアトピー性皮膚炎を治したり、
インドまで瞑想しに行ったり……。
仕事以外の悩みもかかえ
自分の存在を消してしまいたいぐらい行き詰まっていました。
この期間をとってよかったのは、自分を徹底的に洞察し、
自分の弱さや醜さを受け入れ、ありのままに生きることができるようになりました。
「みんなといてもひとり」という孤独感が常に自分の中にあったのですが、
それがいつの間にか消えていきました。
2004年36歳の時、10年来のつきあいを経て今の家内と結婚。
そして、再び選挙の世界に戻り、自分なりの考えを訴えて、
自分が選挙に出てみたいとも考えるようなりました。
2006年夏、翌年の県会議員への立候補を決定。
仕えていた代議士から選挙区を変えるように依頼を受けたり、
妨害工作があったり・・・
いろいろありました。
政治の舞台に反映されないような
小さな声を拾って歩きたいと考え、ひたすら一軒一軒歩きました。
選挙戦のスローガンは
「つながり。」
「地域社会の絆を再生よう。」
「生きる力の弱い人が暮らしやすい社会こそ、
誰もが暮らしやすい社会という視点で政治を見直していこう。」
長年選挙をやってきた自分としては、実に素人くさい選挙。
こんな稚拙なことでは勝てないと頭ではわかっていても
軍隊に竹槍で戦ってみたい。
「共感してくれる人を増やす」という
シンプルな方法で戦いたいと思っていました。
11,000票強を頂いたものの小差で落選。
応援してくれた人にどう報いるか、もう一度挑戦するかどうか悩み、
国会議員の秘書に戻り、考えましたが、
2009年の夏には秘書をやめ、
2011年春、政治を離れることを宣言し、
お世話になった人たちに詫び状を送りました。
選挙や政治は多数決の世界。勝ち負けの世界。
少数の人の声を拾うというのはきれいだけれど、現実的ではありませんでした。
法律やしくみを変えて
日のあたらない人を助けるのではなく
その人たちを後押しして
社会を変えよう
そう決意しました。
【2009年11月より】
自動車部品会社の顧問として経営分析や人事制度改革の仕事をしながら、
世界的なコーチ ルー・タイス、脳機能科学者 苫米地英人の指導を受けるようになりました。
そこで、人生のゴールを明確にすることの大切さを学び、
人間の可能生を引き出して、未来を造り出していく方法を学びました。
自信がもてず、いつも卑下していた自分を、
価値ある人間だと思えるようになりました。
嫌いだった自分が好きになりました。
やりたいことにどんどん挑戦して
どんどん実現させ
自分の世界を変えることができるようになりました。
子どものころから
「誰もがすごい力を秘めている
そのことを確認したい」
「いつかそれを実証するんだ」
そんなことを考えてきましたが
ようやく
その方法がわかりました。
社会制度を変えることから
取り組むのではなく
ひとりひとりと丁寧に向き合って
何のための人生でありたいか?
自分はどうありたいのか?
何を達成したいのか?
といった
ぶれない人生の軸を定めていく
お手伝いをすることによって
普通のひとりの人が
自分の今いるところから
社会を変えるようなリーダーシップを発揮していく
そんな社会をつくりたいと願っています。
そのために
どん欲に
様々なチャレンジをしていきます。
そんな楽しい挑戦の
人生でありたいと思います。

