ずっと一途に「
プロサッカー選手になる」という夢を追い続けるも、大学卒業後、Jリーグチームに入団する事はできなかった…(2002年。当時「22歳」)。夢に破れ、「もうサッカー辞めよう」と決意するも、母校の高校サッカー部でコーチを務める中で、再び「サッカー」に対する情熱を取り戻す。
半年間のコーチ業の後、2002年9月より中国へと渡る。自身の人生の中で「初」となる、「海外生活」が始まった。そしてこの選択が人生を一変させる。中国の地でも「プロサッカー選手になる」という夢を追い続けたが、「外国人GKは中国プロサッカーリーグに参加する事ができない」という中国サッカー協会で定められた規則があるため、チャレンジする事さえできなかった。規則を変えてもらうべく中国サッカー協会に単身、乗り込んで交渉もしたが、「中国でGKとしてプレーしたいなら、中国人になるしかない」と言われ断られる。万事休す。しかし僕は決して諦めなかった。絶望的な状況の中、中国語を習得しながら天津市内の大学でトレーニングに励み、チャンスを信じてひたすら待った…。
中国で待つ事「1年」。天津の語学留学先で知り合ったアメリカ人の友達から1本の国際電話が入る…。「アメリカでプロサッカーチームのトライアウトのチャンスが見つかった」との一報だった。中国ではサッカー協会の規則もあり、挑戦する事さえできなかった。1年間、待ちに待ってようやく巡ってきた「チャンス」。僕は迷わず「アメリカ行き」を決断…。2003年12月。旅行カバンにサッカー用具だけ詰め込み、初めてアメリカに渡る…。
アメリカでは苦難の連続だった。そもそも文化に馴染めない。国全体を覆う「負のオーラ」に悩まされる。その後も数々の国を渡り歩いたが、アメリカは残念ながら最も自分に合わなかった。2005年6月。ついにアメリカを出る決心をする。…が、次の行き先が決まらない。しかしルームメイトがたまたまホンジュラス人で、彼の「父がYojiにチームを紹介できる」という言葉だけを頼りに、未知の国・ホンジュラスへと初めて足を踏み入れる事となった…。
ホンジュラスに初上陸。しかしせっかく来てみたら「父がYojiにチームを紹介できる」という言葉は嘘だった事が判明…。僕は突然ホンジュラスの地に1人、取り残される事となった。もちろん、知り合いは皆無…。しかも治安が悪く危険な国なので、うかつに行動する事さえできない…。それでも僕の心は決まっていた…。「このままプロになれないなら、死ぬのと同じだ」…僕は正に死ぬ覚悟で、ホンジュラスでたった1人、プロを目指した危険な活動を開始した…。
活動は困難を極めた。何度も失敗し、絶望し、時には命の危険にもさらされた…。お金も底をつく…。しかし、僕は初めての海外生活の地である中国、そしてここホンジュラスにて、人生における最も大切なものを学んでいた…。それは…「根性」でも「忍耐」でも「努力」でもなく…「
笑顔」。
数々の修羅場を「笑顔」でどうにか潜り抜け…。2005年12月…。とうとう「その瞬間」はやってきた。
ホンジュラスの地で「日本人初」プロサッカーチームと契約締結。その時、僕は「26歳」になっていた…。本気で「プロになりたい」と思い始めた中学1年生の時から数えて13年の歳月を経て…ついに人生最大の「
夢」が実現する。
2010年5月より、「
アルビレックス新潟シンガポール」のGKコーチ兼選手に就任。
人生は本来、楽しいものだ。一度しかない人生…「笑顔」で生きた方が得に決まってる。「笑顔」は全ての不可能を「可能」にする。「ありえない!がある!」人生を「笑顔」でとことん楽しもう!!
※前ブログに、世界各国を渡り歩いた詳しい活動内容を記録。→「
★★★26歳からのプロサッカー人生!不可能を「可能」にするブログ★★★日本→中国→アメリカ→イングランド→ホンジュラス→ジャマイカ→パナマ→オーストリア→??? 」
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